6 幻想幻市(修正版)
『6 幻想幻市』~『12 夜市Ⅲ』までは過去に投稿した話の修正版です。
空から落ちてきたのは、見知らぬ男だった。呆気に取られるティアとファン・ミリアの間──テーブルの上に背中を打ちつけ、
「いってぇぇ……」
と、仰向けになった亀のようにうめいている。幸い、命に別状はなさそうだ。
「安い作りに見えたが、意外に頑丈だな、このテーブル」
ティアはぽつりとこぼし、
「食事を注文した覚えはないが」
振り仰ぐと、広場に隣接した建物の屋上──その縁に足をかけ、ひょいと顔をのぞかせる人影がひとつ。夜目を利かせると、その顔には見覚えがあった。
「いや、すまん。加減を間違えた」
騒然とする広場に、よく通る男の声が響き渡る。
「いまそっちに行く。悪いが、そいつを見張っておいてくれ」
ティアとファン・ミリアは顔を見合わせた。屋上の男は他でもない、先ほど花街で出会ったばかりのノールスヴェリア人である。
「見張る?」
ティアは視線を落とす。と、テーブルに乗ったままの男と目が合った──瞬間、がばりと男は跳ね起き、広場の外へと走りはじめた。
「いかんな」
言葉とは裏腹に、切迫感のない男の声が降ってくる。
「そこの──黒髪の娘よ、あの男を追ってはくれぬか?」
「私が?」
ティアが自分を指さすと、
「礼ははずむ。急いでくれると助かるのだが」
「礼……」
その言葉にぴんときた。
「礼とは金のことか?」
にやりと、ティアは口の端を持ち上げた。
「それでもいい」
すぐに屋上から返ってくる。
「わかった」
ティアは応じてうなずくと、
「──これで金を返せるぞ、サティ」
言いしな、ファン・ミリアの返事を待たずに駆け出した。
◇
数分後。
──すこし早計だったかな。
ちらりと思ったが、走り出した以上、ここで辞めるのもつまらない。
ティアは夜市を駆け抜けていく。
通りを彩る様々な店……更けていく夜に、街はいよいよ活気立ち、枝道から続々と人が集まってくる。
男の足は速い。
対するティアは、
「走りにくいな」
ファン・ミリアの勘違いから、ティアが履いている長靴は女性用である。底が厚く、全速力で走ろうものなら足をひねった挙句、盛大に転びかねない。
人が多いため、力を使うわけにもいかない。
「疲れるのを待つか……」
考えながら走っていると、ティアと男との間に、野菜を満載した荷車が横切っていく。
──間が悪い。
思いながら、ティアはひらりと跳び上がった。荷台の端に手を置いて宙返りを打ち、そのまま向こう側へ着地しようとすると、
──なんでこんな時に箪笥を?
そのすぐ奥で、重なるように箪笥が運ばれていたりする。
眼前に迫る箪笥に、ティアは指先一本で逆立ちになる。
おお、と周囲から驚嘆の溜息が漏れるのをよそに、
──男は?
逆立ちを維持したまま探ると、男の背中が人の流れから逸れていくのが見えた。屋台の隙間に見え隠れしながら、路地に入っていく。
「屋上から落ちたばかりとは思えないな」
感心しつつ、ティアは再び走り出した。
男に恨みはないが、ファン・ミリアに金を返したい男心(?)がある。
道を曲がり、路地に入る直前、ティアの鼻先を嗅ぎ慣れない匂いがかすめた。
──香料屋か?
とろりと甘く、気だるいような……。
けれども意識したのは一瞬だった。前方へ注意を戻すと、男が、路地を抜けて反対側の通りへと消えていく。
路地に人目はない。
しめたとばかりにティアは身体から一匹の蝙蝠を分離させた。
「先回りしろ」
命じると、蝙蝠は一鳴きしてティアの頭上を高く舞い上がっていく。
そうしてティアが別の通りに出た時だった。
「何だここは……」
ティアは立ち止まるや、瞬時に身構えた。
「人が……いない?」
辺りを見回すも、追っていた男はもちろん、人っ子ひとり見当たらなかった。屋台だけがむなしく道に並び、松明の光が建物の壁に皓々と照り映えている。
ティアは瞳を赤く滲ませた。
──戻ってこい……!
分離させた蝙蝠を呼び戻そうとするが、どれだけ待っても姿を現さない。
自分の身体の一部である。すぐ近くに舞っているのは感覚でわかっている。にも関わらず、薄い幕に隔てられたように、どうしても戻って来ることができない。
──何らかの力で遮られている?
警戒しつつ、どう対処すべきか考えていると、背後に気配を感じた。
「誰だ!」
するどく振り返ると、道の脇に詰まれた木箱の隙間に、細長い影がするすると滑り込んでいくのが見えた。そうかと思いきや、また背後に気配を感じた。はっとして振り返ると、
路地が消え去っていた。
「馬鹿な……」
思いがけず、ティアの喉からうめき声が出た。あわてて走り戻るも、路地があるはずの空間は壁にふさがれている。
──なぜだ?
壁に触れると、ひんやりと冷たい。感触は、通常の壁そのものである。飛び越えようかと空を見上げると、夜の闇に、黒い雲がとぐろを巻くように渦巻いていた。明らかに異常な空模様だ。
二歩、三歩と後ずさった。まるで空間に閉じ込められたような気がした。
じわじわと高まっていく緊張に、ティアは眉間に皺を寄せた。その時──
『妙な場所に入り込んだものじゃ』
頭の中に、声が響いた。
「イスラか。目が覚めたのか?」
『いや、目覚めてはおらぬ』
ティアが瞬きをひとつする間に、イスラの姿が顕現している。
黒狼は琥珀の瞳をティアに向け、
『ここは、私の力の増減とは場違いな場所じゃ。──いま私は眠っておるが、ここでは眠りを必要とせぬ』
『……何を言ってるんだ?』
『わからぬか?』
のぞき込むように問い返されるも、ティアに心当たりはない。仕方なく首を横に振ると、イスラが鼻先で示す。示された足元に、ティアの影が映っていない。
『ここは現実ではない、ということじゃ』
「……」
『気をつけよ。一歩間違えば永遠に彷徨い続けることになる』
言い終わったイスラの姿はすでにない。
「かと言って、すでに戻る道はなくなっている」
壁を見つめてティアが独りごちると、
『では進むしかなかろう』
イスラの面倒そうな声が頭に響いた。
◇
『──金に目が眩んで迷い込むとは、馬鹿もここに極まれり』
口を開ければ辛辣な狼である。
「放っておいてくれ」
ティアはむすりとふくれっ面で道を進んでいく。
『夜の支配者たる吸血鬼が、金ごときに見境をなくしおった。意味がわからぬ』
「悪かったな」
小言を並べられ、ティアはたまらず言い返した。
「金を借りたら返すのが当然だろう?」
『化物ならば踏み倒せ』
「……本気じゃないよな?」
ふん、とつまらなさそうにイスラが鼻を鳴らした。ティアはふと、
「いま、ファン・ミリアと行動を共にしている」
『知っておる』
「イスラに尋ねたいことがあるそうだ」
『シィンについてか……』
イスラの呼び方には、親しい者──よく知る者に対する響きがあった。『シィン』とは、ファン・ミリアが信奉する星神である『シィン・ラ・ディケー』のことだろう。
「イスラは月神なのだろう?」
『そうじゃ』
「そして、シィン・ラ・ディケーは星神」
『うむ』
「イスラの妹神と聞いた」
『……そう言われておる』
「曖昧だな」
『私が決めたわけではないからの』
「親が決めた、という意味か?」
『ちがう』
あきれたようなイスラの声だった。
『神の関係性を決めるのは神ではない。人じゃ』
ティアが黙り込むと、
『同様に、神の永遠性を決めるのも人じゃ。神に寿命はないが、忘却されることによって存在の意義を失う』
「人が神を忘れることによって、神は死ぬ?」
『殺す、という言い方もできよう』
「……もし人が、イスラが妹でシィン・ラ・ディケーを姉と決めたとすれば」
『当然、私とシィンの関係は逆転することになろう』
「よくわからないが、イスラは受け入れることができるのか?」
『受け入れるしかあるまい』
「極端な話──」
ティアは我が身を思いつつ、訊いてみた。
「イスラは女神だが、男神に変化することもある?」
『可能性はあるが、そうはなりにくい』
「なぜ?」
尋ねると、しばらくの間があった。
『──先ほどお前は『曖昧』と言ったが、曖昧のうちにこそ普遍がある』
ゆっくりとイスラは話しはじめる。
『人は寄る辺ない生き物ではあるが、同時に『変わらぬもの』を持っている。例えば、月。これに関して人は『女』を想起しやすい。他の大陸は知らぬが、この土地に住む者はおおむね同じ幻想を抱く』
「言われてみれば、そんな気もする」
月に対するものとして、太陽は男を想起させやすい。
『ではなぜ、人は同じ幻想を抱くのか?』
自問するようなイスラの口調である。
「……その回答をイスラは知っているのか?」
『知っておった、と言うべきじゃな。我が主であればすべてをご存知だろうが』
「紫の魔女か」
『私もまた、人の意思や願いによって変わり続けている。関係性を人にゆだねることにより、永遠性を得ているとも言える。が、それでも尚、待ち続けているものもある』
「待ち続けている……紫の魔女を?」
訊いたものの、ティアの問いに対するイスラの返答はなかった。かわりに、
『確かに言えるのは、私もシィンも主に仕えている、ということじゃ』
『シィン・ラ・ディケーもか。本当に何者なんだ? 紫の魔女とは』
ティアと同じ容姿──瞳の色以外──を持ち、人でありながら月神と星神の二柱を従える魔女。
『私は時の移ろいとともにほとんどの記憶を失っておるゆえ、お前以上に詳しくは知らぬ』
「紫の魔女に、会いに来るよう言われたんだ」
『主がそう仰ったのであれば、いずれ会いに行くことになろう』
◇
気がつくと、ティアは街の境界に立っていた。
レム島にいるはずが周囲に海はなく、起伏のある道が遠くまで続いている。
上っては下り、また上り、九十九折りになった丘の上、槍の穂のような針葉樹に囲まれたなかに、白亜の城が建っていた。
「……城」
絵画のように、あるいは蜃気楼のように、その城は頼りなげで、存在感が希薄だった。
『迎えが来たようじゃな』
ティアの横に、再びイスラが姿を現していた。
「迎え?」
そう訊いたのも束の間、すぐ近くで馬のいななきが聞こえた。とっさにティアが視線を戻すと、目の前に箱馬車が停まっていた。