85 春宵一擲Ⅴ
雨に濡れている、青よりも深い青。
しなやかな肢体に、ドレスが張りついている。
鍔が長い十字架型の剣、そしてスピアを両端に携えた神器──星槍ギュロレットをファン・ミリアは軽々と回した。
星槍の軌跡が、虚空に青光の車輪を描く。
「いったいどうなっている?」
前方を注視していたファン・ミリアは、カホカに視線を落とした。
隣のレイニーが、カホカを押しのけて立ち上がってくる。
「ムカつく顔だねぇ」
「ちょっと!」
カホカが制止するよりも早く、レイニーが棍を繰り出してくる。
ファン・ミリアは星槍でもって簡単に捌くと、
「レイニー=テスビア、脱獄したのか」
いくぶん驚いたものの、ここにカホカがいる以上、推量は難しくない。
「……二度も負けるのはゴメンだよ」
レイニーが続けざまに棍を振ってくる。
──恨まれているようだ。
しかし、それも無理のない話なのだろう。彼女を打ち負かし、捕縛したのは他でもないファン・ミリアだ。
「レイニー、待ってってば!」
カホカがレイニーの足首を掴んだ──ものの、
「ぐへ」
振りほどこうとするレイニーの足が、カホカの顔面を蹴った。
「あ、悪い」
「……しんどいんだから……動かせんなよ……」
謝るレイニーに、カホカはぐったりと顔を伏せた。
ファン・ミリアはふたりのやりとりを眺めつつ、レイニーが戦える身体ではないと分析を終えている。カホカも同じか、あるいはそれ以上の深手だろう。
冷静に見定め、視線を転じた。
黒狼と、最後のひとり……。
しかし、どちらも脅威には感じられなかった。特に、黒狼は以前の姿からは想像もつかないほど威勢を落としている。
神力がまるで感じられない。
──これら全員が鷲のギルドの関係者だとすると……。
かなり危機的な状況に陥っていると見てまちがいない。
「サティ……」
カホカに呼ばれ、ファン・ミリアは再び足元へと視線を戻した。
「あいつ……イグナスは?」
「おそらくは、まだ生きている」
ファン・ミリアが答えると、カホカは黙り込んだ。それからしばらくして、
「……サティにお願いがあるんだ」
まるで絨毯に話しかけているようだ。
「助けて」
ごくちいさな声で、カホカが言った。
──まったく……。
その衒いのなさに、ファン・ミリアは内心で苦笑した。
──可愛げがある。
感動を覚えたといってもいい。つい先日の襲撃事件を思い返せば、「どの口が!」と面罵できる立場のファン・ミリアだからこそ、カホカの物言いが、いっそ潔く清々しかった。
──得な性格をしている。
ファン・ミリアはどうにも、飾らない性格のこの娘が嫌いになれない。
きっと、と思う。
──私は、カホカのことが羨ましいのだろう。
つらい時、素直に「助けて欲しい」と言える彼女の性格が。
そして、カホカを羨ましいと思える自分が、すこしだけ嬉しい。
「……あの黒き狼は、敵ではないのか?」
念のために訊くと、すぐにカホカから「味方」と返ってきた。
黒狼は、離れた壁際の近くで、手負いらしい娘の傍らに座っている。彼女が蝙蝠の女であり、ユーセイドであることは間違いないだろう。
ファン・ミリアは棍を構えたままのレイニーを一瞥した。
「お前たちからは多くを聴かせてもらう必要がある。が、まずはカホカの手当てをしてやれ」
「あんたの指示を受けるつもりはないね」
レイニーが不機嫌顔で返してくる。
「……いや、しろよ。手当て……」
うつ伏せたカホカの抗議に、ファン・ミリアはちらりと微笑みをのぞかせた。そして、大股で黒狼に歩み寄っていく。
琥珀の瞳が、無言のままじっとこちらを見上げていた。
ファン・ミリアはひるむことなく黒狼を見つめ返したまま、両膝を落とした。
娘に手を伸ばしかけると、
「触らぬ方が良い」
黒狼から告げられ、一瞬、ファン・ミリアの手が止まるも、構わず娘を抱き起こした。
破られた服の腹あたりに、黒い蛇の刺青がのぞいている。抱き起されたにもかかわらず、娘の瞳が、ファン・ミリアに向いていない。虚空を見つめながら、瞳の色が赤くなり、灰色になりを繰り返しながら、大量の脂汗をかいていた。
「なぜ放っておく。この者はお前の仲間ではないのか?」
ファン・ミリアが、責めるように黒狼を見つめた。
黒狼はしばらくの間、ただファン・ミリアを見つめ返していたが、やがてあきらめたように、
「これは、我が巫女である。半身と言ってもよい。だが、手の施しようがない」
「詳しく話せ」
「こやつ自身が、負けを認めておる」
淡々とした口調が、かえって絶望を感じさせた。
「この程度の異物、本来であれば拒絶できぬわけがない。私がこの娘──ティアに与えた力は、それほど脆弱なものではない」
「ティア……」
それが娘の名前か、とファン・ミリアは思う。いつかカホカから聞いた通り、たしかに自分の名に似ている。
そして。
──この黒狼は、自分の力のほとんどを彼女に譲ったのか。
黒狼の話を聞くにつれ、ファン・ミリアはティアが何者であるかの確信を強めていく。
「私は──」
ファン・ミリアは、瞳の力をゆるめた。汗に濡れるティアの額を、手のひらで優しく拭う。
「この者を、救いたい」
紫水晶の瞳を持ち上げる。
「助かる手段はないのか?」
「問題は、ふたつ」
黒狼がファン・ミリアを見た。
「ひとつは、私がこの娘に目をつけるよりも早く、あのイグナスという男に、すでに目をつけられていたこと」
「どういう意味だ?」
「わからぬが、私とティアの関係に瑕疵があったらしい。この腹の紋……これが呪詛のようなものだとして、事前に印をつけられていた、ということじゃ」
ファン・ミリアは黒狼の話に耳を傾ける。
「もうひとつは、この娘の心の隙を突かれたこと。むしろ、こちらの方が深刻とも言える」
その言葉の意味を探り、ファン・ミリアが黒狼をうかがうと、
「天敵じゃ」
「……天敵?」
「ティアとあの男との関係が、まさしくそれに当てはまる。蝙蝠と蛇では、相性が悪すぎる。いまこれが感じている怯えは、健全な本能に根差しておる。むしろ、あの男がいるこの場に来たこと自体、生物の行動としてはおかしい」
話しながら、ふと、黒狼が視線を落とした。
「……筆頭……?」
意識の混濁から覚めたのか、ティアの瞳が、ファン・ミリアを映している。
「そうだ。私がわかるか?」
抱き上げる腕に、我知らず力が込められた。
けれど、ティアは弱々しく顔を逸らした。おぼつかない手の動きで、ファン・ミリアを押し返してくる。
「ぅ……」
声を出さぬよう、きつく口を閉じ、手を突っ張ってファン・ミリアから逃れようとする。
「……離れ、て」
「なに?」
既視感を覚えた。前も、同じようにこの手を拒まれた。
「オレから……離れ……て……早く」
腹の蛇が、にわかに蠢きはじめた。歯を食いしばり、耐えていたティアの口が開いた。うめき声がしだいに大きく、悲鳴へと変わっていく。
「これは……!」
刺青だったはずの蛇が、現実のものとなって鎌首をもたげてくる。牙をのぞかせ、ファン・ミリアに噛みつこうとするのを、ラズドリアの盾が即座に反応し、弾いた。
蛇特有の軋むような威嚇音を発しながら、その長い胴が太くなっていく。
「くっ!」
星槍を手に、ファン・ミリアは蛇を根元から両断した。だが──
「無駄じゃ」
黒狼の言葉を証明するように、再び刺青から蛇が浮き出てくる。
「恐怖の隙を突いて、ティアの魂に食い込みはじめておる。宿主から力を得ておるゆえ、どれだけ潰そうと意味がない。かえってティアを弱らせるだけじゃ」
「あのイグナスという男を滅ぼすことができれば、ティアは助かるのか?」
「わからぬ。私自身、奴と向かい合ったが、まったく底が知れぬ。滔々と湧き出る泉のようなものじゃ。その無尽蔵とも思える力が、奴を不死に仕立てておる」
黒狼はティアに視線を落としている。そのまなざしは、ファン・ミリアが知る獰猛な狼とは似ても似つかない。
「──私は、この娘にすべてを賭けておる。この娘が使えぬであれば、是非もない。私の命脈も長くは保つまい。であれば、せめて我が信民のために一矢報いてやるくらいか」
「信民?」
「とうの昔に力を失った私を、飽きもせず信奉し続ける愚かな者たちがおる」
「それは──」
訊きかけた時、黒狼が鼻に皺を寄せた。耳を立て、警戒を示す。
ファン・ミリアもまた、背後に立つ気配を感じ取っていた。
「……隠れているつもりか?」
振り返ることなく、ファン・ミリアが言った。
「さすが神託の乙女だ」
声とともに、何もないはずの空間が波打つように歪んだ。鏡のように周囲の景色を映したかと思うと、イグナスが姿を現す。
ファン・ミリアが放った光の奔流に呑み込まれ、焼け爛れた皮膚が、再生をはじめていた。古い肌を鱗のように削ぎ落としながら、新たな肌がその隙間を覆う。
「こう見えて蒸風呂が好きでね。あの程度の光じゃ、俺を殺すことはできんぜ」
「不死者か……」
ファン・ミリアは労わるようにティアを寝かせ、
「だが、時間稼ぎには十分だったようだ」
意味ありげにイグナスに告げた。さらに、「どうした?」とファン・ミリアにしては珍しく挑発するように笑う。
「私はいま背を向けている。隙だらけの状態だぞ?」
「……」
薄い笑みだけを残し、イグナスが剣を構えた。
ファン・ミリアは、ゆっくりと顔を持ち上げていく。
「お前は、許さん」
柳眉を逆立てる。
「これより、我ら聖騎士団がお前を打ち滅ぼす」
その言葉とともに、横の壁に亀裂が走った。体当たりする恰好で、聖騎士グスタフが廊下に飛び込んでくる。手持ちの剣が閃き、イグナスの身体を袈裟に斬った。さらに逆の手を高く掲げる。手のひらから放たれた無数の光弾が、イグナスの身体を乱れ撃った。
「ぬ、ぐッ──」
押し込まれつつ、しかし、イグナスはにたりと嗤う。
「こいつが切り札か?」
難なく持ち応えた時だった。
「──いいや、ちがうな」
腑に響くほどの低い声が、上から聞こえた。天井が抜け、巨体が瓦礫とともに落ちてくる。
「まさか……!」
イグナスの蛇の瞳が、驚愕に見開かれた。
分厚い紫紺のマントをはためかせ、その巨人とも呼べるほどの偉丈夫が、剣を握るイグナスの拳を掴んだ。その手もまた、イグナスの拳を覆い、まるまる押さえつけるほどの大きさがあった。
「切り札は、俺だ」
「……英雄ジルドレッドか」
はじめて、イグナスの表情から余裕が失せた。