78 嵐の中でⅩ
暗澹とした気分が、さらに落ち込んでいく。
いますぐにでも迎賓館を出たいファン・ミリアだったが、黙って帰れば礼儀知らずと受け取られかねない。
──帰るにしても、せめて晩餐会の参加者だけにも旨を伝えておかなければ。
そう思ったからこそ、ホールへと足を運んだ。けれど。
グラスを一気にあおったものの、気分は晴れることもなく、先ほどのシフルをめぐっての会話が頭の中でぐるぐると回っていた。
領地としてのシフルは、広くもなく、人もすくない。
そんな場所にウラスロが興味を示し、共同統治をと言い出したのは、ひとえに自分をどうこうしたいから、ということはわかる。
──シフルをあきらめたほうがいいのだろうか。
自分の行動が裏目に出るなら、何もしないほうがマシだろう。従うべき主を失った民は憐れだが、さらに傷つくのを見るのは、つらい。
──情けない。
ファン・ミリアは腕を組み、歯噛みをした。
──私は、決心したはずだ。
シフルを手に入れる、と。
理屈ではない。自らで決めた意思をこうも早く曲げようとしていることが、情けない。
ファン・ミリアがシフルを望めば、ウラスロの妨害が入るのは予見できたことではないのか。
ならば、それを見越したうえでの行動を取るべきだったのではないのか。
──自分が未熟だった、ということか。
額に手を当て、溜息をつく。
──悔しい。
情けない。悔しい。
自分の浅はかさが、悔しくてしょうがない。
憂鬱に顔を落としていると、
「ファン・ミリア=プラーティカ様」
おだやかな声に名を呼ばれた。
ファン・ミリアがゆっくりと顔を上げると、ひとりの貴公子が立っていた。
見知らぬ顔だ。
「ひどくお悩みのようだ」
金髪の青年は、身長こそ高くはないが、たいそう整った顔立ちをしている。やや時代がかった衣装がよく似合っていた。
ファン・ミリアを直接見るのではなく、灰褐色の瞳を、やわらかくテーブルの上へと投げている。
「申し訳ないが……」
いまはひとりにしておいてほしい、そう言いかけたグラスを持つ手が、大きく震えた。
──蝙蝠の女……!
黒の霧によって顔の全体こそ見ることはできなかったが、目の前の青年の唇が、女のそれと見事に重なった。声も低く抑えているようだが、酷似している。
テーブルを向いた青年の瞳が、横目にファン・ミリアを捉えた。
ファン・ミリアが鋭い瞳でもって返す。
「どういうつもりだ?」
「貴女がとても弱って見えた」
青年がちいさく笑った。
「私の名はユーセイド。あくまで今は、ということですが」
「人外に同情される謂われはない」
ファン・ミリアはきっぱりと告げた。ホールには、人のざわめきと、楽団の奏でる音楽がゆるやかに流れている。
「人外が、人の心の持つのはおかしいですか?」
青年はあの時と同じように、緩慢とも思える動作でファン・ミリアの正面へ向き直った。
「人の心を持たぬ人と、人の心を持つ人あらざる者。──どちらが、人ですか?」
「何を……」
悪びれた様子はなく、こちらに危害を与えようとする邪悪な意思も感じさせず。
ただ、灰褐色の瞳だけがあった。
そのまなざしに、ファン・ミリアはうろたえた。
「──でも、本当はわからない」
青年の瞳が、悲しそうに揺れた。
「私が人の心を願うのは、間違っているのかもしれない。──悩むことは、間違っているのかもしれない」
悩むべきではないのかもしれない、繰り返すように、青年は言った。
「聖女としての貴女の瞳に、私は、やはり化け物に映りますか?」
もう一度見つめられ、ファン・ミリアの心臓が激しく鼓を打ち始めた。
──この灰褐色の瞳。
何かを、感じずにはいられない。
かつて、ファン・ミリアの中にあったもの。すでに失われてしまったはずの何かが、青年の瞳によって揺り動かされる。
隠された月が、やがて雲間からその身を晒し、闇夜を照らすように。
ファン・ミリアの心の奥底に隠されていたものに、静かに光が当てられていく。
思い出さなければいけない。でも、思い出してはいけない。
思い出してしまったら、きっと、今までの自分ではいられない。
「待て」
青年の瞳から、たまらず眼を逸らした。
「待ってくれ」
ファン・ミリアの言葉には懇願するような響きがこもっている。
──なぜこんなにも、胸が苦しい?
動悸が止まらない。
自分は何かの魔法にかけられてしまったのだろうか。
ルクレツィアからの報告では、魅了し、惹き込むような力があったと聞いた。
だが、違う、とファン・ミリアは思う。すくなくとも、魔法ではない。
この青年からは、なんら魔力の行使が感じられなかった。
──では、いったい何なのだ。
この者には、ファン・ミリアの心を波立たせ、騒がせる秘密がある。
その時、青年の手が、するりとこちらに伸びた。
「あ……」
呆気に取られたファン・ミリアの手からグラスを取ると、青年は残りの半分ほどを一気に飲み干し、テーブルの上に置いた。
「ダンスは?」
軽い口調とともに、細い指先で唇をぬぐう。
「……え?」
「踊れますか?」
訊かれ、気がつくとファン・ミリアは首を横に振っていた。
「踊れない。私はこういった場には慣れていないんだ」
素直に答えてしまった自分に、ファン・ミリアは驚く。
「貴族のものではありません。庶民が踊るような簡単なダンスです。私も最近、人から教わったばかりです」
「お前の……ことなど聞いていない」
拒むように、ファン・ミリアは厳しい口調で言った。言ったつもりだった。
「機嫌が悪そうだ」
「そういう問題ではない。お前と私事を語るつもりはないと言っている」
「この場でダンスが踊れるかを聞くのは、私事ですか?」
「……私の中では、そうだ」
「でも、貴女は踊れないと答えてしまっている」
「言葉の綾だ」
そこまで言って、ファン・ミリアはあわてて青年から身体ごと向きを変えた。
おかしい。
──なんだこの会話は。
まるで子供の言い合いではないか。
思いながら、ファン・ミリアはすぐに気を取り直す。
青年の存在は捨て置けないものなのだ。本来の任務から考えても、自分から話を逃げるわけにはいかない。
ファン・ミリアは青年に気取られぬよう、かすかに深呼吸をして動悸を鎮める。
全身に力を込めた。
よし、と自分に言い聞かせて、
「貴様には訊きたいことが──」
意気を戻し、挑むように振り向きかけた手を、青年に取られた。
「な──」
ファン・ミリアは唖然として口を開いた。掴まれた自分の手と青年の顔とを交互に見返す。
「何だ? 何をする?」
不意をつかれ、鎮めたはずの動悸がぶり返してくる。
「手を取りました」
天気を語るように青年が言ってくる。
「そんなことは見ればわかる、離せ」
青年がぱっと手を離した。
「何がしたいんだ、貴様は!」
完全にペースを乱され、ファン・ミリアは苛立つように髪をかき上げた。
「手を取りたかった。でも離せと言うから」
あくまで自然な青年の様子が、妙に腹立たしい。
「では貴様は、私が離せと言えば離すのか? 私が死ねと言えば死ぬのか?」
ファン・ミリアは顔つきこそ強張らせているものの、
──ああ、ちがう。
内心では戸惑いが沸騰していた。
──こんなことが言いたいのではない。
もう、わけがわからない。
すると、再び青年がこちらに手を伸ばしてくる。
「だから待てと──」
「筆頭は、おかしなことを言っています」
「わかった」逃げるようにファン・ミリアは両手を動かす。「冷静にするから待て。──いいか、待て」
精一杯の気持ちで告げると、ファン・ミリアの手を掴みかけた青年の手が、止まった。
ほっとファン・ミリアは胸を押さえた。心臓が爆発するようだった。
努めてかたい口調で、距離を取れ、と命じる。
「まず──私を、筆頭と、呼ぶな」
ファン・ミリアは息苦しさに喘ぐような口調で、
「私はお前など知らない。お前に筆頭と呼ばれる筋合いではない。私はお前と仲良しこよしの会話をするつもりなど一切ない」
一気にまくしたてるも、青年は涼しい表情を崩さない。
「お言葉ですが、貴女も、私のことを『お前』とか『貴様』とか言っています」
それは別にいいだろう、とファン・ミリアは不機嫌さを装って唇を曲げた。
「だが、わかった。ではお前の名を聞こう」
「一応、ユーセイドと名乗ったつもりですが」
「……失念していただけだ」
「よくわからないな」
ユーセイドが距離を詰めてくる。
「あ、待て」
制止をかけたものの、今度のユーセイドは止まってはくれなかった。ファン・ミリアはやすやすと自分の手を掴まれてしまう。
「私はただ、貴女をダンスに誘いたかっただけです」
「な、──待て、やめろ。ダンスは断る」
「気分を換えるにはおあつらえ向きです。とても楽しいから」
ユーセイドは有無を言わさずファン・ミリアを引っ張りはじめる。
「ああ、もう。やめてくれ……」
混乱の極致だった。ファン・ミリアがその手をふりほどこうとすると、
「ダメです。ダンスが終わるまでは」
ユーセイドが微笑う。その笑顔に、ファン・ミリアの力がゆるんでいく。
「お願いだ、は……恥ずかしいんだ」
こんな場所で、こんな大勢の人の前で、この恰好で、自分の無様なダンスを披露するなど、考えただけで死んでしまいそうになる。
「私もです」
くすくすと、ユーセイドが笑い声を漏らしながら、ホールの中央へとファン・ミリアを誘う。通りがかった給仕に曲名を告げた。ユーセイドは、本気らしい。どれだけ断ろうとしても、笑顔でいなされてしまう。
──こんなにも嫌だと言っているのに……。
呼び起こしたはずの意気は、完全に消え去ってしまっていた。
「……ほ、本当に踊るのか」
「踊ります」
とうとう、ユーセイドはファン・ミリアを中央まで引っ張ってきてしまった。
その時にはもう、周囲の貴族たちもふたりの様子に気づいていた。それぞれの会話を止め、ふたりへと視線を向けてくる。
ユーセイドと、ファン・ミリアが向かい合う。
「私だけ見ていればいい」
ファン・ミリアの手を取ったまま、ユーセイドが告げた。
やがて、室内が水を打ったように静まり返った。
その、静けさに身を浸して。
向かい合い、重ねた手──その手首を伸ばしたまま、肩の位置まで上げる。ユーセイドがファン・ミリアの腰に腕を回してくるのに対し、ファン・ミリアはつかまるようにユーセイドの肩に手を置いた。
「本当に、うまく踊れる自信はないんだ」
目を伏せ、ファン・ミリアが小声で言うと、
「私も」
ユーセイドが微笑う。
「でも、それで構わない」
前奏がはじまった。
ユーセイドが重心をやや下に保ちながら、ゆったりと正面へ踏み出すと、ファン・ミリアが応えて同じ距離分を下がる。
「この曲はご存知ですか?」
「……知ってはいるが」
懐かしい曲だった。まだファン・ミリアがただの農家の娘だった頃に、踊ったこともある曲だ。
「よかった」
嬉しそうに、ユーセイドがファン・ミリアの瞳を見つめてくる。
はじめはステップと重心移動のみで、そこから、徐々に上半身の動きを取り入れていく。踊るうちに、ファン・ミリアも身体の使い方を思い出してきた。互いに重ねた手を舵にするように、横移動をやや深めに、波の上をすべるように身体を傾け、戻す。
前奏の終わりとともに、互いに前を向くふたりの顔が、一度、後ろを向き、正面、そしてまた前方へと向ける。
いつしか、ファン・ミリアは周囲の視線を忘れていった。
一気に曲が盛り上がり、激しい音の調べと変化した。
より激しく──けれども焦らず。
規則的に足を運びながら、互いの位置をめまぐるしく入れ替えていく。
ユーセイドが腕を伸ばすと、ファン・ミリアの身体が回りながら離れていく。青いドレスの裾が宙を舞い、腰を回して横に足を蹴り出すと、ユーセイドが伸ばしたままの腕を取り、ファン・ミリアが戻ってくる。ふたたび腰を抱き、力強く寄り添わせる。そのまま腰を寄せられ、支えられていたファン・ミリアの上半身がしなやかにのけぞり、ドレスから白く艶やかな足が跳ね上がった。
ファン・ミリアを起こすように手を引く。いったんは離れたふたりの顔が、再び間近に迫った。より身体を近づけていく。お互いの吐息がかかり、頬が触れ合う。
ファン・ミリアがちらりと盗み見ると、その視線に気づいたユーセイドから笑顔がこぼれた。
薫るような優しい笑みに、ファン・ミリアも笑顔で応えていた。
──不思議だ。
ウラスロに触れられるのは、あれほど苦痛だったのに。
それなのに、この者に触れられるのが、すこしも嫌ではなかった。
むしろ。
──楽しい。
踊りながら、不覚にもそう思ってしまう自分がいる。
この感覚は、なんなのだろう。
名状しがたい高揚に、身体の奥底が熱く、ひりつくようだった。
曲が極まっていく。
ユーセイドが、腕を上げた。手首を返してひねると、ファン・ミリアの身体がスピンする。
──私は、誰なのだろう。
回りながら、ふと、そんな疑問が浮かぶ。ついさっきまであんなにも沈んだ気分でいた自分が、まるで嘘のようだった。
──そして、この者は……。
そう思った時だった。
見上げた天井のクリスタルが、星のようにちかりと瞬いた。
はっと、ファン・ミリアの身体が雷に打たれたように震えた。
シャンデリアからの光線が、音の響きに揺り動かされ、乱れ落ち、巡り過ぎていく色とりどりの花びらと、そのめまぐるしく回る景色に、大理石の白と黒とが混ざり合い──
灰褐色の瞳が、自分を捉え続けている。
「まさか……」
突き上がる調べが、終焉へと向かって急速に落ちていく。
ユーセイドが再びファン・ミリアの腰に手を当てた。腰を支えられ、ファン・ミリアは自分の足をユーセイドの足にからめる。
ユーセイドの肩を強く握った。
鳴り止まない拍手に、しばらくそのままの姿勢を取っていたふたりが、離れた。
じっと、互いを見つめ合う。
「貴方は……」
ファン・ミリアは、ユーセイドの瞳を見つめ続けた。




