3 月とアメジストⅠ(後)
レム島にて。
潮の香りに夕餉の匂いが混じっている。
「思ったよりも寂れているな」
ティアが桟橋の石段を上って通りに出ると、数台の馬車が停まっていた。旅館らしき建物から炊煙が上がっているものの、明かりはまばらである。
「建物の色が豊かだな」
屋根や壁に暖色系の塗装が目立つ。
「鋭いな」
遅れてファン・ミリアが石段を上ってきた。
「この島特有の文化らしいが、ノールスヴェリアの影響もあるようだ」
手に、いつの間にか羊皮紙を広げている。
「表向き、この島は自由都市ということになっている」
「実際は?」
「東ムラビアとノールスヴェリアの共同統治だな。代表者も隔年ごとに交互に選出されている」
「経緯は?」
「もともとはノールスヴェリアの領土だったのが、統一ムラビア時代に共同統治となった……」
「ムラビアが武力で迫った?」
ファン・ミリアが、ちらりとティアを見た。
「当時の力関係を考えれば、そうなるのだろう。かつてのノールスヴェリアは弱小国か、よくて中堅だった。それがこの二十年ほどで一気に躍進した」
「現在のノールスヴェリア王は英明だと聞いたことがある」
ティアのノールスヴェリア王家に対する知識は噂程度でしかない。
「若く、覇気 のある人物らしいが」
ファン・ミリアも詳しくは知らないらしい。
『前王が凍土に撒いた種を、現王が大輪の花を咲かせた』
自分たちの君主を褒め称えるとき、ノールスヴェリア人はよくこういった言い方をする。
前王の築いた国という土台に、現王が繁栄をもたらした――明君が二代連続で続くのは珍しく、それゆえの言葉なのだろう。
ファン・ミリアは難しい顔で羊皮紙とにらめっこを続けている。
「さっきから何を見てるんだ?」
逆からのぞき込むと、島の地図らしき絵が描かれていた。
「案内図だ」
「そんなものがあるのか」
「観光地としても有名らしい」
「とてもそうは見えないが……」
旅館はあるが、観光地というより大きめの漁村といった印象を受けた。道を歩くのも地元民が多いらしく、ティアが見回していると、数人の男たちと目が合った。なんとなく、こちらを意識する素振りがうかがえた。
「とりあえず歩こう」
案内図をひったくるようにして、ファン・ミリアの服の肘あたりを掴む。
「何をする?」
「迷うほど大きい島じゃない」
「どこに行くつもりだ?」
「丘が見える」
いま立っている海外線の通りからは幾本もの道が伸び、丘へと続いている。丘といっても勾配はなだらかで、頂上にいたるまで民家が密集している。
ティアは歩き出した。
◇
丘を越えてすぐに立ち止まった。
「これは……」
ティアは目を瞠った。
斜面を下った先に、もうひとつの街がある。
明かりの数も港側の比ではなかった。目抜き通りらしい道に、多くの人々が行き交っているのが見える。道は幅広で、建物の背が高い。広場は雑踏と呼べるほどに混みあっていた。
「どうなってるんだ?」
狐につままれた気分でいると、
「……どうなってるんだ?」
小声で、隣のファン・ミリアがオウム返しに言ってくる。てっきり眼前の景色に驚いているのかと思いきや、
「どうなってるんだ?」
ファン・ミリアは同じ言葉を繰り返した。様子がどこかおかしい。夜景を見るのではなく、そっぽを向いている。
「ファン・ミリア?」
ティアが怪訝に思っていると、
「……これは、どうなってるんだ?」
おもむろにファン・ミリアが手を持ち上げた。
ティアはようやく気がついた。持ち上げたファン・ミリアの手を、自分の手が握っている。
「なんの話だ?」
ティアが首を傾げると、ファン・ミリアが「なんでもない」と、空いた手でこほんと咳払いする
「手をつなぐのが嫌なら離すが」
「……嫌とは言ってない」
ファン・ミリアは、ずっとそっぽを向いている。ティアはなんとなく気まずさを感じて手を離した。
「……」
お互い無言になった。
「怒っているのか?」
おそるおそるティアが訊くと、ファン・ミリアは「怒っていない」と、さらに顔をそらした。あからさまにティアの視線から逃げている。
「じゃあ、なぜ顔をそらすんだ?」
しかし、どれだけ待ってもファン・ミリアは答えない。
あきらめ、ティアは息を吐くように笑った。問いただしたい気持ちを飲み下し、
「貴女のしたいようにすればいい」
その言葉に、ファン・ミリアの肩がぴくりと揺れた。
「貴女には貴女の立場があるのはわかっている」
ティアはファン・ミリアの心情を推し量って伝える。
「もし私を殺すべきだと思うなら、なるべく早くしたほうがいい」
予感があるんだ、とティアは続けた。
「時が経つほどに、私は死ねなくなる。すでに知る者、知らぬ者。私の夢を信じて集まる者たちのために――」
「そんなことは考えていない」
ティアの言葉を遮り、ファン・ミリアがこちらをにらんでくる。
「たしかに私は見定めなければと思っている。だが今は、すくなくとも今だけは、ティアをどうこうしようとはこれっぽっちも思ってはいない」
「では何を考えていたんだ?」
「それは……」
言いよどむファン・ミリアが顔を伏せた。
「ティアが、ユーセイドに……タオに見えたからだ」
「――え?」
「もしタオが生きていたら、こうやって手を引かれることがあったのかと思っただけだ」
「え……」
ティアがごくりと唾を飲んだ。
こちらをにらむようなファン・ミリアの頬が、朱に染まっている。
「そう思ったら……ティアを見るのが、苦しくなって……」
「あの……」
じわじわと、ティアの頬まで朱く染まりはじめた。そんなティアの様子に、ファン・ミリアがまたぷいとそっぽを向いた。
「ファン――」
呼びかけて、また言葉を止める。
「その……」
こらえきれず、ティアも体ごと視線をそらした。
何か言わなければと思うのに。
お互いに背を向け合って、息をひそめるように立ちつくすことしかできない。
どれくらいの時間そうしていただろう、やがて暗い道のほうから賑やかな声が聞こえはじめた。
「行こう……」
人が歩いてくるのをきっかけに、ティアは消え入りそうな声で言った。
◇
いたるところに置かれた松明の明かりに、人影は薄く、回るように位置を入れ替えている。
通りには夜市が立っていた。
飲食店も並び、店外に設けられた客席で夕食を摂っている者も多い。杯を鳴らして乾杯をする陽気な客や、注文を届ける店員や、酔客を当てにした花売り。
丘を境にして、なぜこれほど活気がちがうのか。
その疑問はすぐに氷解した。
「こちら側がノールスヴェリア人の街なのか」
必ずしも見分けがつくわけではないが、明らかに、という容姿を持つ者も少なくない。そういった者は男女問わず肌が白く、ムラビア人よりも体格が大きい。顔つきもやや角張っている。
「国のいきおいがそのまま表れているようだな」
いつもの口調に戻り、ファン・ミリアも左右に視線を走らせている。
――ようやく落ち着いてくれた。
ティアはほっと安堵の息を漏らした。
気まずい、というより、何を話せばいいのかわからずに坂を下りたふたりだったが、街には話の種が多い。見た物をそのまま口に出すところからはじまって、なんとか会話をするまでに戻っていた。
それでもまだ、互いに視線を交えるのは恥ずかしい。
さらに、である。
街を歩くうちに、『ファン・ミリア』という名前で呼ぶのは止めたほうがいい、ということになった。彼女ほど名の知られた東ムラビアの英雄が、この島にいるとわかればどんな騒ぎになるか。下手をすればノールスヴェリアからあらぬ疑いをかけられる可能性さえあるのだ。
では、どんな名で呼ぶのか。
『ファン・ミリア』と呼べなければ次は家名だが、『プラーティカ』も同様に広く知られている。『筆頭』も似たようなものだろう。となると、ファン・ミリアの本名である『サティア』を使うことになるのだが、これはティアと名前が重なってお互いに呼びにくい。
結果、『サティア』の愛称である『サティ』で呼ぶことになり、これを試してみたところ――
「サティ」
と、ティアが呼び、
「はい」
と、ファン・ミリアが応じる。
これだけのことが、たまらなく恥ずかしい。
それはもう、信じられないくらいに恥ずかしい。
『サティア』とは別の意味で呼びにくいのだが、これは慣れるしかない、とふたりの間で同意があった。
そこで早く慣れるため練習してみた。
「サティ、サティ」
と、ティアが連呼して、
「はい、はい」
と、ファン・ミリアがその度にうなずく。
呼んだ数だけ恥ずかしさが倍加した。特にファン・ミリアにいたっては、頭巾を目深にかぶり、両手で顔を隠して、ただ震え続けるという始末だった。
自分たちは何をしているのか、とは思うが、そうなってしまうのだから仕方がない。
サティと呼ぶことは仕方がないとして、できる限り使わないようにしよう、ということになった。