1 闇より
オーン。
オォーン、と。
狼の遠吠えが聞こえる。
遠く、とても遠くから聞こえるその声は、高く、もの悲しい哀愁を帯びている。
まるで……もう二度と戻ることのない仲間を弔う挽歌のようだった。
永遠に続くかのような暗闇の世界で、狼の遠吠えだけが寂しく鳴り響いている。
それを心地よく感じてしまう自分がいた。
きっと、自分がひとりでないことを、狼が教えてくれるからだ。
狼の遠吠えはずっと続いている。
自分を呼んでいるのだろうか? ふと、そんな気がした。
自分はどうするべきなのだろう。狼を探し求めるか、それとも無視してこの闇に身を浸し続けるか。
──でも。
いつかは狼の鳴き声も止んでしまうのだろう。もし遠吠えが止んでしまえば、自分はひとりきりになってしまう。
ひとりきり。
ずっと、ずっと、ひとりぼっち。
それは、とても寂しいことだ。
誰からも忘れ去られ、自分の存在が消えてしまうのは、寂しい。
そんなのは嫌だと思った。せめて、この悲しく鳴き続ける狼だけにでも、自分のことを覚えていてほしい。
自分が間違いなく生きていたことを。
だから、起き上がった。
闇のなかで、遠吠えが聞こえてくるほうへと歩きはじめる。
歩き続けると、遠くでかすかな星のような光が見えた。
おそらく遠吠えはその光から聞こえてくる。
闇のなか、そのかぼそい光だけを目指し、ただ歩き続けた。
◇
目を開くのと、狼の遠吠えが止むのは同時だった。
起き上がってまず狼を探そうとしたが、その意に反し、身体がまったく動かなかった。かろうじて動かすことができたのは瞳だけだ。
どこかの教会だろうか。天井が吹き抜けになっており、アーチ状の屋根が視界の端まで続いている。ほとんど朽ちているらしく、屋根のいたるところには穴が開き、そこから満天の星々がのぞいて見えた。
視界の逆側はすぐ壁になっており、ステンドグラスが嵌め込まれている。その位置関係から、おそらく自分は祭壇の棺のなかに寝かされているらしかった。
身体が動かないことの他にも異常はあった。
闇が、見えすぎる。
いまが夜ということはわかる。なんとなく暗い、ということも。にもかかわらず、周囲の景色が真昼のようにはっきりと見て取れた。物の輪郭だけでなく、色さえも容易に見分けることができた。
その一方で、声を発しようと思っても唇を動かすことさえできない。
どうすることもできずにいると、ふと、何かが棺の縁に立った。
黒い狼だった。その琥珀の瞳がまじまじとこちらを覗き込んでくる。
「気分はどうだ?」
狼が話しかけてくる。女の声だった。それもずいぶんと落ち着いた声音だ。
『……動かない』
そう言おうと思ったが、やはり声は出なかった。それでも伝わったのか、狼の口が大きく横に裂けた。どうやら笑ったらしい。
「動けぬだろう。当然だ。お前はもうほとんど死んでおる」
『死んだ?』
狼の声は聞こえるというより頭に響くようだった。
「一時的に記憶をなくしておる。良い。まずは休み、身体の動かし方を覚えよ。記憶もじきに戻ろう。……私もいささか疲れた。まったく。あの小娘、大した力だ」
狼はまるで愚痴をこぼすような口調で言うと、前脚で頭を掻いた。妙に人間らしい仕草だった。
「私も眠る。が、安心しろ。狼は決して仲間を見捨てぬ」
その声は、耳に心地がよかった。聞いているだけで心が落ち着く。
「それにしても」
と、狼はよくよくこちらをうかがうように鼻先を近づけてくる。
「たいそう器量の良い造形になったものだ。私の見込んだだけのことはある」
クク、と狼は上機嫌に笑う。
『器量? 造形?』
言っていることがよくわからない。
『お前は、いったい誰なんだ?』
「私か? 私の名はイースラス・グレマリー。私はお前にとっての主であり、お前は私にとっての巫女であり、最初で最後の現身である」
言うと、狼は棺の上から飛び降りる。
「眠れ。そして忘れるな。私は常にお前とともにある」
狼の言葉に誘われるように眼を閉じると、睡魔はすぐに訪れた。
◇
次に目覚めたのも夜だった。
まったく同じ場所で、前回の時と同じように天井の穴から澄んだ夜空と星がのぞいている。
やはり闇がよく見えた。
星は、実に様々な色を宿している。青・赤・黄・橙・白……。
夜空にはこれほど極彩色の光があふれていたのかと、感動を覚えたほどだ。
「狼……狼……」
身体は動かないままだったが、声は出た。自分の声のはずが、やけに高く堂内に響いている。
けれども黒狼は姿を現さない。
指ひとつ動かせない状態で放り出されていると、不安が波のように押し寄せてくる。
あせりを感じながら、ひたすら狼を呼んだ。すると。
「狼ではない。イスラと呼べ」
狼の女声が耳に届いた。ひらりと棺の上に飛び乗ってくる。
「何じゃ、騒々しい」
「……目が覚めた」
「見ればわかる」
「とても、たくさんの夢を見た気がする」
「ほう」
狼が、じろりとこちらに視線を落としてくる。
「でも、それはきっと、夢じゃない」
夢であってくれればどれだけよかったか。
けれど、そうでないことを自分は知っている。
夢を見たのではなく、思い出した、ということなのだろう。
「だとしたらどうする?」
狼から問われ、まじまじと見返した。
「皆の無念を晴らしたい」
気がつくと、そう答えていた。
無残に貫かれた家族の姿が、脳裏にこびりついて離れない。彼らはどれほどの恐怖と苦痛を味わったのだろう。そう思っただけで、全身が黒い炎に焼かれるようだった。
「オレは、ウラスロが憎い」
「つまり、復讐がお前の本懐ということか?」
抑揚のない声音で、イスラから問われた。
「復讐を果たせば、お前は本望か?」
「……」
重ねて問われ、黙り込む。
──自分は復讐したいのだろうか。
したい。そう思う。ウラスロにはこの世のありとあらゆる恐怖と苦痛を味わわせてやりたい。命乞いをさせ、奴の絶望を堪能し尽くしたあと、ゆっくりと時間をかけてとどめを刺してやりたい。でなければ、家族と領民に面目が立たない。
それなのに……。
「わからない」
気がつくとそう答えていた。
ウラスロに復讐したい。だが、それだけと言ってしまえば、自分のなかのとても大切なものが消え去ってしまうような気がしたからだった。
言葉では伝えることのできない、大切な何か。
そう思いながら、やはりウラスロは生かしておけない不倶戴天の敵だった。
あまりに多くの感情と想いが渦巻き、わけもわからず熱い涙がこめかみをすべり落ちていく。身体を動かすことができないため、ただ涙を出まかせにするしかなかった。
「泣くな。お前は間違っていない」
狼の──イスラの長い舌がぺろりと涙を掬う。
「その感覚を忘れるな。その割り切れぬ何かが、お前が人であった証であり、高みへと押し上げる階となろう」
その琥珀の瞳はどこまでも優しかった。