93 ティアの道Ⅴ‐月下
いつの間にか、ティアは立っていた。
周囲の色が薄い。
すべてが静止した地下墓所に、紫電を従え、その人が鮮やかに舞い降りてくる。
その女の顔を見た時、ティアは驚きのあまり声を出すのさえ忘れた。
立っていたのは、自分だった。
相手の自分もまた、驚いたようにまばたきを繰り返している。
「わかってはいたけれど、びっくりした」
声も同じだった。
だが、自分ではない。よくよく見れば、まったくの鏡写しではなかった。
「その姿、若い頃の私そのまんま」
言葉どおり、女はティアよりも年齢を重ねているようだった。それ以外にも、瞳の色がちがう。ティアが灰褐色であるのに対し、女の瞳は黒い。
「自分の若い頃を見せつけられるっていうのも、なんだか複雑……」
女が苦笑を浮かべた。ひどく人間味あふれた笑い方だった。
とはいえ、けっして老けているというわけではない。まさに女盛りといった様子で、目の使い方や、ちょっとした仕草が、匂い立つようだった。豊かな表情からは自信を感じさせ、見た目以上に、内面から響いてくる魅力がある。
着ている服も、ぼろぼろになったティアの男装服などではなく、真新しい制服だった。
白い長衣の裾に、金糸で紋章ふうの図形が縫い取りされている。聖騎士団の制服にも通じるものがあるが、こちらはローブのような作りで、より女性らしい装飾が施されていた。
「でも、うーん……」
女は軽く腕組みすると、しげしげとティアの顔を見回し、
「よく見ると、美人よね。控え目に言って絶世の美女……」
そう言って、言葉を失ったままのティアに「冗談よ」と、微笑う。
「……」
それでもティアが目を見開いていると、女は誤解したらしく、
「やだ、本当に冗談だってば……」
女は消え入りそうな声で、「すみません、言い過ぎました」と、恥ずかしそうにうつむいてしまう。
気まずい沈黙に、女はコホン、とわざとらしく咳払いをして、
「そ、それにしてもイスラったら、アレよね」
ティアから顔を逸らしたまま、両手を組んで伸ばすように前に出す。
「またおかしなことをしたわね。男の子を、女の子にしちゃうなんて。普段はにこにこしてるくせに、いきなり突飛なことをするところ、ぜんぜん変わってない」
「……イスラ?」
ようやくティアが言葉に出すと、「そう、イスラ!」と、女は話が変わったことにほっとしたのか、軽く手を打った。
「イスラが、にこにこ?」
ティアは首をかしげた。イスラがにこにこしているところなど、お目にかかったことはない。
ティアが言うと、
「ああ、そっか」
女は腑に落ちたように、「ごめんなさい」と笑う。
「私から見れば一緒だけど、あなたたちにとってのイスラは、また別の人か」
うんうん、と女はひとりでうなずき、
「でも、一緒なの。ちょっといじわるでへそ曲がりなところもあるけど、すごく優しくて、神様のくせに人間のことが好きで好きで仕方がなくって…‥泣き虫だった私を、ずっと見守ってくれたの。ちょうど、そう、私があの人にはじめて出会ったのは、いまのあなたぐらいの時だった。そっか、だからイスラはあなたを……」
話しながら、女は愛しい顔つきを作る。
その表情を見るにつけ、どうやら敵ではないらしい。
けれどもまったく話についていけない。
困惑するティアに、女は「ごめんなさい」と、もう一度謝り、
「久しぶりに人と話したから、はしゃいでしまったみたい」
くすりと笑う。
「貴女は誰なんだ?」
ようやくティアがその疑問を口にすると、女は、「魔女よ」と答えた。
「紫の魔女とか、最後の魔女とか、他にも色々な呼び方をされたけど、でも、人よ。それ以上でもそれ以下でもない、ただの人。あなたと同じように弱くて、泣き虫だった」
魔女と称する女が、黒い瞳をティアへ向けてくる。
「だからあなたは、イスラから見出された」
「オレを……」
「訊きたいこと、知りたいことが、山ほどあるのはわかってる」
でも、と女は続けた。
「この状態は、あなたに負担をかけすぎる。いま、こうして私が見えるのは、ティアーナ、あなただけなの。私とイスラ、あなたとイスラという関係の下、禁呪によってなんとか周波数を合わせているけれど、そう長くは続かない」
……禁呪。周波数。
いずれも聞き慣れない言葉である。
「もっとも、仮に時間があったとしても、多くを答えるつもりはないわ。なぜなら、いまのあなたにとって必要な答えは、あなた自身が見つけ出さなければ意味がないものだから」
女の言葉に、ティアは思い出した。トナーからも似た言葉を言われたのだ。
「とにかく、時間が惜しい。はじめましょうか」
「はじめる、何を?」
ティアが訊くと、女が長い黒髪を払った。これまでの温和な物腰が、がらりと一変する。
「あなた自身の旅よ」
ティアの前で、女が右手を上げた。その手に、一冊の本が現れ出る。かなりの厚さがある本だった。
「真なる魔導書よ。これが有効ということは、まだ国は続いてるのね」
女は感慨深げに言い、
「ティアーナ、よく聞きなさい」
ティアを、厳しい瞳で見つめる。
「あなたは、歩き出さなければならない。自らの力で立ち上がることを覚えた赤子は、赤子のままではいられない」
本とは別の、左手を持ち上げる。
瞬間、紫の閃光が放たれた。
あまりのまぶしさにティアが目を閉じると、
『さぁ、決別の時よ』
紫に染め上げられた視界のなかで、女の声が聞こえた。
◆
『──まだ生まれたばかりの赤子にとって、世界は嵐だった』
女は、まるでおとぎ話を聞かせるように、ティアに語りかけてくる。
『風は助けを求めるあなたの泣き声をかき消し、冷たく降り続ける雨はあなたを痛めつけ、体温を奪い続ける。轟く雷鳴は、あなたを食べようとする化け物のうなり声のよう』
ぐるりと、自分が一度、大きく回転する感覚があった。
目を開いたティアの視界を、かすかな羽音とともに黒い翼が舞った。
ひらり、ひらり、と。
黒い何かが落ちてくる。ティアは、手を伸ばして受け止めた。
それは、鴉の羽根だった。
広げた手のひらで鴉の羽根を受け止めようとするも、すり抜け、落ちていく。
はっとして顔を上げると、そこは曠野だった。
黄昏時の荒れた大地。冷たく雨が降り、遠くの山の稜線には、沈みかけた太陽がのぞいている。
──ここは……。
見覚えのある場所だった。
降りしきる雨に打たれ、ひとりの少年が果敢に剣をふるっている。
聖騎士を夢見た少年が……。
ぶざまなほどの泣き顔で、少年は剣を振り続けている。
彼はいま、絶望しているに違いなかった。
誰よりも弱い心。憧れだけで夢を目指し続けた者。
それでも彼は、剣を捨てなかった。
──なぜ、戦う?
うらむ気持ちで、ティアは少年に問いかける。
お前が、その夢とともに剣を捨てれば、誰も傷つかなくて済んだ。
……お前さえ死んでいれば。
お前さえ故郷に戻らなければ、シフルは守られた。
──弱く、情けないお前のために……自分の夢にさえ立ち向かえなかったお前のせいで、なぜオレが苦しまなければならない?
──こんなものを見せないでくれ。
少年が剣を斬り上げると、男の腕が宙を舞った。
怒号が飛び交う喧噪のなか、相手の兵士から絶叫がひときわ大きくこだました。
ティアは思わず耳を押さえ、兵士から視線を逸らす。その先には……。
──イグナス……!
戦い、殺し合う戦士たちの奥に、傭兵が立っていた。
人と人の隙間から、イグナスが嬉々とした表情を浮かべ、絶望する少年を見つめている。
──オレは、見られていた。
ずっと、自分は目をつけられていたのだ。
その弱い心、弱い魂を狙って。
『ここが、タオ=シフルの夢の終わり。いいえ、終わりのはじまりだった』
女の声が聞こえた。
空間から紫電が迸り、再び現れた女が降りてくる。
『そして──』
女が、ぱちりと指を鳴らした。それを合図に、空間ぜんたいがぐにゃりと歪み、先ほど同様、自分が回転する感覚とともに、場所が変わった。
鴉の羽根が舞い、少年の家族を串刺しにした、長い槍の穂先に止まる。
そこは、シフルだった。
火を放たれた屋敷の前で、ウラスロを率いる特務部隊に向かっていく。
絶望と怒りに命を燃やしながら、少年はウラスロめがけて斬りかかろうとするも、幾人もの屈強な兵士たちが立ちふさがり、少年は斬られ、刃は届くことなく、倒れた。
何もできなかった少年。
ウラスロが、その少年の顔を足の裏で踏みつける。
勝ち誇った笑い声を上げるウラスロの、その瞳に宿るもの。
『──聖騎士となる彼の夢は、その短い命とともに、ここに潰えた。もし彼が命脈を保ち得る機会を得ていたならば、彼は奮起し、夢を目指し続けたかもしれない。でも、それは誰にもわからない。タオにも、あなたにも』
そこで世界が暗転した。
永遠の闇のなかで、静寂より、狼の遠吠えが聞こえてくる。
『ティアーナ、なぜあなたはタオ=シフルの夢にすがったの?』
その遠吠えを背景に、女の声が間近に聞こえた。
──オレは、すがってなどいない。
ティアが言った。
『ではなぜ、あなたは王都を目指したの?』
声が返ってくる。その声を聞いているうち、これが本当に女の声なのか、ティアはわからなくなった。そもそも、女の声は自分の声と同じなのだ。これが自分の裡なる声ではないと、誰が決めることができるだろう?
──王都に来たのは、何かを知り、そして得るため。
『タオの夢が終わってしまったことを、自分に言い聞かせるため?』
──オレは、タオ=シフルの夢が終わったことを、知っていた。
『でも、あなたはあきらめきれなかった』
その言葉に、ティアはかっとなった。
──ちがう!
怒鳴るように叫ぶ。
──オレはあきらめていた。
オレはもう、タオの夢にはいない。そう何度も思ったのだ。
『ではなぜ、あなたは聖騎士団の記章を望んだの?』
冷ややかな女の声に、ティアはするどく息を呑む。
『タオ=シフルの夢を捨てきれなかったのは、あなたよ、ティアーナ。あなたはタオの夢が失われていたことを知っていた。そう思い込もうとした。でも、心の底では諦めきれなかった。目を逸らしたかったのね、本当のあなた自身から』
『本当の、オレ……』
吸血鬼としての自分。
『あなたが恐れていたものは、何?』
──蛇……。
『本当に、そう?』
──オレが恐れたもの……。
狼の声が、遠くから聞こえてくる。
──復讐……。
その声は心地いい。
でも、寂しい。寂しい声だった。
ひとりきり。
ずっと、ずっと、ひとりぼっち。
──復讐は、寂しい。
『それが、あなたが生まれ変わってまで、果たしたかったこと?』
──オレが、果たしたかったこと。
己が、成すべきこと。
『夢破れたタオ=シフルが、あなたに託したもの?』
──オレが、託されたもの。
『思い出して、ティアーナ。タオがあなたに託したものは、復讐だったの?』
──タオ=シフル。
『絶望に命を絶たれたタオが、そのタオの魂が、あなたに伝えたものはなに?』
──タオが、伝えたかったもの。
ティアは、覚えている。
──オレは、覚えている。
暗闇が、薄くなった。
じわじわと、視界に景色が戻ってくる。
朽ちた教会の屋根からのぞく、満天の星々と、輝く白銀の月。
棺の中から引きずり出された自分を、盗賊たちが見下ろしている。
人を見下し、傷つけ、虐げる瞳だ。
この醜い世界。
この世は、なぜこうなのか。
生き返り、再び眼にしたこの世界は、なぜこれほどに醜い?
──そんな世界が、許せなかった。
『そしてあなたは立ち上がった。その想いゆえ、吸血鬼となることを選んで』
◇
──長い夢を見ていた。
タオ=シフルというひとりの少年の夢を見ていた。
でも、それはティアが見るべき夢ではなかった。
そして──
朽ちた教会、その祭壇の上で、ティアは棺を見下ろしている。
その棺の中に入っていたのは、タオ=シフルだった。
白銀の月の光が注がれた棺の中で眠るタオは、おだやかな顔をしていた。
とても絶望に斃れた人間とは思えなかった。
そっと触れると、痺れるほどの冷たさが伝わってくる。
悲しい冷たさだった。
「失ったのは、タオの夢」
背後から、女の声が消えた。
振り返ると、ティアのすぐ前に女が立っている。
「新たに得たのは、あなた自身の夢。弱く、すべてを奪われたあなただからこそ、あなたが望み、発する輝きもまた、途方もなく強い」
「オレの夢……」
「でもそれは、茨の道。復讐よりも、ずっと。立ち上がったあなたには、その道がどれほど険しく、多くの屍をまたぎ、血溜まりを渡らなければならないかが見えるでしょう?」
「……オレが恐れたのは、自分自身の夢」
ようやくティアは気づく。
ずっと、恐れていたのだ。
自分の夢が、恐ろしかった。
だから、棺の中に逃げ込もうとした。
終わってしまった夢とともに棺に入るべきなのは、タオだったのに。
「オレは、立ち上がることが恐かった。とっくに気づいていたんだ」
吸血鬼となったあの日から。
失ったもの、新たに得たものを感じながら、イスラに抱きついて泣いた、あの夜から……。
「人は弱い生き物よ」
女がゆっくりと手を伸ばし、ティアを抱きしめた。
「でも、恐れないで。人は夢を見、夢を目指すことができる」
耳元で、励ますようにささやく。
「悲しいことや、つらいこと、どうしようもないことだって、たくさんある。それでも──立ち上がりなさい。泣きながらでもいい、歯を食いしばって、歩き続けなさい。その夢の旗を掲げ、力いっぱいに振りなさい。あなたはけっしてひとりじゃない。志を同じくする者たちが、あなたの旗を目指して集まるのだから」
女が、ティアから離れていく。
ティアの瞳をじっと見つめ、
「いい眼よ、ティアーナ」
満足そうに笑う。その女の身体が、わずかに揺れた。紫電をまといはじめる。
「ちょうど時間切れみたい」
その言葉とともに、女の身体が薄くなっていく。
「もっとお話をしたいところだけど、間に合ってよかった」
「もう行ってしまうのか?」
ティアは消えゆく女にあわてて声をかけた。
「なぜ、そこまでオレのために?」
「あなたのためでもあるけれど、私のためでもある。イスラのためでもあるし、そして多くの人々のためでもあるわ」
ティアが返す言葉を探しているうちにも、女は薄く、見えなくなっていく。
「また、貴女に会えるだろうか?」
「もちろん」
女がにっこりと笑った。紫の光が強まり、その身体がふわりと宙に浮く。
「でも次は、あなたが会いにきて。──その時は、イスラに紅茶を淹れてもらいましょう。私もお菓子を作るわ。イスラが作ったほうがおいしいけど、そこは愛嬌で許してね」
最後に、女の言葉が耳に残った。
「……ティアーナ、頑張ってね」
◆
女が消えたあと、気がつくとティアは夜の草原に立っていた。
そのティアの周囲を、多くの影が取り囲んでいる。
イスラの影があり、カホカの影があり、他にも多くの影が自分を見つめている。
風が吹いた。
春の気を帯びた風が、草の上をすべり、ティアをすり抜け、天へと上っていく。
風に誘われるように夜空を見上げると、中空に、白銀の満月が浮かんでいる。
──あれは、タオの夢だ。
オレの夢ではない、と思う。
「オレの夢は……」
そのために得た、吸血鬼の力。
「これからオレは、多くの血を飲むだろう」
ティアは白銀の月にむかい、声を張り上げた。
「血を飲み、血にまみれ、多くの命を奪うだろう」
白銀の月が、その言葉に応えるように、赤く変色をはじめた。
「この醜い世界を、オレは変える。たとえオレがどれだけ醜く、化け物と罵られ、蔑まれようとも」
月が、血のしたたるような赤い紅玉の色へと変じる。
「私は変わる」
ティアの瞳に、月を映じたように赤い輝きが満ち、涙が流れた。
「私の行いが許せなければ、私から力を奪い、ただちに殺すがいい」
言い逃れも、言い訳もしない。
ティアは、自分の指を胸に食い込ませた。
「お前のその輝く光でもって、いつでもこの胸に杭を打ち込むがいい」
熱い鼓動を鳴り響かせる──その心臓を握りしめるように。
「私は、変わる!」
弱いからこそ、戦わなければならない。
弱いからこそ、立ち上がらなければならない。
「私は、変わってみせる!」
決然と、月に吠えた。