あえて何とは言わないが
11月11日は散々なものだった。
私にとって11月11日とは、大手お菓子メーカーの戦略に乗せられつつもそれに便乗して、細長くて美味しいあの有名な某チョコレート菓子を、お腹いっぱい食べる日だと昔から信じていた。現に小学校、中学校時代は心赴くままにお菓子を口にし、至福の時を得ていた。
だけど今年は、そんな至福の時間を味わえるほど甘くはなかった。
朝は学校に登校する道中で小柄な1年の後輩くんに飛びつかれたと思ったら、学校に着けば待ち構えていたと言わんばかりに同級生くんが所構わず私を押し倒す。2人の目的はどちらも同じ、その日にちなんでお菓子使ったゲームを私に強要してきた。そう。お菓子を端からかじり合い、ギリギリのラインで寸止めするあのゲームを。
が。もちろん、この2人に寸止めする気などない。確実に狙っているのだ。……何が、と聞かれれば恥ずかしいので口にはしたくないが、とにかく私は狙われていたのだ。
それは普段のこの2人の猛烈なアピールと行動から推測できるし、何より2人とも隠すことなく、そうしたいと恥ずかしさもなしに言ってのけた。
そうなれば私がとる行動は2つ。死守と逃走だ。私は懸命に守り、見つかる度に逃走を繰り返し、11月11日を終えた。
思えば、あの日は結局迫りくる魔の手から逃れる為に奮闘し、貞操を守る攻防をしていたせいか、某チョコレート菓子を食べた記憶がない。残念だ。
加え、逃げることに全てをかけたせいか、当初の予定だった彼氏とのデートも、当日になってキャンセルしてしまった。相手は忙しい大学生。せっかく大学とバイトの間に時間を作ってもらったのに、それをこちらから蹴ってしまうとは、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
その気持ちは11日が過ぎた今日、11月22日になっても消えることはなかった。
「……ケーキ、美味しくないのか?」
「へ? あ、いや、美味しいけど……」
「けど手、止まってる。嫌なら無理に食べなくていいけど――」
「いや、食べます! いただきます! だからお皿を持っていかないで!」
全ては過去の事、過ぎ去った事だと流せれば楽なのだが、生憎気まじめ性格はそれを許してはくれない。
回想に浸る頭を無理矢理動かして、私は遠ざかるケーキの乗ったお皿を奪い返す。食べかけのショートケーキにフォークを向けながらも、私は隣で喉を鳴らして笑い、「冗談なのに」と言いつつコーヒーをすする彼氏――奏汰に目を向けつつ、ケーキを口に運んだ。
奏汰が笑っている、よかった。
テーブルを挟んだ向かいで、奏汰が笑う。彼が笑ってくれている事に安堵しつつ、私も同じようにココアの入った専用のマグカップに手を伸ばした。
デートをキャンセルした時から今日の自宅デートを約束した時までの奏汰の冷たい態度に、嫌われてしまったのではないかと不安だったが、今の反応を見る限りどうやら大丈夫そうだ。
近所のお兄さん的存在だった頃から続くこの関係を、私は壊したくない。出来ることならずっと隣に居たいし、彼の隣は私だけの居場所であってほしい。他の誰にも、譲りたくはない。
なんてことを思うのは、子供な私の勝手な考えなのだろうか? その事について、奏汰はどう思っているのだろうか?
……聞きたいけど、怖くて答えが聞けない。答えの出ない、嫌な悩みだ。
「妃奈、どうかした? また手、止まっているけど」
「あ、これは、その……」
「……もしかして、気にしているのか? “あの2人”を置いてきたこと」
「へ?」
“あの2人”が誰か、なんて私達の間では言わなくても分かる。後輩くんと、同級生くんの事だ。度々私達が2人で会うことを妨害してくる、存在感の大きい2人の事を私達はまとめてそう言っている。
確かに今朝もマンションの前で待ち伏せしていた2人をロープで縛り、離れた場所の電柱にくくりつけた事が気にならないと言えば嘘になるが、たくましいあの2人なら大丈夫だろうし、デートキャンセルの原因となったお咎めを多少なりとも受けていいと思う。
だからその事はあまり気にしていないし、奏汰が2人を会話に出すまで忘れていたくらいだ。気にしているのか、という奏汰の問いに対しての答えはノー。気にしていないし、ケーキを食べる手が止まったのはあの2人が原因じゃない。
奏汰との事を考えていた。……なんて気恥ずかしいセリフをさらりと言えたらいいのだけど、そんな事は出来ない。
さて、どう誤魔化そうか。そう思い、考えを巡らせようとした時だった。
「……否定なし、か……」
奏汰の低い声で呟かれた言葉が耳に入り、ビクリと跳ね上がった自身の体が固まる。ヤバい、危険だ。と頭の中で警告のサイレンが鳴り響くも、もう遅い。
目の前の奏汰はニッコリと口元に笑みを浮かべるものの、その目は全くと言っていいほど笑っていない。その相反する光景がとても怖くて、私は後ずさりするも、後ろは壁。
逃げ場など、何処にもなかった。
「妃奈、こっちおいで」
「こ、こっち、とは……?」
「ここ」
「ここ、って……」
そう言って奏汰が指で示したのは、胡坐をかいた自身の膝。軽く足を解かれスペースの出来たそこに、来いというのだろうか。
確かに奏汰の隣にいつまでも居たいとは願ったが、そんな近くには数えるほどしか寄ったことがない。側によれば確実に緊張するし、気恥ずかしさに負けてしまう。
側に居たいと思うのに、いざそうなると遠慮したくなる。乙女心は難しいものだと再認識しつつも、私は首を振って拒否した。
「い、いいです! ここに居ます! ここで充分です!!」
「……ふーん。じゃあ、その場で押し倒されるか、こっちで抱きしめられるか。どっちがいい?」
「えっ!?」
「2択も用意したんだ。妃奈が選んでいいよ」
「え、選んでいいって……」
この選択肢にあまり差はないのではないだろうか? そう言いたかった言葉を呑みこんで、しぶしぶ考える。どちらがいいか、を。
……まぁ。選ぶ答えは1つしかないのだけど。
「……お邪魔、します」
「どうぞ」
押し倒される恥ずかしさより、抱きしめられる恥ずかしさの方が幾分かはマシである。そう考えた私は重い腰を上げ、渋々奏汰の膝の中に座った。
だけど1つだけ、これだけは言わせてほしい。この状況でも、充分に恥ずかしいのだと。
「妃奈、顔真っ赤。……こんなに俺のこと意識してくれているのに、なんで他の奴の事考えるのかな……」
不意に悲しそうに、不安そうに呟かれた奏汰の言葉。
奏汰はその大きな手で私の前髪をかき上げると、額にキスを落とした。一度だけ、触れるだけの、優しいものだ。
普段の私なら嬉しさと恥ずかしさからパニックを起こしてしまうのだけど、今回は違った。心が慌てない。パニックが、起こらなかったのだ。
理由はなんとなくだけど分かる。多分、奏汰のこの悲しそうな顔を目の前にしているからなのだろう。
ケーキを食べる手を何度も止めて、奏汰に気を遣わせたことは申し訳ないと思う。余計な気を遣わせて、誤解させたこともそうだ。
だけど私は、奏汰の事しか考えていない。奏汰だけが、私の頭と胸を占める。
想っても伝わらないことに歯痒さを覚え、私は少しだけ身を乗り出す。そして奏汰のサラサラとした手触りの前髪をかき上げ、唇を寄せる。
そして、触れるだけのキスを落とした。
彼と同じように。想いを込めて。その時だけは、恥ずかしさなどどこかに消えてしまっていた。
「私は、奏汰の事しか考えてないよ。奏汰の事だけ考えて、どうしたらずっと隣に居られるか。隣は私だけの居場所になるのか、私のものになるのか。……そんなことばっかり考えているよ」
それは純粋で、少しだけドロドロとしか感情。あまりの重さに、伝えれば嫌われてしまうのではないかと思う感情だけど、伝えずにはいられない。
これはきっと、奏汰が今求めている私の言葉だから。
「だからずっと、隣に居させてね。……他の誰かに、隣を譲る気ないから」
「奏汰が拒んでもね」
そう言葉を続ければ、奏汰は少しだけ驚いた顔を見せたけどすぐに笑い、私を抱きしめた。
その顔に、もう悲しい色なんてなかった。嬉しそうに、恥ずかしそうに頬を赤めた奏汰につられ、私の頬も熱を持ち始める。
「妃奈、すごいこと言うな。これって、逆プロポーズか?」
「プ、プロポーズ!? いや、私そんなつもりは――」
「なくても、内容はそうだって」
奏汰は愉快そうに笑うが、私は恥ずかしさから彼の肩に顔を埋めるしか出来ない。抱きしめられた体をギュッと抱きしめ返し、恥ずかしさに耐える。
「でもさ。俺はてっきり、今日という日にちなんで言ってきたのかと思った。『これからそうなりましょう』っていう意味でさ」
「ん? 今日にちなんで?」
「そう。――って、妃奈に自覚はないんだっけ。なら、分からないな」
顔を上げて奏汰に尋ねても、彼は今日が何の日かは教えてはくれなかった。「またの機会に」や「大人になったら」と言って、自分だけの秘密にしてしまう。
気になった私は何度も彼に尋ねたが、結局答えは得られないまま、私は今日いう日を過ごした。
そして数年後。奏汰が言っていた意味がようやく分かる日がきたが、それはまた別の話……。