81 春宵一擲Ⅰ
ウル・エピテス城内にて。
──身体が重い。
足は萎え、踏み出すごとに倒れ込みそうになる。
視界がぐるりと回った。立ちくらみが起こり、レイニーは床に膝をつく。
「くそっ!」
膝だけでは支えきれず、両手をついた。絨毯を握りしめる。
「キツそうだな」
前を歩く男が、こちらに引き返してきた。
「ちょっとだけ待っておくれ」
言って、レイニーは顔を落とした。ゆっくりと息を吸い、吐く。
深呼吸のたび、大きく肩が上下する。ノールスヴェリア出身のレイニーは、東ムラビアの平均的な女性よりも背が高い。ほとんど襤褸に近い囚人服はあちこちが破れ、ダークブロンドの髪が胸元まで落ちかかっている。
男が、隣にしゃがみ込んでくる気配があった。
「無理をさせて悪いが、すこしだけ急がせてもらう」
「いや、悪いのはこっちさ。手間をかけちまってすまないね」
男に支えられ、レイニーは立ち上がった。
もつれる足で歩きはじめる。
レイニーはまばたきを繰り返した。気を抜くと視界が白くぼやけてくる。
意識の糸を見失わぬよう、必死になって手繰った。
──この男。
レイニーを支える腕から、男のたくましい力が伝わってくる。
──だけど……。
男は何者なのか。
凄腕ではあるのだろう。レイニーが幽閉されていた塔に忍び込み、守衛が声を発する間もなく斬り捨てたのだから。
男は散歩にでも出かけるような軽装だが、武器に関しては二振りの剣を持っていた。一本はこれといって特徴のない、市販されているような剣で、腰に佩いている。もう一本は、背中に背負っていた。かなり大振りである。ツーハンデッドソードと呼ばれる両手剣の一種だった。相当な値打ちものらしく、鞘には蔓草の模様に、宝石がいたるところに嵌め込まれている。
「あんた、ティアの仲間かい?」
乱れる呼吸で、レイニーは尋ねた。
「そうだ」
男はいくつもの角を曲がって廊下を進む。はじめは方角を気にしていたレイニーだったが、疲労の色が濃く、途中で考えることができなくなった。
「名前は?」
「イグナスだ。仲間ってより、部下ってところかもな」
銀髪の男──イグナスは名乗り、口の端を上げて笑った。
「鷲の頭を助けてくれと命令を受けて来た」
そうかい、と、レイニーは前を向き、歩を進めた。薄緑の瞳が、弱々しいまばたきを繰り返している。
「……これだけゆっくり歩いてるのに、誰にも会わないもんだねぇ」
「バレないよう、道を選んでいるつもりだからな」
イグナスはごくあっさりと告げてくる。
そうかい、とレイニーはもつれる足でうなずくと、
「ティアは元気かい?」
「ああ、ピンピンしてる。あんたが戻るのを待っている」
「──旅」
「ん?」
イグナスが怪訝そうな表情を浮かべた。
次の瞬間、立っていることさえつらいほど消耗していたレイニーが、電光石火の動きを見せた。
腕をふりほどき、素早くイグナスの背後に回り込むと、
「騙ってんじゃないよ!」
怒鳴り、股間を蹴り上げた。
「う、ご……」と、イグナスの両膝が落ちかける。さらにレイニーは跳び上がり、その後頭部に両足を叩き込んだ。
全力の飛び蹴りに、イグナスが前のめりに吹っ飛んでいく。
背中で受け身を取ったレイニーは、荒い息をつきながら身体を起こした。
「誰だい、お前は?」
立ち上がり、よろめきながらもにらみ据える。
うつ伏せに倒れたイグナスが、くつくつと笑うのが聞こえた。
「なぁんでバレたかねぇ」
イグナスが、片手で逆立ちをした。にやにやと笑みを浮かべている。
さてね、とレイニーも冷笑を浴びせ返す。
「ティアは、助けに来ると言った。あの娘と会ったのは一度きりだけど、自分だけ安全な場所に篭もる性格には見えなかったのさ」
それに、とレイニーは内心で思う。
イグナスを信用するしないにかかわらず、合言葉を試すつもりだった。
──用心深くなけりゃ、この王都じゃ生き残れないからね。
レイニーは、足腰に力を込めた。
「なるほどなぁ」
イグナスは片腕の力だけで身体を浮かせると、両足で着地した。
こきり、と首を左右に倒す。
「男のアソコを蹴り上げるなんざ、人とも思えぬ所業だな。さすが鷲の頭はやることがちがう」
イグナスは平然と軽口を叩く。まるでダメージがないようだった。
「……アタシをどうするつもりだい」
明らかに、この男は尋常の者ではない。早くもレイニーは感じ取っていた。弱っている身体とはいえ、レイニーは手加減しなかった。当たりどころが悪ければ死んでいてもおかしくないのだ。
「どうすると思う?」
「なに?」
「どうされると思う? レイニー=テスビア」
くく、と、イグナスが笑い声をもらしながら、両の手のひらを上にした。指の関節を鳴らしはじめる。コキコキと、いつまでも不快な音が鳴り続ける。
「想像してみろ、レイニー=テスビア。まずお前は、女に生まれた悦びを知ることになる。次に、女に生まれた悲しみを知るだろう。なぜ人が恐怖と痛覚を持つか、上手くすると真実にたどり着けるかもな」
嗤いながら、イグナスが指の動きを止めた。右手を持ち上げ、
「とにもかくにも、だ。レイニー=テスビア。俺に、『何者だ』と聞いたな?」
その手が、一瞬だけ銀の瞳を覆い隠したかと思うと、
「お前は──」
レイニーは驚き、そして喉の奥でうめいた。
手を離した男の瞳孔が細長く、縦に伸びている。
まるで、爬虫類のように。
「蛇……」
つぶやいてから、レイニーは自分の言葉の意味を理解した。
「まさか……お前が『蛇』のギルドの」
くく、とイグナスは笑い、
「仇敵同士、はじめまして、とでも言っておくか」
今度は左手で瞳を隠し、開いた。蛇の瞳が人のそれに戻る。
芝居がかった仕草は、こちらを脅かす意図からだろうか。だが──
「ようやく──」
レイニーには逃げるつもりなど毛頭なかった。
その場で身構える。怒りが、萎えた身体を奮い立たせた。
「お前をぶっ殺して、蛇のギルドを叩き潰すことができそうだ!」
「ククク──」
イグナスが嗤いながら前のめりに姿勢を取る。
「その意気だ」
言って、イグナスが踏み込んだ。
──迅い!
レイニーがそう思った時にはもう、イグナスが目の前に迫っていた。右手で腰の剣を抜き去り、振り上げている。
「ちと、遅すぎるな」
銀の瞳が、愉しげに細まる。
避けられない、一瞬でそう判断したレイニーは、イグナスに突進した。
武器も何もない。徒手空拳である。
わかっていながら、レイニーには退くことなどできない。
ここで退けば、蛇との抗争で失われた仲間たちが浮かばれない。
妹に、顔向けできない。
「ぶち殺す!」
覚悟の言葉を吐いた時、近くの窓ガラスが割れ飛んだ。そこから、黒い影が飛び込んでくる。
「──見つけたぞ」
影が女声で人語を発した。四本の肢を持った黒い獣だ。それが、イグナスに向かって吠える。
「ちっ」
舌打ちとともにイグナスが飛び退った。黒い獣の放った『声』は衝撃波となり、イグナスの立っていた石壁に打ち当たって破片を飛ばす。
影が、レイニーに背を向けて立つ。
「……狼?」
イグナスと対峙した獣は、狼だった。
黒狼は呆気に取られるレイニーを一顧だにすることもなく、鋭く大きな牙を剥き出しにすると、
「その匂い、貴様じゃな?」
聞くだけで肌が粟立つほどのうなり声を上げる。
「我が信民を害するだけでなく、その魂までをも愚弄した罪、万死に値する」
怒れる狼の体躯から、陽炎のように闇が立ち上りはじめた。
「泣き別れじゃ。貴様の首を胴体から引きちぎり、墓前への手向けにしてくれる」
「招かれざる者か──いいだろう」
イグナスは怖がるどころか、ますます愉しげに白い歯をのぞかせた。
「ちょうど狼の剥製が欲しかったところだ」