4 夜市Ⅰ
ティアとファン・ミリアは人波に押されるように街の奥へと進んでいく。
次の十字路を曲がると、通りの雰囲気が一変した。
店々の前に、色鮮やかな衣装を着崩し、肌を露出した女たちが並んでいる。男客が通りすぎるたび、蠱惑的な笑みを浮かべ、誘う。その姿は夜の光を養分にして咲く花のようだ。
「花街か」
一時期、リュニオスハートの花街で給仕を務めていたティアである。そこで身を立てる女に対しての偏見はない。
にも関わらず、ティアの顔つきは険しい。
「ムラビアの女たちばかりが働いている」
一方、道を行き交う男たちはノールスヴェリア人である。
「……国が貧しくなれば、その問題は国内だけに留まらない」
ファン・ミリアも苦しそうに顔を歪めている。
ノールスヴェリアの男が客となって、ムラビアの女という商品を買う。
吸血鬼になったこともあり、ティアは東ムラビアへの帰属意識が弱まっている。
──だが。
心の底ではやはり、東ムラビアの人々の幸福を望んでいるのだろう。
「国というのは不思議だな」
かすかな声音でつぶやいた。
──国とは、川のようだ。
多くの人の運命を巻き込み、歴史という時の流れを創り出していく。
そんな目に見えない時の流れに、自分も囚われているのだろうか。
「怖い顔をしている」
はっと顔を上げると、ファン・ミリアがこちらの様子をうかがっている。
「いや」
と、ティアはごまかすように通りを見回した。
「この島と同じ光景を、ゲーケルンで目にする日が来なければいいなと思った」
街ぜんたいの規模はリュニオスハートのほうが大きいが、花街の店の数はレム島のほうが圧倒的に多い。
それだけ、店を利用する客が多いのだろう。
──ここで働く女たちは、何を想ってノールスヴェリア人に買われていくのか。
リュニオスハートの花街では、自ら進んで働く者もいた。はじめは嫌がっていても、慣れとともに感覚が麻痺していくのだ。短期間で金を手にできることも、麻痺を加速させる大きな要因となる。
『自ら進んで働く』ことが『好きで働く』という意味ではないだろうが、辞めた後に戻ってくる者も少なくないと聞く。
それでも、働く者の意思が介在するなら、まだ救いはある。
しかし、もし東ムラビアが他国の武力によって蹂躙された場合は?
強制的に従属させられてしまえば、意思がどうのと言ってはいられない。
「生まれた国が貧しいのは、悲しいことだ」
ティアは言って、
「人は国を選んで生まれることができない。だからこそ、生まれた国によって人の自由が奪われてはならない」
「自由……」
はじめて聞く言葉のように、ファン・ミリアが反芻する。
「イスラから教わった言葉だ」
ティアは踵を返した。──ここでいま、自分ができることは何もない。
「吸血鬼の力をもってさえ、できることはわずかだ」
我知らずつぶやいた言葉に、ファン・ミリアが立ち止まった。
「……私も同じことを考えていた」
ファン・ミリアは唇を噛む。
「救国の聖女だ、神託の乙女だと言われておきながら……こんなにも無力だと」
「でも──」と、ティアは軽く微笑う。「安い同情は彼女たちの望むところではない。花街で働く女たちは儚いが、したたかな強さも持っている」
すくなくとも、ティアがリュニオスハートで出会った女たちは、己の境遇を悲観するだけではなかった。
「戦っているんだ。弱いからこそ」
自分に言い聞かせるように、その言葉にはティアの激情がひそんでいる。
「振り続けるんだ、旗を」
夜空の、まだ生まれたばかりの細い月を見上げた、その時、ティアの腰あたりに、何かがぶつかった。
振り返ると、地面に子供が尻もちをついている。
「ごめん、大丈夫か?」
十歳ほどの少年だった。走っていたらしく、呼吸をはずませ、瞳をいっぱいに広げている。
──子供が、どうしてこんなところに?
奇妙に思いながら、ティアは少年の前に屈みこんだ。
「怪我はないか?」
助け起こそうと手を差し出すと、
「ふざけんなよ」
少年が、ティアの手を乱暴に払いのけた。
「なに道の真ん中でぼーっと突っ立ってんだ、ブス」
ティアの全身が硬直した。
……ブス。
……私が、ブス?
キリキリと、ティアはきしむ首を巡らせ、ファン・ミリアを見上げた。
「……ブス?」
自分を指さして訊くと、ファン・ミリアがぶんぶんと首を横に振る。
ティアはひとつ深呼吸をして、
「怪我はないか?」
時間を戻して声をかけた。すると、
「なにショック受けてんだよ、どブスが。調子に乗るんじゃねーよ」
……どブス。
ティアはおもむろに自分の髪を掴むと、
「……」
無言のまま、毛先で少年の顔を叩きはじめた。
「あ、やめろ、何すんだ!」
「……」
ぺし、ぺし、と髪で少年を叩き続ける。
「やめろって、何で無言なんだよ! 怖えぇよ!」
「……」
暗い瞳で黙々と叩き続けていると、
「やめろって!」
業を煮やしたのか、少年が飛びかかってきた。
「──ん?」
何かに取り憑かれていたため、気づいた時には遅かった。ティアは少年の体当たりをまともに喰らい、
「ちょっと、わっ!」
ふたりして後ろに倒れ込んでいく。
「なんなんだ……いったい」
起き上がろうとすると、妙に腹のあたりが重い。見ると、少年が馬乗りになっていた。だけでなく、ティアの両胸を鷲掴みしていた。
「おお!」
少年は瞳を輝かせ、
「おっぱい」
へへ、と嬉しそうに感触をたしかめている。
「……満足したか?」
ティアは頬をひくつかせ、少年の首根っこを掴んだ。
「こらしめてやる」
そのまま立ち上がろうとすると、
「──なにをしている」
低い男の声がして、少年の脳天に拳骨が落ちた。
「ぐおぉぉ……!」
頭を押さえ、少年が悶絶する。
「いきなり走り出したかと思えば、女人の乳を揉むためだったとは。いつから性犯罪者に成り下がった! 情けないぞ、俺は」
「じ……児童虐待だぞ」
よほど痛かったのか、少年は地面にうずくまっている。
「たわけ、これは躾だ」
「ざっけんな! 虐待する奴はみんなそう言うんだ!」
「往来で吠えるな」
さらに拳骨を喰らい、少年は地面に突っ伏して動かなくなった。清々しいまでに問答無用である。
男は昏倒した少年を軽々と肩にかつぐと、
「連れの非礼を詫びる。──すまなかった」
こちらの返事を待たず、深々と頭を下げてくる。そして、
「立てるか?」
空いたほうの手を差し出してくる。ティアは一瞬、ためらったものの、男の手を借りて立ち上がった。
黄褐色の瞳に、灰がかったブロンドをさらりと夜風に流している。服の上からでもわかる引き締まった体つきだった。ノールスヴェリア人なのだろう。一般的なムラビア男性の身長より一回り大きい。
腰には使い込まれた剣を佩いている。
──旅人か、傭兵か。
もしくは騎士か。
「それでは失礼する」
ファン・ミリアにも頭を下げ、男は颯爽とした足取りで去っていく。
「あの男、相当に腕が立つ」
ファン・ミリアが、人混みに消えていく男を目で追う。人の流れに逆らって歩いているはずが、あたかも人が彼のために道を開けているのかと錯覚するほど、その足取りには迷いがなかった。
「流水のような動きだな」
これが、ティアの男に対する第一印象だった。
後世……。
このレム島におけるティアとこの男との出会いが、激動する時代の魁として、非公式ながら余人に語り継がれることになる。
ティア本人には知る由もない、歴史の一幕である。