8 扉の記憶Ⅰ(修正版)
まず目に飛び込んできたのは、奥壁の窓越しに見える中庭だった。外のまぶしさのせいで、室内がずいぶん暗く感じる。
「これは……太陽の光か」
瞳を小針でつつかれるような痛みに、ティアは何度も目を瞬かせた。
白くぼやけた視界のなか、室の内装には見覚えがある。
対流する埃。
窓の前に置かれた机から、逆光になった人影が立ち上がった。
「――帰ったか」
抑揚にとぼしい声音、それでいて愛情のこもった響きに、どくり、とティアの心臓が大きく跳ねた。淡い光に縁取られた人影を前に、凝然と立ちつくす。
「……父上?」
漏れ出た言葉とともに、灰褐色の瞳が揺れた。
懐かしい、見覚えのある家具たち。
羊皮紙とインクの匂いに、胸が詰まりそうになる。
「どうした?」
逆光のなか、父親らしき影が訝しむように机を回ってくる。ティアはまぶしさに顔をしかめながら、さらなる驚きに身を固くした。
「父上……」
「何だ?」
と、やや首を傾げたような素振りを見せる影は、その影によって顔を失っていた。
頭はある。髪も、頬から顎先にかけての輪郭もある。
なのに、そこに収まるべき瞳や、鼻や、口などの顔に関わる部位のすべてが、ぽっかりとした影に呑み込まれている。
異様だった。
ティアはごくりと唾を飲み、気取られぬよう、そっと後ろ手を持ち上げた。
――黒雷。
ティアの背に隠された右手が、バチリと黒い光を帯びはじめる。
――妖の見せる夢ならば、白日の下に晒す……。
影の顔をにらみつけようとした時だった。
「どうした?」
顔の見えない、それでも父親であるはずの手が、無造作にティアの頭の上に置かれた。
「あ……」
その瞬間、ティアの右手の黒雷が、しぼむように霧散してしまう。
「体調でも悪いのか?」
頭に置かれた手が、ティアの額へと移った。
「熱があるのか」
つぶやくような、たしかめるような口調に、ティアは食い入るように父親の顔を見上げた。だが、どれだけ見つめようとも影は影のまま、底なし井戸のような闇が広がっているばかり。
「いえ……」
ようやっと、ティアは首を振った。
「平気……です……」
絞り出すように言って、深くうつむく。
いったい、どんな表情をすればいいのか。
胸を締めつけられるような懐かしさは、ある。あるのに……顔が見えないせいか、どうしても父親だという確信が持てない。
なつかしさと、確信の持てない違和感。
逃げるように視線をさまよわせた時、ティアは壁にかけられた鏡に気づき、目を見張った。
鏡に自分の顔が映っていない。
――私も、なのか。
ティアは自分の顔に指を這わせた。指先が、ちゃんと目に触れる感覚があった。鼻があり、口もある。
それなのに、鏡に映る自分の顔は影になっている。
――何が起こっている?
「何が……」
動揺するティアを、父親がじっと見下ろしている。言葉もなく、ただ見つめられる不気味さに、ティアは一歩、足を退けた。
――わからない。
目の前に立っているのは父親なのか、父親ではないのか。
その時だった。
「お兄様!」
ドアがいきおいよく開き、誰かが部屋のなかに飛び込んできた。
「ずぅっとお待ちしていました。もう、お兄様ったら! 帰ったのならそう言ってくださればいいのに」
溌剌とした少女の声に、室の空気まで軽くなる。
「……ナナ?」
思わずティアの口をついて出た、タオの妹の名。だが、こちらはすぐに妹ではないと知れた。声と口調がまったくちがう。
「静かにしないか、プリネイア」
「いやです。お父様はお話が長すぎます」
「積もる話があるのだ」
「私にだってあります」
話を聞くにつけ、どうやらふたりは父娘らしい。はじめて聞くプリネイアという名前に、やはり、という思いが強かった。
――やはり、この影は父上ではない。
安堵する心と、寂しく思う心が半々。
とはいえ、そうなると別の問題が持ち上がってくる。
――自分は誰なのか?
このプリネイアという少女が自分を『兄』と呼んだ以上、自分がこの見知らぬ家族の一員であることはわかるが、ではなぜその『誰か』に自分がなっているのか。
不可解なのはそれだけではない。
――なぜ自分は、この部屋に懐かしさを覚えるのか。
はっきりとは思い出せないが、この室が、シフルの屋敷にあるタオの父親の書斎に酷似している。それどころか、まったく同じものだという気さえする。
わからないうちに、プリネイアと呼ばれた少女が、ティアの手を取った。
「お父様とのお話はそれぐらいにして、ほら、お兄様、行きましょう!」
「行くって、どこに?」
腕を引っ張られながら、ティアがあわてて尋ねると、
「デートに決まっています」
嬉々とした答えが返ってきた。
◇
その街は、村と呼ぶほうが適当なほど、ちいさく、貧しい集落だった。周囲をなだらかな牧草地がひろがり、遠目にぽつり、ぽつりと林が点在している。
「落ち着く眺めだ」
どこか寂しい景色ではあるが、心が和らいだ。
シフルではない、ように思える。だが、本当にちがうのかと問われると、どうにも頭に靄がかかったように、ちがうと言い切る自信がもてない。
――私は夢を見ている。
それは間違いないことらしい。だが……。
ちらりと横を見ると、気づいたプリネイアがこちらを見返してくる。
「プリネイアはよく馬を操る」
それぞれが馬に乗り、川辺の土手道を登った。
「最近、私が馬に乗ると、お父様が嫌そうな顔をするんです」
プリネイアが溜息まじりに首を振った。
「もっとおしとやかにしろと?」
「暗にそう伝えてくるのです」
「父上らしいな」
ティアは適当な相槌を打っておいて、
「プリネイアは、何歳になった?」
「15歳です。――お兄様、私の年齢を忘れてしまったのですか?」
「そういうわけじゃない」
さらりと言ったものの、プリネイアの影の顔が、じっとこちらを向いている。悪意がないのはわかるが、影に無言で見つめられるのはどうしても慣れない。
「だから私はお兄様の山籠もりには反対だったのです」
プリネイアが、声を荒げて言った。
「山籠もり?」
「お兄様はずっと、『師匠』とかいう人の庵に住んでいらっしゃったのでしょう? 殿方として、強くあるべきとは私も思いますが、妹の年齢を忘れるほど家を離れるなんて、やりすぎです」
「師匠……」
気になって訊いてみたところ、タオの師匠で間違いなかった。
どうやら自分は師匠の元での修行を終え、故郷に帰ってきた、ということになっているらしい。
――この夢は、私の夢でもあるらしい。
ティアが考えていると、
「お兄様、見てください!」
呼ばれて見ると、プリネイアが馬上に立っていた。両手を横に広げ、ふらふらと危なげにバランスを取っている。
「何を――?」
ティアが呆気に取られていると、ためらうことなくプリネイアが馬の背を蹴った。こちらめがけて飛び上がってくる。
「馬鹿!」
あわててプリネイアを受け止めたティアだったが、勢いに負けて落馬し、土手の坂をすべり落ちていった。
妹に傷がつかぬよう、強く抱きしめながら、なんとか坂の途中で身体を止める。
「なんてことをする」
怒気をあらわに言うと、押し殺した笑い声が聞こえた。
「昔は軽く受け止めてくださったのに。お兄様、修業して弱くなってしまっては元の子もありませんわ」
「……プリネイアが大きくなったんだ」
「まぁ、ひどい。私はすこしも太っていません」
「身長の話だ」
「変わっておりません」
黙り込んだティアの腕のなかで、プリネイアが笑う。坂の途中で頭を下に向けながら、ふたりで落ちていくような態勢だった。
聞こえるのは野草をわたる風の音と、川のせせらぎ。
その静寂に、ティアは気詰まりを感じた。
「……そろそろどいてくれ」
「どきません」
プリネイアの声音は落ち着いている。むしろ落ち着きすぎていた。これはよくないと思い、ティアはあわててプリネイアを横に置き、立ち上がった。
「父上の言うことは正しい。プリネイアはおしとやかさが足りない」
「おしとやかにした結果、お兄様の修行が終わるまで、私は何年も待たされることになったんです」
拗ねた口調ではあるが、どこか嬉しそうでもある。
プリネイアの表情は、やはり影に隠れて見えなかった。