69 嵐の中でⅡ
巨大な石造りの建造群が、横殴りの雨に打たれている。くぼみ、ひしゃげた雨粒はさらに細かく、白い波頭のように飛び散った。
それでも今宵のウル・エピテスは、暴風に曝されるのをものともせず、よりいっそうの輝きを帯びる。
「ファン・ミリア=プラーティカ様、到着されました」
風雨の音に負けじと、大音声が周囲に響き渡った。
円形の屋根が設えられた車寄せには、幾人もの衛兵や、次の舞踏会に出席する貴族の子弟たちが、この国の貴顕者たちの姿を一目見ようと詰めかけていた。
「見ろ、神託の乙女だ」
声をひそめ、誰かが言った。
馬車から、すらりとなめらかな白絹の長手袋が伸び出た。その手が、先に待つ男の肩先に触れる。
ざわりと周囲がどよもした。
そこに立つすべての者たちの視線を釘づけにして、ファン・ミリアは馬車より、ひらりと赤い絨毯へと舞い降りた。
「八割方、出席する皆様方も揃っておられるようです」
低く、歳を重ねた深い声。エスコート役の聖騎士団員、グスタフ=レイフォードである。
「……わかった」
グスタフの肩からそっと、ファン・ミリアの白絹の指が離れていく。持ち上げられた指先はそのまま流れ、艶めく横髪を耳裏へとやった。
前髪を片側に寄せ、後ろはシニョンを作り、リボン型の髪留めでまとめた。
アクセサリーは草色の金緑石を中央に配したネックレスと、白金の腕輪。何よりその冴え冴えとして鮮やかな群青色のドレスは、腰からゆるやかに広がり、レース地の裾が斜めに切り上がっている。
好奇と憧憬を一身に受けながら、ファン・ミリアは敷き伸ばされた絨毯の上を歩きはじめた。
青く、透徹としたその姿に人々は口を閉じることさえ忘れ、ただ彼女の前に道を開いていく。
──これを望む者ならば……。
冷めた瞳で、ファン・ミリアは左右の人の波を何気なく見回した。人々の頭のむこうには、黄味がかった石壁の、高く天井に接したアーチ型の梁にいたるまで、まぶしい明かりで照らしつくされている。
「……いっそのこと、満足しただろうか」
ひとりごちる。すると、前のグスタフがちらりとこちらを振り返った。ファン・ミリアの心中を察したのか、苦笑して肩をすくめてみせた。
──まさか、本当にこの姿を団員に見られることになるとは。
ファン・ミリアは、苦笑どころではない。口のなかで苦いものがせり上がってくるようだ。
──せめてもの救いは、見られたのがグスタフだった、ということくらいか。
彼は隊長格ということもあり、踏んだ場数も多く、思慮に富んでいる。言うべき言葉とそうでない言葉を承知している男だった。今夜の晩餐会において、ジルドレッドが彼を連絡役に選んだのも、自身の頭で考え、判断できる能力を買ってのことだろう。
扉前にてごく簡単な確認を済ませると、喧噪を背中に聞きながら、風除けを兼ねた短い通路に入った。すぐ次の扉を抜けると、視界が大きく広がった。
玄関ホールである。中央正面には大階段があり、左右には両翼の棟に通じる扉がある。建物全体としてはH型の造りになっていた。
ふたりの姿を認めるや、案内係の衛兵がすぐに近づいてきた。
「ファン・ミリア様ですね」
衛兵の声は上擦っていた。緊張しているのか、ファン・ミリアと目を合わせようとさえしない。
「そうだ」と、ファン・ミリアがうなずくと、
「こちらです」
と、左の棟へと案内された。物音はなく、しんとしている。いくつかの部屋の扉を過ぎ、一室に通された。
待合室らしき部屋だが、人の姿はない。窓のむこうは暗い後庭が広がっていた。
「飲み物をご用意します。しばらくお待ちください」
一息で告げると、衛兵はそそくさと部屋を出ていく。
窓際には、背もたれの高い椅子とテーブルがひとつ。どうやら、出席者ごとにそれぞれ部屋が設けられているらしい。
「大儀なことだな」
ファン・ミリアは椅子に腰を下ろし、窓越しに外を見やった。広庭である。本来であれば無数の松明によって手入れの行き届いた美しい庭園を臨むことができるはずだが、さすがにこの嵐ではどうすることもできなかったらしい。ぽっかりと暗い空間に、向かいの右棟が浮き上がって見える程度である──が、それはそれで離れ小島を見ているような趣があり、贅沢と思えなくもない。
ファン・ミリアがテーブルに肘をつくと、
「筆頭は、気分が優れませんか?」
壁際に立つグスタフが、コンコン、と指の背で壁を打ちながら尋ねてくる。強度を確かめているらしい。
「良くも悪くもないな」
答えたものの、体調自体は良かった。十分な睡眠が取れたからだ。
というか、寝すぎた。完全に寝過ごした。
ルクレツィアから「いい加減にしなさい」と叩き起こされたのが午過ぎで、軽い昼食を摂り、あわただしく準備を済ませたのだ。
しかし、体調は良くても気分──いや機嫌がすこぶる悪かった。
──できれば今すぐ帰りたい。
一刻も早くドレスを脱ぎ、窓を全開にして放り捨ててやりたい。
けれども部下の手前、嫌だ嫌だと連呼するわけにはいかないし、したところで仕方がない。
その不機嫌さを努めて隠そうとした結果、ファン・ミリアはきわめて無表情になっていた。
やがて給仕が飲み物を運んできた。
「柘榴を漬けた果実酒になります」
説明とともに、薄赤色の液体がテーブルに置かれる。
ファン・ミリアは給仕が去るのを待ち、
「ここは、本来は迎賓館だったはずだな」
ファン・ミリアが訊くと、グスタフは「そうです」と認めた。
「では、ノールスヴェリアのルガーシュもここで寝泊まりをしているのか?」
「いえ」
グスタフは首を横に振り、
「彼はもっと隅の、水仙宮のはずです」
「水仙宮……」
ファン・ミリアはつぶやいた。
「なぜ、そんなところに?」
記憶違いでなければ、水仙宮はウル・エピテスの敷地のなかでも、隅の隅に当たる場所だった。今はもうほとんど使われていない、こじんまりとした接客用の建物である。
「私も詳しくは。ただ、ルガーシュ本人が望んだそうです。団長が聞いたところ、方角が良いとのことで」
「方角?」
「らしいです。位置的に重要ではないので、彼の希望を通したのでしょう」
「……方角、か」
東ムラビアにはない考え方である。魔法的な考えに由来しているのか、それとも単に迷信深いだけなのか。
ファン・ミリアが考えていると、
「ルガーシュは晩餐会には出席しないようです」
グスタフが言った。
「確かか?」とファン・ミリアが確認すると、「そう聞いています」との答えが返ってきた。
「というのも、今回の晩餐会と舞踏会にこの建物が選ばれたのは、たまたま賓客がいないのを利用して、普段は使わない豪華な場所を、という趣旨からのようです。──何か問題でも?」
「大したことではない」
ファン・ミリアはテーブルのグラスに手を伸ばした。果実酒はよく冷えていて、口にするとほのかな甘みが広がった。
そのままグラスを飲み干し、
「どうせつまらない会なら、ついでに一目見ることができればと思っただけだ」
「当てが外れたというわけですか」
「そこまで期待していたわけでもないが……」
頬杖をついて、細く長い息を吐いた。
──ルクレツィアめ。締めすぎだ。
腰に巻いた、コルセットのことである。
締め付けられる感覚は、鎧よりもはるかにきつい。これを巻いた上で、笑顔を浮かべて食事をしなければならないのだから、いよいよ自分は宮廷社交には向いていない気がしてくる。
──だが。
ファン・ミリアは立ち上がると、もう一度、強く雨のふりしきる窓の外を眺めやった。
──ここまで来た以上、後戻りはできない。
雨の一粒一粒を睨むような目つきで、ファン・ミリアは胸の上に手をあてた。
その手をぎゅっと握りしめた。拳を作る。
──タオ=シフル。
ファン・ミリアは胸の中で話しかける。
──この手は、今も貴方の無念を覚えている。
徐々に力を失い、冷たくなっていく彼を、強く抱き締めた。
──シフルを得た私を、貴方はどう思うだろう。
認めてくれるだろうか、彼の愛したであろう地を、自分が守ることを。
彼の返事を聞くことはできない。だから、信じるしかない。
部屋の明かりを反射して、窓にドレス姿の自分が映っている。夜の下に佇むもうひとりの自分が、その瞳でもって、じっとこちらを見つめ続けている。
──私は、シフルを手に入れる。