80 嵐の中でⅫ
レイニーが捕らわれている牢獄──その尖塔に繋がる空中回廊にカホカは取りついた。
壁を外窓まで移動し、篭手から金属の針を取り出した。細く、複雑に曲がった先端を鍵穴に差し込む。しばらく針を操っていると、カチャリと鍵が外れる手応えがあった。
にやり、とカホカはしたり顔を作る。
──チョロいもんだぜ。
天下の大泥棒カホカちゃんとはアタシのこと、そう思いながら内部へと滑り込み、螺旋階段を上りはじめたカホカだったが、
「……おかしいな」
すぐに異常に気がついた。
──なんか、静かすぎる。
壁にかけられた松明は、カホカの影のみを伸ばし、縮めている。
人の話し声や足音が、まるで聞こえてこない。
壁越しに雨音だけが響いている。
サス救出からさほど時間が経っていないのに、ここまで警備を手薄にするものだろうか。
たしかに、カホカの知る貴族とは保身の生き物である。今夜に限っては迎賓館に人手を回している可能性も否定できない。
──それにしたってすくなすぎるけど。
この階段自体、幅も狭く、人がすれ違うには体を横にずらさなければならない。衛士をひとり置くだけで、囚人の脱獄を防ぐことができるはずなのだ。
にもかかわらず、塔内には人っ子ひとり見当たらない。
──いやぁな感じ。
さすがに気味の悪さを感じたものの、結局、あっけないほど簡単に目的の階層にたどり着いてしまった。
カホカはまず、階段にへばりつく恰好で顔を覗かせた。天井が見える。松明の明かりがちらちらとこちらまで届いていた。火の揺らめきに人影は映っていない。
耳を澄ませてみるも、やはり何も聞こえない。
人の気配もない。
──どうしようかな。
階段に腹這いになったカホカの頬を雨粒がつたう。
人の気配がないのは想定外だ。こちらが気づかないほど、巧みに気配を消す者がひそんでいる可能性も捨てきれない。
──だったとしても、やることは一緒だよな。
すぐに思い直した。
いまのところ逃げを打つ手はない。ここで判断を遅らせて得になることはない。
神経を研ぎ澄ましながら、カホカはじりじりと身体を進めた。天井の視界がすこしずつ下がり、正面奥の壁が見えはじめる。
カホカの身体が、警戒で止まった。険しい表情を作る。
明かりを受けた碧い瞳が、食い入るように床を見つめていた。
床に、大量の赤い血溜まりが広がっている。
「……嘘でしょ」
カホカは血相を変えて階段から飛び出した。
「レイニー!」
名を呼んだものの、
「──ちがう」
カホカは牢屋ではなく、入ってすぐ横の詰所を見た。
こちらに作業机を向け、衛兵らしき男が、その上に突っ伏している。机の上から溢れた血が、床の血溜まりへと流れ落ちていく。
男は絶命していた。
「……レイニー! レイニーはいる?」
死体を見ながら奥へと声をかけるも、返事はない。
カホカは血溜まりを飛び越え、牢屋へと歩いていく。
歩くたび、濡れたドレスから水滴がしたたり落ちていく。
松明から遠ざかるほどに光は弱く、そして暗くなっていく……。
一番奥の部屋は、火の揺らめきを感じる程度だった。
たどり着き、牢屋の中を見る。そして──
「ティア?」
カホカはすっとんきょうな声を上げた。
牢屋にいたのはティアだった。ひとり、佇むように立っている。
「なんでアンタがいるの?」
「オレもいま来たばかりだ」
「ファン・ミリアからはうまく逃げられたみたいだね」
「いや、むしろ逃がしてもらったと言うべきだろうな」
ティアはユーセイドの姿で軽く笑い、
「詳しくは後で話す。それよりいまは──」
牢屋の中を見渡した。饐えた匂い。床には古い血が付着しており、レイニーを繋ぎ止めていたであろう銀の枷が転がっていた。
「見ての通り、レイニーならここにはいないよ」
訊かれる前にカホカは伝えた。
「では、どこへ?」
「さぁ」
カホカは肩をすくめてから、「こっち」と足早に牢屋を出た。
床の血溜まりと、詰所の死体をティアに見せる。
「アタシもいま来たところ。で、来たらこんな感じ」
「連れ出した者がいるのか……」
ティアはひとりごとをつぶやくようだった。カホカは首を傾げるしかない。
「誰に? こんな乱暴な真似、タダ事じゃないよ」
「軍ではなさそうだな。聖騎士団とも思えない」
そう言って、ティアは机につっぷした男の頭を両手でつかんだ。カホカは「げ」と呻く。ティアは男の顔を持ち上げると、しゃがんだ位置から覗き込んだ。
死に顔は、安らかなものではなかった。男は眼と口を大きく開いている。
「驚いているところへ、一撃で喉を切り裂かれたらしい」
おそらく即死だったろう。突然の死は憐れだが、苦しんだ跡がないのを救いと思うしかない。
ティアは深く切られた男の喉に指を触れさせた。その血をペロリと舐め取る。
「……まずいな」
顔をしかめ、口に含んだ血を吐き捨てた。
「やめてよ、きっしょい」
カホカが嫌そうな顔を作るも、ティアは平然としたものだ。
「まだ殺されたばかりのようだ。三十分も経ってはいないはずだ」
「そんなことがわかんの?」
「吸血鬼は死人の血を飲むことはできない。それでも、力の残滓は感じた」
ふーん、とカホカもうなずき、「てゆーか」と気づいた。
「殺されてからまだそれだけしか経ってないなら、ほとんどアタシと入れ違いだった、ってことじゃないの?」
「そういうことだろうな。いまならまだ追えるかもしれないが」
答えながら、ティアは言い知れぬ不安が胸に湧き起こるのを感じはじめていた。
馬車で感じた、とても不吉な何か。
その時だった。
ティアは弾かれるように顔を上げた。
「この感覚……」
驚いた声音でつぶやき、
「カホカ、ついてきてくれ」
それだけ告げ、ティアは階段を駆け下りはじめる。
「えぇ? 今度は何?」
あわててカホカもその後を追った。