82 春宵一擲Ⅱ
窓側の絨毯が早くも濡れはじめている。
割れた廊下の窓から、高い尖塔群の一部が見えた。それらを超えたむこうに、水嵩を増したヌールヴ河が暗く広がっている。
──つまり、王城の北側か。
レイニーは自分の居場所の見当をつけた。どうやらこの建物は北の崖に寄った位置に建っているらしい。
一際大きな唸り声に視線を転じると、狼のまとう陽炎が、黒い球体を作りはじめていた。
狼が鼻先を上向かせた。琥珀の瞳にレイニーを映し、
「──女、早くこの場から立ち去るがよい」
レイニーに話しかけてくる声音は、恐ろしいものではなかった。
「できない相談だね。こっちもあいつには貸しがあるんだ」
身構えたレイニーが返すと、黒狼は息を吐いた。嘆息したらしい。
「巻き込まれて死んでも責任は持たぬ」
「頼んじゃいないよ」
レイニーが言うと、狼の周囲に浮かんだ球体が、水中の気泡のように、ぽこり、ぽこり、と細かい分離をはじめた。球体は次々と分離を繰り返し、わずかな時間で廊下を埋めつくすほどに増殖する。
細かい無数の球体が、イグナスを囲みはじめる。
「で、この次は何を見せてくれるんだ?」
異様な光景を目の当たりにしながら、イグナスは泰然としたものだった。口元をゆるめた表情はまるで緊張感がなく、剣の平で軽く肩を打っている。
狼が頭を低く構えた。獣が、獲物に襲い掛かる直前に取る姿勢。大型の獣特有の、しなるような動きだ。
──はじまる。
レイニーが思った時、宙に浮いた黒い球体が、鋭い刃物の形状に変化した。イグナスに向かって間断なく放たれる。
「怖ぇな、おい」
イグナスの間合いに入った黒刃が、甲高い金属音とともに弾かれた。見ると、いつの間にか剣を握るイグナスの腕が振り抜かれている。その場から一歩も動かず、片腕のみで剣を振り回しはじめた。
あまりにも速く、その剣筋はレイニーですら追いことが難しい。一見すると大雑把に剣を振っているかと思いきや、よくよく見れば動きに無駄がなく、最小限の動きでもって次々と叩き落としているのがわかる。
単なる力任せではなく、技術に裏打ちされた剣さばきであることは明らかだ。
業を煮やしたのか、黒狼が動いた。
地を蹴り、イグナスの喉笛めがけて牙を剥く。イグナスは剣を振りながら上半身だけを反らして牙をかわすと、空いた手で狼の首根っこを掴んだ。
「行儀が悪いな」
片腕だけで狼の巨体を軽々と持ち上げ、飛んでくる黒刃からの盾にする。
自滅するかと思いきや、ばしゃり、と黒狼の体躯が一瞬で水となり、弾けた。
遮蔽物を失い、飛来する刃がイグナスの肩口に突き刺さった。
「お?」
それをきっかけに、一群の黒刃が殺到した。
イグナスは口元を緩めたまま、迫り来る刃を剣で落とし続ける。肩を傷つけられたにもかかわらず、剣速は衰えるどころかさらに加速していくようだった。どういうわけか出血さえしていない。
──どっちも化物だね。
遠巻きに、レイニーはその様子を見守ることしかできない。この一匹と一人の戦いは、常識の箍が外れている。
──どうしたもんかね。
レイニーは考える。
自分は、狼に助けられたことになるのだろうか。
──単に巡り合わせの問題か。
だが、レイニーにとっては助けられて終わり、というわけにはいかない。狼に対する義理人情の前に、蛇は自分の手で潰してやらなければ気が済まない。
かといって、得物もない。
今の自分では大した役には立たない。むしろ足を引っ張るのが関の山だろう。
それでも、逃げようとは思わない。
何かできることはないか、と様子をうかがっていると、床に飛び散った黒い液体がイグナスの背後に集まり、隆起して狼を形作った。
イグナスは、黒刃を打ち落とすことに集中している。飛び上がった狼が大口を開いた瞬間──
「なんだい、あれは?」
レイニーは自分の目を疑った。
それまで前を向いていたイグナスが、突如、上半身だけをぐるりと回し、背後を向いた。その勢いを利用して剣を振り払う。
黒狼もすぐに反応し、身体を持ち上げるように宙返りを打つと、剣撃を空振りさせた。『声』で衝撃波を放つ。
イグナスは両腕を交差させ衝撃から身を守る。短衣が破れ、太い腕に血管が浮き上がった。しかし背後の防御には間に合わず、その背中に次々と黒刃が突き刺さっていく。
「ったく。服が穴だらけになっちまうぜ」
服どころか、自分の背中さえもが針鼠と化したにもかかわらず、痛がる素振りさえ見せない。
「目くらましが多いな」
うすら笑いを浮かべ、イグナスが黒狼に話しかけた。
「力が足りてないんじゃあないのか?」
眼孔のなかで目玉がぎょろりと一周した。人の瞳から、蛇の瞳へと切り替わる。上半身に遅れて下半身までもが振り返り、イグナスのねじれが解消した。
「この隙に、逃げたきゃ逃げてもいいんだぜ、レイニー=テスビア」
こちらに背を向け、イグナスが言った。肩越しに、蛇の瞳がレイニーを捉える。
「……安い挑発だ」
レイニーが唾を吐くと、
「もっとも、逃がすつもりはないがね」
にやり、とイグナスが口の端を上げた。
──なんだ?
黒刃が刺さったイグナスの背中が、内側に凹みはじめる。
直感で、レイニーは危険を感じた。黒狼がこちらに走りかける素振りを見せるも、イグナスの剣光が閃き、逆に間合いを取らざるをえない。
「……蛇めが」
獰猛な黒狼が、忌々しい口調で吐き捨てる。
「避けよ、女!」
狼の声にレイニーが後方に跳ぶのと、イグナスの背中から黒刃が発射されるのは同時だった。
「くっ!」
跳びながら身体を丸めた時、
──あれは……。
レイニーは気づく。
視界の横──黒狼が破壊して侵入した窓枠に、いつの間にか鈎が掛かっていた。
『それ』は嵐の空から、吹き荒れる風とともに現れた。
回転しながら着地し、そのまま濡れた絨毯をすべって逆の壁に裸足をつく。
「じゃじゃーん!」
威勢よく叫んだのは赤いドレスを身にまとい、黒髪を豪華に結い上げた碧眼の少女だった。
「──秘儀、絨毯返し!」
少女は足の指で絨毯を掴み、蹴るように持ち上げた。すべりながら、左の篭手に見え隠れする暗器で絨毯を切っていたらしい。
黒い刃のうち、一部が絨毯を貫通してきたものの、勢いを弱めている。レイニーはいくつかをかわし、手刀で払い落し、残りを掴み取った。
一方、少女はイグナスめがけて走りはじめている。
「勝負!」
碧く、勝気そうな瞳がぎらりと輝いた。
「当たれば死ぬ! 喰らえ必殺──」
走りながら右腕をぐるりと一回転させ、腕っぷしを示す。
「……ああん?」
半信半疑な表情を作りながら、イグナスがつられて両腕で防御をした。
「カホカちゃんパーンチ!」
防御の上から構わず拳を放ち──
「──と見せかけてキーック!」
ぎりぎりで拳を止め、下からの爪先蹴りが見事にイグナスの顎を捉えた。
「ぐ、ぉ……!」
イグナスの顔が跳ね上がる。
ぶぁーか、と少女は鼻で笑い、
「こいつぁ、ゲロ甘ァ!」
などと叫びながら、軸足を入れ替え、後ろ回し蹴りを放つ。本気なのかふざけているのか、いまいち掴みかねるが、その身のこなしは極めて洗練されたものだ。
少女の踵がイグナスの顔面を狙う。
「──なるほど。嬢ちゃんが噂の邪魔者だな」
すぐに体勢を立て直したイグナスが、その踵を掴みにかかる。
だが──
「知らねーよ、誰だてめー」
少女の足が残像となってイグナスの手をすり抜けた。と思いきや、もう一度下から同じ箇所──顎を蹴り上げる。一撃目よりも高く跳ね上がったイグナスの首元を、横から黒狼の顎がかすめて過ぎる。
「が……」
イグナスの喉が噛みちぎられ、えぐられた。指が、首にぽっかりと空いた暗い穴を掻き、そのまま後ろに倒れていく。
少女は慣れた動きで狼の毛を掴み、ひらりと飛び乗った。
「イスラじゃん、こんなとこで何してんのさ?」
「……降りよ。それは私の台詞じゃ」
少女は構わず、その背に顔をうずめる。
「相変わらず獣くさいねぇ」
「獣じゃ。何が悪い?」
イスラと呼ばれた黒狼はつまらなそうに言うと、レイニーの前まで歩いてくる。
「お前たち、なぜここにいる」
黒狼がレイニーを見上げてくる。
「あたしかい?」
レイニーが自分を指さしたものの、黒狼の視線はそのさらに後ろに向けられている。と同時に、レイニーは背後の気配に気づいた。あわてて振り返ると、そこに金髪の貴公子が立っている。
彼はこちらに気を留めるでもなく、また狼の声さえ耳に届いていないのか、
「……イグナス」
ひどく驚いた声音でつぶやいた。