61 ティアの場合
「ティアも浴びてきたら?」
そうカホカに促され、ティアも水浴することにした。
カホカから聞かされていたとおり、部屋の中に井戸があった。チュニックを頭から脱ぎ、簡単に丸めて隅に置く。すぐ近くの壁際には、破壊された木桶の破片が寄せて片づけてあった。
「……なにがあったんだ?」
裸のなり、とりあえず椅子に座って考える。
これでは水を浴びることができない。
ためしに滑車の綱を引いてみた。井戸はごく単純な造りで、滑車につないだ縄は、一方で水を掬い上げるための桶に結びつけてある。
このため、水を掬うたびに縄をほどき、結びを繰り返せば桶を確保できたことになるが、どう考えても非効率に過ぎる。
「仕方ない」
つぶやくと、ティアの身体から数匹の蝙蝠が分離した。桶を綱からほどき、蝙蝠たちに背負わせると、井戸から水を掬って持ち上げてきた。
蝙蝠たちはきいきいと鳴き声を上げながら、ふらふらと苦しそうにティアの頭の上まで飛ぶと、一気に桶を返した。
ティアは頭から水をかぶる。水の冷たさは、特に感じなかった。
「ふう……」
頭を振りながら、これは便利だな、と思った。
何より好ましいのは、桶を運ぶ蝙蝠の必死さと愛苦しさである。
健気でたいへん良い。
蝙蝠たちが、すぐに二杯目を汲んで上ってくる。
ティアは部屋を見回し、人目がないのを確認すると、
「……がんばれ…………がんばれ……」
ぽそぽそと小声で、蝙蝠たちに声援を送った。もう一匹か二匹を増やせば簡単に運ぶことができそうだが、あえてそうしない。してはならない。余裕で運ばれてもぜんぜん楽しくない。
今度の水はかぶらず、床に置いて布を湿らせて身体を洗う。
──バディスが、起きない。
そろそろ目を覚ましていい頃合いのはずだった。吸血鬼の本能にちかい部分で理解しているため、なぜ、と訊かれれば、なんとなく、という回答しかできないが、しかしその一方で、バディスは起きない──今のままでは起きることができない、という気がしていた。
何かが、足りないのだ。
自分の場合はどうだったかと考えてみる。
まずイスラから呼びかけを受け、眼を覚ました。それから自分が吸血鬼となり、イスラからの力の流れを感じた。
「呼びかけが足りないのか……」
そう思ってカホカが水浴をしている間、眠っているバディスに何度も呼びかけてみたが、特に反応はないようだった。
自分の力がバディスに流れ込んでいく感覚もない。
そのあたりの細かい仕組みがどうなっているかは、さすがにイスラに訊いてみなければわからない。
いったいイスラはどこで、何をしているのか?
他にも、訊きたいことはあった。
──ウル・エピテスの、銀髪の化け物。
あれはいったい、何だったのか。
仕留めることはできたが、なぜ、あんな化け物が王城に巣くっていたのか。
帰ってこないイスラが心配といえば心配だが、無事だということだけはわかっている。
なぜなら、いまでさえ、イスラから闇の力が自分に流れ込んでくるのがわかるからだった。万が一、イスラにもしものことがあれば、自分の身に変調が訪れるのは明らかである。
自分の存在がイスラに大きく依存していることを、ティアは知っている。
ふぅ、と溜息をつき、天井を振り仰いだ。
見ると、天井の罅や石組みの隙間に蝙蝠たちが足をかけ、逆さになってこちらを見つめ返してくる。
「……やってみたいのか?」
ティアが手に持った布を蝙蝠たちに示すと、きいきいと鳴き声を上げながら、こちらに降りてきた。布を手渡すように蝙蝠たちにくわえさせ、自分の髪を背中から前に持ってくる。
蝙蝠たちが、ティアの背中を洗いはじめた。
膝の腕で頬杖をつき、ぼんやりと、見るともなしに壁を見る。
──このままではいけない。
何もかもが、中途半端になってしまっている。
人である自分。吸血鬼である自分。
血を飲む、ということ。
ウラスロに対する復讐。
王都に来たのは、何かを知り、そして得るためだったはずだ。
自分の曖昧な態度がそのまま、人として、吸血鬼としての在り方を迷わせ、血を飲むことをためらわ
せ、バディスを人ならぬ道に誘い込んでしまった。
ティアの意図がどうであれ、引き起こしてしまった結果は、ただの吸血鬼と何ら変わるところがない。
焦りが、じりじりと胸を焼くようだった。
たまらず桶を掴み、ティアは頭から水をかぶった。水がかかるのを嫌がるように、蝙蝠たちがティアの頭上を旋回する。
水は、冷たさを感じさせない。
──早くしなければ。
自分の道を、自分がなすべきことを、見据えなければ。
苦しい苛立ちが、そのままティアの身体を貫き、足から地面の水につたわった。バチリ、バチリ、と黒い電光が迸り、痺れる力が床に置いた桶に触れる。
瞬間、桶が爆発した。
ティアは無言で立ち上がると、床に散乱した桶を静かに見渡した。
「……やってしまった」
ぽつりとつぶやいた。
つい力が漏れてしまった。
仕方ない、後で謝ろう──そう思って破片を集め、壁際の、もともと壊れていた桶の破片とまとめる。
どうすることもできないので、部屋を出ようと服に手を伸ばしかけた時だった。
ガチャリとドアが開いた。
「くそ、ひでぇことをしやがる……」
ぶつくさと文句を言いながら入ってきたのは、ディータだった。裸のまま、腰に布を巻いただけの恰好で、木桶を脇に抱えている。
そのディータと、服を拾いかけたティアとの目がぶつかった。
ディータが一瞬、ぽかんとした表情を作り、
「う……おっ!」
あわてて後ろを振り向いた。
「すまねぇ、入ってたのか! すまねぇ!」
こちらに背中を見せたまま、平謝りに謝ってくる。ディータが急いで部屋から出ていこうとするのを、
「別に構わない。もう出るところだから。──見られて困るものでもないし」
ティアは身体の水気を切りながら、ディータに声をかけた。
「いや、こ、困るもんだろう、普通?」
こちらに背を向けたまま、上擦った声でディータが訊いてくる。
「なぜ?」
見ると、巨漢だけあって、ディータの背中は大きい。自分もあのぐらいの体格だったら、もっと力が出るのだろうか、なんてことを考えていると、
「なぜっつーか……普通、女は裸を見られたら、キャーとか、イヤーとか、言うもんだろう?」
普通の女なら、そうなのだろう。
普通の女なら、である。
しかし、ティアは普通の女には該当しないし、ディータがわざと入ってきたのではないくらい、反応を見ればわかる。必要以上に自分の裸をジロジロと見られたり、触れられたりするのは勘弁してもらいたいが、ディータがそれをするとは思えない。
「目に毒なら、出ていってもらってかまわないが」
ティアとしては何の気なしに言ったつもりだった。
一方、困るのはディータである。
目に毒、などと言われてしまえば、ディータとしては出るに出られない。出ていけば、ティアには魅力がないとディータが認めてしまったことになる。
さすがに恩人でもあり、年頃の乙女心を踏みにじるわけにはいかない。
が、しかし、である。
──なんなんだ?
ディータは、わけがわからない。
──誘ってんのか?
ティアの年齢をディータは知らないが、少女とはいえ立派な女である。ティアぐらいの年頃で結婚している女などいくらでもいる。
そんな彼女が裸で、ディータと同じ部屋にいることを許しているのなら、
──これはもう、アレをああしろってことじゃねぇか。
という勘違いをしてしまうのが男の性である。
ちなみにディータも独身だった。
ティアは肝も据わっているし、見てくれも悪くない。いや、悪くないどころではない。人とは思えぬ美しさを持っている。ギルド内では硬派を通してるディータだったが、女に興味がないわけはない。こっそり王都の娼館で女と褥を共にすることもある。
それこそティアが人ではないのは昨夜、翼を生やして空を飛んだことからも想像がつくが、だからなんだと思っている。人だろうが化け物だろうが恩人は恩人だ。自分たちに危害を加える存在ではないのはわかりきっている。
だからこうなってくると、据え膳喰わねば男の恥、清濁併せ呑んでこそ男、という思いがムクムクと鎌首をもたげてくる。
──いいだろう、望むところじゃねえか!
ディータは肚を決め、
「おんどりゃぁ!」
満を持して振り返ると──
そこには誰もいなかった……。
戻ってティアである。
ディータの煩悶をよそに、ティアは服を着てさっさと部屋を出ていた。
──呼びかけの問題でないのなら、なんだ……?
バディスのことを考えていると、
「なぜだ! なぜまた桶が壊れているんだ! 犯人はいったい誰なんだぁ!」
背後から、ディータの絶叫が聞こえてきた。
「……ごめん」
謝りながら、ティアは早歩きで立ち去った。