5 夜市Ⅱ
そもそも──
服を買ったり船賃を払えるほどの金を、ファン・ミリアはなぜ用意できたのか。
ティアが尋ねると、
「金緑石を船にいた行商人に売った」
ファン・ミリアの返答に、ティアは愕然とした。
「私は……女に装飾品を売らせたのか」
すこし考えればわかることだった。ドレス姿だったファン・ミリアが財嚢を携行しているわけがない。金目のものと言えば、そう、首から下げていたネックレスぐらいなものである。
「賃貸だったが、仕方ない」
ドレスも売れるには売れたが、ところどころが破れてしまっていたため、たいした金にはならなかったらしい。
「私に甲斐性がないばかりに……」
「いや、誰もそんなことは」
気を遣われているのが、たまらなく情けない。
「必ず返す」
「不要だ」
「返す」
意固地にティアが言い続けると、ファン・ミリアが肩をすくめた。
夜市の小広場である。
テーブルと背もたれのない椅子が所せましと並び、屋台で買った酒や食べ物をここに持ち運んでくる。
ここで英気を養い、いざ花街へ、ということらしい。
──食欲を満たしたら性欲か。
どちらも人の本能に根差していることではあるが……。
「……安い作りだな」
ティアは溜息をついた。
テーブルは脚の長さが不ぞろいなのか、肘を乗せただけで傾いてしまう。
「──これからどうするかを、ティアは考えていないのか?」
ドライフルーツの盛り合わせが入った木碗を手に、ファン・ミリアが向かいの席に座る。
「ゲーケルンに戻ることにはなるだろう」
ティアは声を落とした。近くには老人がひとり、さびしそうに食事を摂っている。どこにでも目にする光景ではあるが、この熱気をはらんだ街では、よりいっそう孤独に見えた。
「カホカたちとも合流したい」
仲間を想ってティアが告げると、
「カホカか……」
「そういえば、サ……貴女はカホカと仲が良いんだろう」
やはり愛称で呼ぶのは慣れない。そんなティアの心の動きが伝わったのか、ファン・ミリアが干し苺を飲み込んだ。けほ、とちいさく咽てから、
「……まだ知り合って間もないが、個人的には、嫌いになれない娘だ」
愛称には触れず、ファン・ミリアは続けて、
「カホカを、私の下で働かないかと誘ったことがある」
ファン・ミリアの屋敷でのことだった。あの時は、カホカと行動を共にしている『連れ』が誰なのか、想像もつかなかったが、彼女の言動には不自然なところがあった。それゆえ、ルクレツィアにカホカを尾行させたのだ。
「カホカが不自然になるのも無理のないことだった」
思い出すファン・ミリアの口元がほころんでいる。
「カホカは、なんて?」
「結論としては、振られたのだろう」
「王都に上る前、私がカホカについて来て欲しいと言ったんだ」
「ふたりは友人同士なのか?」
訊かれ、ティアがカホカとの出会いから現在に至るまでの顛末を伝えると、
「なるほど」
熱心に話を聞いていたファン・ミリアが、深くうなずいた。同時に、
「タオとカホカは、許嫁同士だったのか」
驚きをあらわにしている。
「昔の、短い期間の話だ。親が決めた話だったし、私もカホカもあまり意識してなかった。意識するほどの年齢でもなかったから」
「もし……」
と、ファン・ミリアはためらいがちに、
「もし先方から断られなければ、カホカと結ばれていた?」
「結ばれていただろうな」
ティアはあっさりうなずいた。
「カホカは嫌いではなかったし、タオの立場なら断るほうがおかしい」
シフルとリュニオスハートを比べた場合、力の天秤はリュニオスハートに傾く。貴族の考え方に依れば、シフル側の利が大きい話だった。
いま考えれば、リュニオスハートは妾腹の子であるカホカを早く片付けたかったのだろう。タオの父親がどこまでリュニオスハート家の内情を掴んでいたかはわからないが、将来的に入婿にするぐらいのことは考えていたかもしれない。
リュニオスハートとシフルは直接的な主従の関係にはないものの、家格にちがいがあることから、もしタオがカホカと結婚した場合、カホカには頭の上がらない生活が待っていた可能性は十分にある。
だから、というわけではないが、破談と聞いた時も特に残念とは思わなかった。
「貴族としては、それじゃダメなんだろうけどな」
苦笑するティアの面に、ふと影が射した。ファン・ミリアを見据え、
「シフルがどうなっているか、貴女は知っているか?」
「……知っている」
ファン・ミリアは目を伏せた。そして、
「ティアに謝らなければならないことがある」
「私に?」
眉根を寄せたティアに、ファン・ミリアが重い口調で話しはじめた。
「タオが亡くなって後に、私はシフル領の封地を願った。だが……」
晩餐会でのウラスロとの会話──ファン・ミリアとの共同統治のこと。
「私が望みさえしなければ、殿下自らの手でシフルを治めようなど、考えもしなかっただろう」
シフルは広くもなければ、豊かでもない。まちがっても第一王子のウラスロが欲するに足る土地ではない。
「ウラスロの狙いは、貴女か」
「……そうらしい」
ファン・ミリアは露骨に顔を歪めている。それだけで、彼女のウラスロに対する心情がわかろうというものだ。
「猶予は?」
「まだ決定事項ではない。いまの話の流れでは、さっさと願いを取り下げてしまったほうが賢明なのかもしれない。だが、たとえ取り下げたとしても、私がシフルを欲したという事実が変わるわけではない」
「──貴女が領地を欲しようが欲しまいが、ウラスロはシフルを餌に貴女を手に入れようとする」
「私は……そうなってしまう気がする」
「弱みを握られたようなものか」
ティアが言うと、ファン・ミリアが沈鬱そうにうなずいた。
神託の乙女たるファン・ミリアが領地を望むなら、それは人心の慰撫に決まっている。
「一国の王子が、自国の民を人質に取るか……」
「なぜ、怒らない?」
押し殺した声音に、ティアが顔を持ち上げると、
「私の失策が、シフルに二度目の災禍を呼び込もうとしているのだぞ」
「怒るというのは、貴女に対してか?」
「当たり前だ」
「潔いな」
ティアは白い歯をのぞかせた。
「貴女は、なぜシフルを手に入れようと思ったんだ?」
「それは……」
ファン・ミリアは口ごもり、
「主を失ったシフルの人々が憐れだと思ったからだ」
それだけだ、とフルーツを串でつついている。
「それなら、貴女に対して腹を立てるのは筋がちがう」
「しかし──」
「怒りを感じるのなら、貴女に対してじゃない。ウラスロに対してが半分。もう半分は、自分に対してだ」
ティアは静かに息を吐いた。細く、長く。
「……私は王都ではなく、まずシフルに向かうべきだったんだ」
なのに、それができなかった。
「シフルの惨状を見たくなかった。逃げ続けていたんだ」
逃げていたのは、シフルからだけではない。
聖騎士になる夢をあきらめた振りをしながら、その実、あきらめきれない自分がいた。
「夢の世界で生きていたかったから……」
都合の悪い現実からは、すべて目を逸らしてきた。
自分に嘘をついていた。
だが、それでは駄目なのだと、今ならわかる。
「ゲーケルンに戻る前に、シフルに行く。ウラスロどうこうはその次だ」
「……やはり、殿下に復讐するつもりなのか」
「私の進むべき道にウラスロがいるのなら、排除しなければならない。ただ、復讐のみを目指した道の先に、私の望むべきものがあるとは思っていない」
問いたげな瞳を向けてくるファン・ミリアに、ティアは頭を掻いた。
苛立たしげに、
「おそらく、ウラスロはイグナスに操られていた」
「なんだと?」
「舞踏会のホールで奴を見たとき、違和感があった。奴の背後にわだかまる闇を見た気がしたんだ。思い出したくもないが、私もイグナスに操られていたからわかる」
「では、すでに殿下は変わっている?」
「確認する必要はあるが、可能性はある」
イグナスを仕留めたのは他ならないティアである。これによって、ウラスロが操られる以前に戻っていることは十分に考えられる。
「殿下が操られているかどうか、ティアは一目でわかるのか?」
「見ただけではなんとも言えないな。かわりに──」
ティアは、ひとさし指を示した。その指の先に、じわりと黒い水滴が溜まる。
「これを体内に流し込めば確実にわかる」
「それは、ティアが地下墓所で自分に流し込んでいた?」
「ああ」とティアはうなずく。
「どうやら同じ種類の力と力がぶつかり合うと、反発なり不具合なりが生じるらしい」
ティアが自身の体内に黒い水を流し込んだとき、イグナスの力に反応し、結果、水が光となって明滅した。あれも不具合の一種なのだろう。
「吸血鬼の力か」
ファン・ミリアは嘆息して、
「……その力の源は、人の生き血をすすること」
言ってから、テーブルのドライフルーツを指さした。
「人間の血液以外で力を生み出すことはできないのか?」
「できない。人ではない生物の血を飲んだことはあるが、ほとんど力の足しにはならなかった」
ティアが答えた時だった。
あまりにも唐突に──
空から人が落ちてきた。