3 九つの鍵
やはり自分は普通の身体ではなくなっている。
ずっと棺の中で同じ姿勢を取っているはずなのに、床擦れがまったく起こらない。寝返りを打ちたいとさえ思わなかった。
ただ、意識をはっきり持っていないとすぐに眠りが訪れてしまう。ぼんやりとしていると、まるで身体が水の上に浮かんでいるような浮遊感を覚え、自分が何者で、今どこにいるのかさえわからなくなる。
夜に沈んだ教会の、祭壇の棺の中はやけに心地がよく、
──いつまでもここにいたい。
という奇妙な誘惑にかられるのだった。
ティアはその誘惑を努めて無視し、イスラの言葉を思い出す。
夜明けまでに指を動かすようにとイスラは言った。それはつまり、身体の部位のうち指がもっとも動かしやすい、という意味なのではないか。
ティアは魔法使いに代表される魔法を扱う専門家ではないが、それでも武術の一環として付与魔術を習得していたため、最低限の魔力の扱い方は心得ている。
魔力は魔法の源となる力であり、体内にあって血液のように全身を巡るひとつの流れである。一例として、その流れの範囲を自分の持つ武器にまで敷衍させる技術が付与魔術ということになる。
ティアは眼を閉じ、意識をゆっくりと自分の身体のなかに沈み込ませた。
けれど──
「わからない」
体内の流れがまったく把握できない。自分の身体のはずが、まるで夜の海に沈んだときのように方向感がわからなくなってしまう。
何度も試してみたが、結果は同じだった。
かといって、何もしていないと今度は意識自体が四散してしまいそうになる。
やぶれかぶれに強引に指に力を込めたが、動くはずもない。
ティアはあせりを感じはじめていた。このまま一生、身体を動かせずこのまま朽ち果ててしまったら……この教会のように。
それでは何のために目覚めたのか、イスラに再生されたのかがわからなくなる。
「……生きる」
自分の心を確かめるように声に出した。強く言い聞かせる。
──オレは生きるんだ。
生きなければ、再びこの世に戻った意味がない。
もう一度、自分の身体に潜り、あるはずの『流れ』をさがす。見つからなければ浮き上がり、すこしだけ休憩してはまた潜る。あきらめず、同じ作業を何度も繰り返した。
しかしその努力もむなしく、結局、ティアは一晩たっても指を動かすことはできなかった。
次の日も、その次の日も指は動かない。
◇
いくつかの夜が過ぎ、ようやくイスラが姿を現した。
棺からティアを見下ろし、
「どうしようもないの」
イスラは失望するように溜息をつく。
「私の見込みちがいだったらしい。お前は棺の中がそれほど心地いいのか?」
馬鹿にするように訊かれ、ティアは無言でイスラをにらむ。
「なにやら文句ありげな目をしておる」
イスラは顔を斜めにしてこちらを覗き込んでくる。黒狼の吐く息が前髪を揺らし、琥珀の瞳が間近に迫ってきた。
「これ以上、私を失望させるようなら見限るぞ?」
ティアは黙ったまま、ただイスラをにらみ続ける。
「手がかりでもくれてやろうか?」
「いらない」
挑発するようなイスラの物言いに、ティアはきっぱりと断った。本当は喉から手が出るほどほしかったが、聞いてはいけない気がした。イスラは自分を試している。そんな気がしたのだ。
「まだ腐ってはおらぬようだが、それも今夜で最後と知れ。もし夜明けまでに指ひとつ動かせぬようであれば、私はお前への加護を断ち切り、ここを去る。その身が朽ち果てるまで一生その棺に埋もれて居れ」
言い終わると同時にイスラは飛び上がった。一瞬でその体躯が黒い霧へと変じ、夜の静寂に溶けて消えた。
ティアの視線の先、イスラが消えたむこうに、穴の開いた屋根から満月がのぞいて見えた。
◇
満月が青白い光を湛えている。
教会の上で、一塊の黒い影が現れ、狼の姿へと変じる。
黒狼イスラは屋根の上から月を見上げた。
「さて、どうなる」
その声が緊張に強張っている。
イスラは焦っていた。
はじめにティアが目覚めたのが新月だった。そして今夜が満月である。
ティアに訪れるであろう兆しが遅すぎる。本来であればすでに何らかの変化が訪れていなければならないのだ。
通常、それが光であれ、闇であれ、あるいは他に属する何かであれ、神に選ばれた者はたいていの場合、三日も措かずに能力の発現を見せるものだ。
にもかかわらず、ティアは何の兆しも──能力の発現も見せない。
つまり、まだ何者にもなっていない、ということだ。
だからこそイスラの加護が届きにくく、ここにいたってまだ指一本も動かすことができずにいる。選ばれた者のなかには眼が覚めた瞬間、起き上がって自由に歩く者さえいるというのに、である。
イスラによって選ばれた以上、闇に属する者であることは間違いがない。
できることなら……ティアにはその高潔さにふさわしい、より強い力を与えてやりたかった。イスラが与え得る手持ちの手札のうち、最高の手札──最も高貴な者であり、闇の真祖たり得るその力を。
だが、神に選ばれた者が何者になるかは、選んだ神自身にも指定はできない。それはイスラとティアとの相性にも依るが、実はそれ以上にティアの素質に依るところが大きい。どれだけイスラがそれを与えたくても、当のティアに素質がなければどうしようもない。
それでも勝算がないわけではなかったのだ。
それを満たすために必要な鍵となる概念は全部で九つ。
『血』
『夜』
『貴族』
『領民』
『敵』
『教会』
『串刺し』
『乙女』
『棺』
このうち『血』『貴族』『領民』『敵』『串刺し』の鍵となる概念をすでにティアは持っていた。それだけでも十分、素質はあるとイスラは踏んだ。
『教会』と『棺』はイスラが用意した。『夜』はイスラが選んだ以上、すでに持っているだろうと考えた。
悩んだのは『乙女』だ。
幸いと呼ぶべきか、ティアはタオ=シフルであった時の、その死に際に『神託の乙女』たるファン・ミリアに看取られている。加えていまのティアの状況に鑑みれば、すでに持っていると考えられるが、やや変則的な気がした。だからこそ悩んだ末、『ティア』という『乙女』を連想させる名を与え、鍵となる概念を強化させようとしたのだ。
だが、この状況下において、それはすでに第一ではなくなっている。
もはや何者かでさえあってくれればそれでいい。
どんなに弱くてもいい。能力が見劣りするものでも構わない。せめて何者かでありさえすれば、イスラの加護がティアに通りやすくなる。
苦しみ抜いて命を絶たれたティアが、それでもとイスラの呼びかけに応じ、愚痴ひとつこぼさずに懸命に身体を動かそうとしている。それが不憫でならなかった。
イスラは月を見上げる視線を地上へと移した。
教会は山々に囲まれた深い森のなかにある。
ふと、その時、狼の遠見が何かを捉えた。
遠く、遠くのほうで、数人の男たちが焚火を囲っている。そのさらに周囲にはいくつかの人間の死体が転がっていた。
死んでいるのは商人らしき男と、その家族のようだ。
どうやら焚火を囲っている男たちは盗賊らしい。長きにわたる戦乱によって人心を失ったこの時代には、さして珍しくもない光景である。
「……あれを使うか」
はなはだ不本意ではあるが、賭けるしかない。
イスラは藁にもすがる思いで教会の屋根を後にした。