2 新たなる名
それから再び眠りに落ち、また夜に目が覚めた。
身体は動かないままだったが、毎日見る夢とともにほとんどの記憶が戻っていた。話すこともできるようになった。
けれど、どうしても思い出せないことがひとつ。
「自分の名前が、わからない」
記憶の中から、誰かが自分に話しかけている場面を思い起こすことはできる。
にもかかわらず、名前の部分だけがまるで雑音が重なったように思い出すことを邪魔するのだ。
「それは、そうじゃ」
棺の縁に前脚をかけ、黒狼のイスラが顔をのぞかせた。
「お前はほとんど死んでおるのと同時に、新しく生まれ変わったとも言える身じゃ。──タオ=シフル。それがお前の生前の名であった」
「……タオ=シフル」
ゆっくりと反芻する。
だが、あまりにピンと来ない。まるではじめて聞いたような、他人の名のような居心地の悪さを感じる。
そうイスラに告げると、
「それはそれでお前の一部だ。大切に覚えておけ。が、いまのお前にはさまざまな意味で相応しくないの」
さまざまな意味で、というところをイスラは強調する。どういうことかと聞くと、イスラは軽く笑い、
「とまれ、お前には名を与えてやらねばならぬ。名無しでは不便じゃ」
「……たしかに」
「それに、名とはその者の存在に深く関わっておる。名がないとこの世がお前を認識できぬため不都合が多い。力の行使もできぬ……つまり、お前はいつまで経っても動くことができない」
「それは、たしかに不都合だ」
うなずきたかったが、それもできない。
「その名とは、イスラが与えてくれるのか?」
怪訝に思って聞くと、「私では不満か?」と逆に訊き返された。
特に不満ではない、そう答えると、
「じゃがな」
と、イスラは顔をうつむかせた。こちらからは狼の耳だけが見える。
「なかなか良い名が想い浮かばぬ。悩みどころじゃ。困ったことじゃ」
ほんとうに困ったようにぶつぶつと何事かをつぶやいている。
「神でも悩むことがあるのか?」
「うむ?」
と再びイスラが棺の上から顔を出した。
「思い出したんだ。イースラス・グレマリー。シズ村の神の名だ」
「ほとんど忘れ去られた名ではあるがな」
イスラが自嘲する。その様子に、
「イスラは……寂しいのか?」
言ってみて、腑に落ちた。あの、暗闇の世界で聞こえた狼の寂しい遠吠えを思い出す。
「寂しい、か。その感覚はよくわからぬ。いや、忘れてしまった、と言うべきか。私は悠久の時の流れとともにある」
「神の世界も大変なのか」
「そういうもの、としか思ってはおらぬ」
「……そうか」
言い、「それで?」
「む?」
「オレの名は?」
「わかっておる。神をせかすな。これだから人間は性急にすぎる」
心なしイスラは鬱陶しそうだ。
「考えるのが嫌なら、オレが自分で考える」
「たわけ。名とは名付けられるものじゃ」
そう言われてしまえば、黙るしかない。
「そうじゃな」
イスラは一度、頭を大きく巡らせ、
「ティアーナ。そう、お前はティアじゃ」
「ティア? 涙のティア?」
「お前はよく泣くからな」
きっぱりとイスラから言われた。身体は動かなくても顔は熱くなるものらしい。
「それほど泣かない」
「いや、割とよく泣きよる」
「たまたまだ」
それからしばらくの間、泣く、泣かないのやり取りを繰り返し、
「わかった、百歩譲って泣いたのは認める」
あきらめ、新しくティアと名づけられた元タオ=シフルだった少年は言った。
「百歩譲られなくても泣いておる」
それはもういい、とティアは言って、
「ティア、というのはどう考えても女の名だ。オレに似合う名じゃない」
イスラは神ということもあり、やはり人の世事には疎いのだろうか。
そんなことを考えながら説明してやると、
「なんじゃ」
イスラは呆れたように、
「お前はまだ気づいておらぬのか?」
「……何がだ?」
「私は、女の神じゃ」
「それが?」
「それだけじゃ」
さも愉快そうに言うと、「寝る」と棺から見えなくなってしまった。
その夜、ティアがどれだけ呼びかけても反応はなかった。
◇
「よいか」
と、また次の夜、イスラはティアーナ──ティアに話しかけてくる。
ティアもすっかり慣れたもので、
「起きたのか?」
と返したりする。
「うむ」と、イスラはうなずき、
「何度も言うが、お前の身体自体はほとんど死んでおる。私が行った再生とは、お前の魂をその身体へと差し戻したに過ぎん。そのため、お前は生きている時のように身体を動かすことはできぬ。身体を動かすためには、そうなるようこの世に働きかける力が要る。その力の出どころが神たる私であり、お前が動き続けるためには私を媒介として、この世に力を行使し続けなければならぬ」
ティアはじっとイスラの話に耳を傾ける。
「それはお前たちの言うところの魔法の行使に通ずるものがある。魔法とは神と人との契約の関係において、人が神の奇跡を借り受けた際に放つ、淡き燐光の呼び名じゃ。厳密には似て非なるものだが、まずは魔法を使い続ける感覚を保て」
「それは、かなりしんどそうだ」
ティアが言うと、「たしかに制約は多い」とイスラ。
「私がもし何かの拍子で死ねば、当然のこととしてお前は私の加護を失うことになる。それがどういう状況であれ、かなり悲惨な結末を迎えること請け合いじゃ。また、私は夜に属する神ゆえ、必然的に昼間はこの世に対する関わりが弱まる。昼間のうちは大人しくじっとしておれ」
「だから、オレとイスラが目を覚ますのはいつも夜なのか」
納得したようにティアが言うと、そういうことだ、とイスラが返してくる。
「だが、人という箍が外れたお前には通常の人間にできぬこともできよう。どのように具現するかは私とお前との相性の問題ゆえ、蓋を開けてみねばわからぬが」
でははじめよ、私は寝る──そう言って、イスラは棺から降りてしまった。
ティアはあわててイスラを呼び止める。
「はじめるって……何をはじめればいい?」
「知らん」
取りつく島もない。
「夜明けまでには指ぐらいは動かすことができるようにしておけ」
その後、どれだけティアが呼んでも、やはり何の反応も返ってはこなかった。