7 城(修正版)
夢のなかで見た景色のような……。
森には深い霧が立ち込めている。肌を濡らす冷たい霧だ。それが樹々の間に溜まり、唐檜の濃い緑が浮かび上がるように道の上に伸び出ている。
「……城へと続く深い森」
馬車に揺られながら、ティアは低くつぶやいた。
常緑樹に遮られた森の下は、生命感に乏しい。うすい腐葉土の道を、二頭の巨馬にひかれた馬車が進んでいく。その手綱を握る御者は年老いた男のようだったが、何度見直しても外見が記憶に残らなかった。
道の先、土地が隆起し、丘を形作っているのが見えた。その頂を台座にして城が建っている。ぜんたいの形こそ悪くないものの、小ぶりである。だけでなく、よくよく目を凝らして見れば、まだ造成中らしく、木組みの足場が組まれている。
あるはずのない森に現出した、未完成の城。
異常な状況のなかで、しかしティアは落ち着いていた。
人を凍てつかせるほどの冷気が、どこか心地いい。まるで故郷に戻ったときのような懐かしささえ感じていた。
壁つきの椅子に座り、眠気さえ覚えはじめた頃、徐々に速度を落として馬車が停止した。
板戸の蝶番が高い音を立てながら、ひとりでに開いていく。
「着いたのか」
降り立ち、背伸びをすると、空から白い花びらのようなものが落ちてきた。
「雪……」
見上げると、降りはじめた雪を背景に、城が間近に迫っている。
──誰が、何のために創っているのか。
囲いも堀もない城は、むしろ教会に近い。建物には重厚な緑青の扉が取りつけられ、内部への侵入をかたくなに拒んでいるようだった。
ティアが食い入るように扉を見つめていると、
『封印のようじゃな』
頭に響いたイスラの声に、ティアはうなずき、来た道を振り返った。
馬車が鎮座するように待機している。斜面を下って広がる森は、早くも雪に染まりはじめていた。
吐く息は白く、街は見えない。
まるで季節が──時間が巻き戻されてしまったようだった。
ティアは指先で扉に触れた。
門は固く閉ざされている。何人も、けっして開くことのできない扉だ。
……ティアをのぞいて。
指先から手のひらへと、扉に押し当てていく。そうしてティアはつぶやいた。
「……開かれた城門」
力を注ぎ込むと、扉の全面に魔法陣が浮かび上がった。すぐにガチャリ、と錠の開く音が雪の静寂に響きわたり、機械仕掛けのように自動で開きはじめる。
「なるほどな……」
ティアはひとりうなずく。
すこしずつ、この世界の仕組みがわかってきた。
いま、ティアは力を使った。にも関わらず、まるで疲労を感じない。
『──いま私は眠っておるが、ここでは眠りを必要とせぬ』
イスラの言葉を思い出しながら、城内へと入っていく。
「ここが、力を消費しない特殊な空間であることはわかった」
敷居を跨いだ先に、イスラが待ち構えるようにお座りをしている。
ティアはそれが当たり前であるように、黒狼の横を通りすぎ、玄関ホールに入った。すると、中央の階段、壁際、そして天井から吊り下げられたシャンデリアといった、いたるところに置かれた蝋燭の火がひとりでに灯っていく。
ティアは背後のイスラに声をかける。
「そういえば、イスラに訊きたいことがあったんだ」
「言うがよい」
「吸血鬼は、海や川が苦手なのか?」
訊きながら、ティアは階段前で立ち止まった。
階段の登り口はふたつあるが、行先は同じだった。それぞれが大きく曲線を描きながら、途中の踊り場で交わり、またカーブを描きながら二階の正面扉へと登っていく、二重らせんの構造になっていた。
『そのものが苦手、というわけではない』
階段を上りはじめる。絨毯が敷かれているため、足音は響かない。壁には無数の窓が取りつけられており、室内を映しながら、雪がしんしんと降り続いている。
『お前が河海を苦手とするのは、私の力が届きにくいからじゃ』
「初耳だ」
『そも、神たる私が及ぼし得る力の範囲は限られておる。そして範囲とは、我が力の源となる信民がどこに住んでおるか、ということに起因する。海や川は世界を区切るひとつの節目──境界であるゆえに、その境界上では力の所在が不明となりやすい。言うなれば、河海とは神々の力が衝突し合う力場じゃ。一見すると凪のようではあるが、その実、甚だ混沌とした力が渦巻いておる』
「重要なのは、イスラの力が私に届くかどうか、ということか」
『その認識でよい』
ティアは、二階正面のドアの前に立った。両開きのドアは鍵がかかっている。
──開かれた城門。
念じて力を込めるも、先ほど入口の大扉で感じた手応えはなく、魔法陣も浮かんでこない。
「開けられない……この力ではないのか」
早々にあきらめ、ティアは背後を振り返った。ホールには他にも多くのドアがあり、いまティアが立つ位置から顔を落として、一階右側の壁に十枚、左側は七枚。二階に視線を戻し、右に一枚。左にはない。
不自然なほど非対称な配置である。
明かりに照らされた室内で、ティアはまばたきもせず部屋の様子をうかがう。
ほんのわずかな異常さえ見逃すまいと注意深く……。
──手当たり次第にドアを開いてみるか。
そんなことを考えはじめた時、一階、左側七番目のドアの隙間に、夜市で見かけた細長い影が吸い込まれるように入っていく。
「あそこか……」
そのドアの前に立ったとき、金縛りにあったようにティアの動きが止まった。
『タオ=シフル(16)』
ドアには、そう書かれていた。
「タオの……部屋?」
声が震えていた。緊張する自分を感じた。
『恐れるな』
ふと、イスラの声が届いた。
『すでに理解しているであろうが、ここは現実ではない。お前に害悪をもたらす場所でもない』
「ああ」
ティアはかろうじて返事をし、
──何者かが、あるいは、何らかの力が、私を誘っている。
深呼吸をして、ドアを開いた。