102 王都近景、それぞれ。
王城ウル・エピテス、東端。
最高層の空中側廊より、これまでの一部始終を見つめていた人影があった。
「イグナス……しくじったか」
抑揚のない声音でつぶやく。
明けはじめた東の空とは対照的に、西に面した側廊は暗い。しかしながら、青く染まりはじめた世界のなかで、その人影もまた、人影のままではいられない。
見下ろす灰緑色の瞳は、やや細い。上品に整えられた口髭に、若々しくひきしまった身体つき。着ている最高級の正装ともあいまって、見る者に地位の高さをうかがわせた。
軍部における最高位、『元帥』をあらわす記章を胸につけた男の名は、ネオン=アービシュラル。
ネオンは、増水したルールヴ川を一瞥すると、側廊を進みはじめた。
──イグナスは、時間をかけすぎた。
その挙句、鷲のギルドを仕留め損なったとあっては笑い話にもならない。
容易に想像される膨大な事後処理に頭を巡らせながら、ネオンは廊下の終着で立ち止まった。
海峡に突き出た崖に造成されたウル・エピテスにあって、東端、その最奥部。
扉にはムラビア王家の紋章が刻み込まれている。
限られた者しか立ち入ること許されない、完全なる王の私的空間。
その両開きの扉を、ネオンは自らの手でゆっくりと開いていく。
召使いの者は、誰もいない。
いくつもの部屋を抜け、ネオンは王の寝室へとたどり着いた。
開け放たれた大窓からは、潮風が流れ込んでくる。
嵐が去り、静けさを取り戻した海面には、黄金色に濡れ光る太陽が、こちらの断崖にまで光の道を投げかけている。
天蓋つき寝台の、薄い更紗柄のレースが風にめくり上げられるたび、細く、皺だらけの腕がのぞく。
「……この国はもう、終わっている」
ネオンはしばらくの間、その枯れ木のような老人の腕を、感情の読めない瞳で見つめていた。
◇
王城ウル・エピテス、聖騎士団本部。
ジルドレッドが本部に戻ったのは、ファン・ミリアがティアを助けるためにヌールヴ川へ飛び込んでからさほどの時間も経ってはいなかった。
ようやく集まってきた軍の指揮者に簡単な事情を伝えたうえで、詳しい話は後日、調査の者がジルドレッドのもとへ訪れる手はずになっている。
聖騎士団は聖騎士団で、しばらくは事後処理に忙殺される日々が続くだろう。
グスタフの戦死。
万が一、川に流されたファン・ミリアが帰らぬ人となった場合。
イグナスという男と、ウル・エピテスにおける関係。
考えなければならないことが山積している。
それでも、彼は不撓の英雄ジルドレッド=イェガーその人である。
諸人にはその懊悩を微塵も感じさせない。
だが──
本部の正面扉を開き、二階に続く階段の手すりに手を置いた時だった。
「まさか……!」
この男にしてはありえぬほどの動揺が、その顔によぎった。
翠眼を見開き、顔を振り上げた。階段を駆け昇り、三階の廊下を一直線にその部屋へと向かう。
そして……。
ドアを開けたジルドレッドは、
「やられた……か」
苦しい声音でつぶやいた数秒後、込み上げる怒りのままに咆哮を上げた。
巨大な拳を壁に叩きつけた衝撃で、ドアプレートが外れ、足元に転がった。
そこに書かれた、『副団長室』の文字。
机越しの椅子に、腹部に短剣を突き立てられ、冷たい躯となったベイカー=バームラーシュが座っていた。
◇
王都ゲーケルン、貴族街。
やや遅めの朝、ベッドの上で目覚めた少年は、深い息を落とした。
──今日も会えなかった。
起き出し、壁一面に下げられたカーテンを開くと、窓ガラスのむこうに手入れの行き届いた庭が広がっている。降り続いた雨はようやく上がり、葉裏に露を滴らせていた。
──あの女性は……。
やはり夢だったのだろうか。
嵐のはじまりの夜。
降り出した雨と、鳴りはじめた雷。
あの夜、少年は雷の音が気になって、外に出た。
しかし、よくよく考えてみれば、おかしな話だ。
少年は、雷が好きではなかった。
──ううん。
ひとりの時の素直さで、少年は頭を何度も振った。
恥ずかしいので人には言いたくなかったが、少年は雷が苦手だった。もっと本当のことを言えば、怖かった。
そんな自分が、雷の音に誘われて外に出るだろうか。
やはり、自分は夢を見ていたのだ。
でも……と。
あきらめきれず、少年は思う。
夜のなかで輝く黒髪と、紅玉のような赤い瞳。
彼女から何かを話しかけられた気がするが、どんな内容だったかまでは覚えていない。
ただ、少年は、その女性に優しく抱きしめられたことだけは覚えていた。
例えようもなく甘い香りに包まれ、頭の芯が痺れるような幸福に……。
何より不思議なことに、あの夜、少年は庭先で眠っているところを爺やに見つけられたのだ。
少年に夢遊病の癖はない。
おまけに、なぜ爺やがその夜に限って都合よく庭に出てきたかと言うと、ちょうどその時、外から物音が聞こえたらしい。
そのすぐ後、白い甲冑を身につけた聖騎士たちが屋敷を訪れ、不審な者を見なかったかと問われたが、少年はもちろん「見なかった」と答えた。
──あの女性が悪い人間のわけがない。
それだけでなく、
──あの女性を守るのは、僕の役目だ。
子供らしい正義感に励まされ、少年はそう信じて疑わない。
寝巻姿のまま、少年は庭先に出た。
自分が発見された場所に立ち、春の訪れとともに次々と新緑が芽吹きはじめた朝の庭を見つめる。
風が、やわらかな少年の髪を揺らした。
少年の名はソムル。
ソムル・ソーシャ=ディル=ムラビア。
現王デナトリウスの次子である。
そのソムルが陶然と、うっとりした瞳で見つめ続けている。
現実よりも淡く、夢よりも鮮やかなあの女性を……。
【第三章・完】
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