62 完全なる血脈Ⅰ
扉を閉じると、店内の喧噪が遠ざかった。
宵の口の空は、昨日までの嵐が嘘のように、数多の星々が輝きはじめている。
足早に中庭を回り、扉の前で立ちどまる。軽く深呼吸をしてから扉を叩いた。
「クラウです」
クラウディア──クラウが自分の名を告げると、すぐに「お入り」という声が返ってきた。
リュニオスハートの花街である。
赤色の調度で統一された部屋の長椅子に、ひとりの老婆が座っていた。やや前かがみに両手で杖をついている。いつもの見慣れた姿勢だった。というより、この老婆が別の姿勢を取っているところを、クラウはついぞ見たためしがない。
マイヨール=ツェン。
古い、とても古い老樹を思わせる、リュニオスハートにおけるルーシ人たちの長老であり、群を抜いて高齢の彼女は、他の街の長老たちからも一目置かれる存在だった。
「イヨ婆」
クラウの顔には、かすかに緊張が浮かんでいる。
「イヨ婆に会いたいっていうお客さんが来てるんだけど……それも、ふたり」
「ルーシ人かえ?」
「ひとりは、多分。もうひとりはフードで顔が見えなかったけど、どちらも女ね」
「ルーシ人としか会わないよ」
口ぶりは実にそっけない。ルーシ人の長老であるマイヨールは、通常、同族としか会わない。
それはもちろんクラウも承知していた。けれど、何事にも例外はあるものだ。他ならないクラウ自身がルーシ人ではないように。
「私もそう言ったさ。なのにあちらさん、イヨ婆に会えるのを信じて疑ってないっていうか、『シエラザードが来た』って言えばわかるからって言伝を頼まれて」
何気なくクラウが伝えると、マイヨールのまとう雰囲気が一変した。
「何じゃと?」
木の洞のような深い眼孔に、驚きの光が灯ったようだった。
クラウもまたマイヨールの反応に驚きながら、
「だから、シエラザードが──」
「お通し」
「え?」
「早くおし」
「わ、わかったよ」
しゃがれ声で怒鳴るように急かされ、クラウはあわてて部屋を出た。
「なんなのさ」
不満げにつぶやくも、マイヨールの様子は尋常ではなかった。
「雹でも降るのかね」
せっかく嵐が過ぎたというのに、天変地異の前触れだろうか。
──まったく、洗濯物が乾きやしない。
そういえば、雹って濡れるんだっけ?
つまらないことを考えながら、クラウが踵を返した時だった。
「許可は取ってもらえたようね」
背後から不意に声をかけられ、クラウは跳び上がった。
振り返った目の前に、これから呼びに行こうとした、そのふたりが立っていた。
声の主は、フードをかぶっているため顔を見ることができなかった。もう一方の女も外套に全身を覆ってはいるものの、こちらはフードをかぶってはおらず、切りそろえた黒髪に、深い蒼の瞳を持っていた。『シエラザードが来た』という伝言をクラウに伝えさせたのは、このルーシ人らしき女のほうだ。
妙齢である。
静謐な表情に、成熟した女の色香が漂っている。
けれども彼女は、その艶やかさとは不釣り合いなほどに大振りの剣を背負っていた。クラウの知る一般的な剣とは鞘の形状が異なり、剣身の中あたりが節のように広く、そこから窄むように剣先にむかって収斂している。
「ちょっと、アンタたち勝手に──」
文句を言いかけたクラウに、「結果は同じじゃない」と、フードをかぶったほうの女が、明るい声音でクラウの肩を叩いた。
「これはお礼。店の寄付にでもしておいて」
そう言って心付けらしい硬貨をクラウに握らせてくる。
「お待ちよ、こんなものもらったって」
「通してちょうだいね」
表情を険しくさせるクラウに構わず、ふたりはさっさと部屋の中へ入っていってしまう。
「……なんなのさ」
どうすることもできず、クラウは閉められた扉の前に立ちつくした。押しの強い客ならこれまで何度も相手にしてきたが、ここまではぐらかされた気分になったのははじめてだ。
「ていうか、これ」
クラウは握らされた硬貨をまじまじと見つめた。
「ファーレン金貨……」
薄闇に黄金の光を弾くそれは、現在の大陸で流通する硬貨のなかで、もっとも価値の高いとされる金貨だった。
◇
「久しぶりですね、イヨ」
まず口を開いたのは、ルーシ人の女だった。深い海を思わせる瞳が、マイヨールへと注がれている。
「ご無沙汰しております。シエラザード様」
マイヨールが、恭しい口調で返した。
「貴女様と最後にお会いしたのは、もう五十年以上も昔のことでしょうに、まったくお変わりになられない」
いや、五十年どころか、マイヨールが生まれるはるか以前から、このシエラザードと呼ばれた女は同じ若さを保っている。
ルーシ人のなかでも彼女は伝説上の、半ば神格化された存在であり、ルーシ人そのものの発祥にさえ関わっていると言われていた。マイヨールでさえ、彼女の全貌を知っているわけではない。
「貴女様のような方が、なぜこのような場所に?」
「人を探しています」
シエラザードは瞬きひとつすることなくマイヨールを見つめ返す。
「と、おっしゃいますと?」
「今から伝える言葉を、最近になって聞いたことはあるかしら?」
そう言ったのは、シエラザードの隣に座る女だった。彼女の手が、フードを無造作にめくり上げる。
「紫の魔女。イスラ。そして、ケセド」
露わになった顔は、まだ二十歳前ほどの娘だ。
娘は明らかにルーシ人ではなかった。髪の色は金を基調としながらところどころに黒い毛が混じり、その勝気そうな瞳には、見る者の角度によって変化する六色の虹彩が輝いている。
マイヨールにとって、この娘と会うのははじめてである。しかしながらこの特徴的すぎる容姿を持つ娘を、マイヨールは知っていた。
いや、むしろ──この大陸において、その名を一度でも聞いたことがない者がいようか。
「貴女は──」
マイヨールがその名を言いかけたのを、娘は自分の唇に指を当てた。
「申し訳ないけれど、いまはただのリーザ。そういうことにしておいてもらえると助かるわ」
「……承知しました」
マイヨールとしてはそう答えざるを得ない。浮世の権威には一切の興味を持たない彼女だったが、シエラザードと同行している以上、非礼な態度を取るわけにはいかない。
「さて、話は戻るけど」
六色の瞳を持つ娘、リーザが話の先を促してくる。
マイヨールはうなずきつつも、
「ですが……」
ためらいがちにシエラザードをうかがう。すると。
「心配には及びません。私とリーザの関係は古い盟約に基づいています」
言われ、「わかりました」と、マイヨールはリーザに視線を戻した。
「イスラという名でしたら心当たりがありまする」
ぴくりと、リーザの肩が反応した。
「しかし、人ではありません。黒狼でした。いや、神と言ったほうがよろしゅうございますな」
「詳しく聞かせてもらえるかしら?」
マイヨールはやはり、シエラザードをちらりと一瞥した。
「私からもお願いします」
重ねて請われ、マイヨールは息を吐き、それから話しはじめた。イスラについてだけでなく、ティアと、そして玄孫であるカホカのことも包み隠さず伝えた。
半刻後、マイヨールがすべてを語り、いくつかの質問に答えると、
「ありがとう、よくわかったわ」
リーザが礼を言い、席を立ち上がりながら、
「やはり、震源はゲーケルンのようね」
「そのようです」
同じく立ち上がったシエラザードが無表情に認めた。
「何が起こっているのです?」
早々に部屋を出ていこうとするふたりに、マイヨールが声をかけると、
「……刻が迫っています」
振り返ったシエラザードが静かな声音で告げた。
「私たちの求めるイスラがその神であるかはわかりません。ですが、すくなくともこれまでの兆しとはちがうようだ、ということはわかりました。あなたがたルーシ人にも変化が訪れるかもしれません」
「おお、それでは──」
昂奮するマイヨールを、「早計は禁物です」と、シエラザードが遮る。
「変化は徐々に、そして唐突に訪れるもの。備えなさい、イヨ。すべてのルーシ人のために」
そう言い残し、シエラザードはリーザとともに夜のなかへと消えていった。
残されたマイヨールはひとり、同じ姿勢を保ち続けていた。
杖を掴む手が、かすかに震えている。
「……完全なる血脈」
リーザを指しての言葉だった。この大陸において、もっとも古く、もっとも尊いとされるふたつの家系が、長い歴史の果てにたどり着いた、奇跡の血脈。
その彼女が、ルーシ人の守護者とも呼ばれるシエラザードと行動を共にしている。
──歴史が動きはじめた。
ルーシ人だけではない。
大陸全土を巻き込むほどの大きな動きが。