モールス信号遊び
ものすごーく憂鬱だった翌日。
「……お、おはよ、竜神」
「お早う」
家に迎えにきてくれた竜神は、どこにも不自然さなど無くいつもどおりの態度だった。俺の視線から目を離すこともせず、無愛想なヤクザみたいな顔で、何のわだかまりも無く返事をくれる。
「寝れなかったのか?」
クマのある俺の顔を見て、竜神は眉根を寄せた。
お前を怒らせたと落ち込んで眠れなかったんだけどな。
謝りたい。
幽霊が怖いなんて子供みたいな理由で、抵抗せず冷泉に踏まれてたこと。
謝りたいのに、竜神の怒りを再燃させるかもしれないと思うと怖くて、俺は結局、何も言い出せなかった。
ほんと俺のメンタルってモブ! かっこいい男ならここで一発頭を下げただろうに!
竜神が何も無かったように振舞ってくれるからって、それに甘えるなんて。
自分を罵りつつも、謝ることもできないまま日常を繰り返してしまう。
階段を降りて坂を下り、電車に乗って学校傍の駅で降りる。
「竜神、ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「おう」
今日は教材の支払い日だった。
俺の口座からお金を振込みして――――。
「うあ!?」
「どうした!?」
口座を確認した俺は、悲鳴を上げてのけぞり、後ろに立って新聞の棚を見ていた竜神を驚かせてしまう。
「か、金が、金が!」
慌てて手続きを済ませてから竜神に飛びついた。
「金?」
「すげー増えてんだ! しかも振込先が百合って、なんで!?」
竜神はああ、と得心したように頷いた。
「バイト代だ」
「バイト?? バイトなんかしてねーぞ?」
そういや、昨日、百合に口座番号を聞かれてメールしたんだった。自己嫌悪に落ち込んでいたんで、機械的に通帳見て返信したんだけど、振込みのためだったのか。
「冷泉の化物屋敷を徘徊したろ。その代金みたいなもんだ」
そっか! でもすげーな! 15万も入ってんじゃねーかよ!
一週間後に夏休みだ。これだけあればスゲー遊べるぞ! ありがとう百合!
「竜神! 夏休みにどっか遊びに行かねえ?」
体当たりするみたいに竜神にくっついて背中に腕を回す。
これが前の体なら肩に手を回してたところだけど、160に届かない身長じゃ肩が遠い。
「旅行もいいよなー! 遠出もできるぞ。俺、母ちゃんがパートだし、修学旅行以外で旅行したことないからどっか行きたいなー! 皆誘って行こうよ!」
竜神を見上げると、なんかすげー困った顔して俺を見下ろしていた。
う、しまった。
昨日怒らせたってのに、いくらなんでも厚かましいか。
「――――そうだな。海にでも行くか」
お! よかった、怒ってない!
「うん、海行こう! すげー楽しみ! 美穂子も百合も達樹も浅見も誘ってさ。海水浴も小学校のころ行ったきりだし、絶対行きたい」
夏祭りに行くのもいいよな。街で花火大会あるし! いっそ泊り掛けの旅行に行ってもいい。
廊下を抜けて教室に入ると同時に、上がったテンションのままで「おはよー」って挨拶する。
「お早うー」
「お早う未来」
何人かのクラスメイトと、百合と美穂子が返事をくれる。
俺はカバンを机に掛けると、着席していた百合の腕を掴んで、教室の後ろまで引っ張った。
誰も聞かれないように、無人の席の後ろに立って耳打ちする。
「あんな大金よかったのか?」と。
だって十五万だぞ十五万!! 俺の小遣い約二年半分もあるじゃねーか!
「あぁ。お前には特に不愉快な思いをさせてしまったからな。気がねなく受け取って欲しい」
百合はあっけらかんと言い放つ。
「そっか……。ありがとう……!」
なら遠慮なくいただこう! 五万円は母ちゃんに渡して、残りの金でずっと欲しかった低反発クッション買おう。それと、いつも世話になってる竜神になにかお礼しよう! なんて考えつつ、足取り軽く席に戻る。
「せんぱーい、お早うございます!」
「おー、達樹おはよ」
「おはよう未来」
「浅見もおはよー。昨日は迷惑かけてごめんな」
「迷惑なんてかけられて無いよ」
いつもの朝と同じよう浅見と達樹を向かえる。
そんな中、
「諸君、座席につきたまえ」
教卓に、見慣れない生徒が立って教室に言い放った。
竜神には届かないけど充分な長身で、やや長めの黒髪をした女顔の男――――。
ひ。
美穂子の席の横に立ってた俺は、息を呑んで一歩さがってしまった。
だって、そこにいたのは。
「はじめまして、ボクの名前は冷泉 三郎。今日からこの学校の3-4組に編入する」
あの、アイス男だったんだ。
アイス男は俺を見つけて近寄ってきた。
「――――やぁ未来。会いたくて、我慢できなくて、この学校に編入してしまったよ」
歩いてくる冷泉の後ろに、口ばかりのゾンビの幻影が見えて、驚いた猫みたいに固まって動けなくなってしまう。
「貴様、なぜ」
百合が俺の体を引き寄せてくれた。それでようやく動けるようになって、百合の体に抱き付いて目を伏せる。それとほぼ同時に、
「危ない――うぐ!」
浅見のくぐもった声と、鈍い炸裂音、机の倒れる大きな音が教室中に響く。
何事!?
ゾンビのことも忘れて顔を上げると、鞄を持った浅見と冷泉が机を巻き添えに倒れていた。
「うわ、僕ごと飛ばすとか……」
床に尻餅をついた浅見は一瞬呆然としてたけど、すぐに竜神に食って掛かった。
「竜神君! 暴力は振るわないって未来と約束しただろ!」
竜神はバツの悪そうな顔をして、「忘れてた」と漏らした。
音と状況から推測するに、竜神が冷泉を殴ろうとしたのを、浅見が鞄を盾に止めた――というところだろう。
「あああ浅見、ファインプレー!!」
俺は拍手しつつ浅見を称えてしまう。すげー瞬発力だな、竜神の攻撃を止めるなんて! つか竜神、そこ忘れんなよ!! 俺、お前に睨まれたの結構怖かったってのに!
いたたたた、って顔を押さえてる冷泉に駆け寄り、腕を掴んで引っ張り起こす。竜神を逆恨みされたらたまらないからな。あいつの夢を潰す真似はしたくねーし。
「大丈夫か。竜神は悪くないから恨むんじゃねーぞ。何しにきたんだよお前」
冷泉は立ち上がり、流れた鼻血を拭いて、俺の肩に手を乗せた。
「ボクの足が肩を踏んだとき、君が「ん」と呟いた声がとても妖艶で耳に焼き付いて……。会いに来る衝動を抑えられなかったんだ!」
「妖艶とかいうな!」
恥ずかしさにギリギリして顔が熱くなる。くそ、クラス中に注目されてんのに情け無い事暴露しやがって……!
どうでもいいけど昨日の今日で編入とかできるもんなのか? ――ってそうか、この学校、セクハラ教師も長年処罰できなかったぐらいだし、あの気弱な校長なら編入なんて簡単にしてもらえそうだよな。こいつ金持ちだしなあ。
とにかく、俺がやることは一つだけだな。
カバンを机から取り上げて、女顔の変態に力一杯降り下ろした。
「うぶ!!」
顔面に叩き付けたんで、変な悲鳴を上げて後頭部から教卓に落ちていく。
「なな、何をするんだ!」
「うるせえ。脅して踏みつけといて、無条件で許されると思うんじゃねーよ」
俺は別に将来公務員目指してるわけじゃねーし、どうせフリーターにしかなれないだろうし、こいつに妨害されようと大差ない低空人生だろうからな。女の腕力の無さをカバンでカバーして、容赦なく連打する。
「あの、大変申し訳ございませんが、どうかその辺で主人を許してはくださいませんか」
十発に届いたころ、俺の腕が背後から止められた。
クーラーついてるとはいえ、暑い教室の中でスーツを着てる三十代ぐらいの男の人だ。
「誰だよあんた」
「冷泉の身辺警護のものです」
身辺警護? ってボディガード!? 学校までボディーガード付けてくるって、こいつまじで上流階級のぼっちゃんなんだな! 単なる変態としか思って無かったよ。
「未来のその蔑む目がやはりたまらない……。もっと殴ってください」
「おぼっちゃん、もう、それぐらいで。これ以上はドン引きされます」
「とっくに引いてるんだよ! 俺に二度と話し掛けんな!」
俺は背筋を振るわせて武器にしていたカバンを盾にした。
「もういいだろ。さっさと教室から出て行け」
俺の前に立った竜神が容赦なく睨み付けて、冷泉がまるで熊に睨まれたウサギみたいに身を震わす。
放課後。
俺と百合、美穂子、浅見、達樹は教室で話し合いをしていた。
夏休み、海に行こうって内容で。
全員、すぐに食いついて来てくれた。なぜか冷泉も食いついてきたけど丁重に断る。
具体的に言うと、俺がカバンを振り回して追いはらった。
竜神は冷泉の顔を見ると殴りたくなるからって、机に突っ伏してガチで寝てる。
話し合いっていっても基本的にうるさいのに、良く眠れるよなぁ竜神の奴。
日程と目的地が決まったんで、竜神にも確認を取ろうと、ぎゃーぎゃー騒ぐ連中から離れて、寝ている竜神の前に立った。
ジャンプを枕にして、両手を伸ばして机から掌を垂れ下げている。
「竜神」
声をかけるが起きる気配はない。
揺すり起こそうとした時、竜神の掌が目に止まった。
(手、でっかいよなー)
何度も思っていたけど、ほんと、でっかい。
俺の掌とどんくらいちがうんだろう。
机から垂れ下がった手と手を重ねると。
(あ)
竜神が俺の手を握ってきた。
うーん、どうしようか。
……。
やっぱりでかいなー。骨がしっかりしてて厚いから、これで殴られたらひとたまりもないだろうな。変態親父の歯も一撃で砕いてたもんな。
保育園実習で子供一人軽々抱え上げてたし、俺の体も軽く抱き上げるし。こいつ力もあるからほんと憧れちゃうな。
そだ、お金入ったからダンベル買お。体鍛えなきゃ。
「………………」
あ、竜神が目を覚ました。ぼんやりした目で繋いだ手を見て、
「て?」
と呟いた。
そして、気が抜けた様子で笑った。
「どおりで、手ぇ繋いで歩いてる夢見たんだな」
「――。」
竜神は、は、とした顔をして、不自然じゃない程度だけど、俺の手を振り払った。
顔をジャンプに伏せて、両手を組んで、眠気をはらうかのよう全身に力を入れて伸びをする。
ジャンプから顔を上げて、俺に視線を合わせる。その顔に、もう笑みは無かった。
「終わったのか? 何日になった?」
「七月中に行こうってことになったけど大丈夫?」
「あぁ。大丈夫だ」
笑い顔、久しぶりに見たな。
お前いつの間にか笑わなくなったな。
会ったころは、もっと、表情豊かな奴だったのに。
俺といるのしんどいのかな。
指からいつまでも目が離せなくて、俺は、竜神の指先に指を重ねた。
人差し指を、人差し指でとんとんとんと叩く。
「何してんだ?」
「ガキの頃やんなかった? モールス信号遊び。人差し指が平仮名の行で、中指を叩いた回数が、その行の上から何番目ってこと」
中指でとんとんとん。
「モールス信号ってそんなだったか?」
「本物の方はしらねー」
人差し指でとんとん。
(待て、)
そこまで叩いて、指を引いた。
(俺が、言う資格はないよ。早苗ちゃん)
どうにか意識を逸らして早苗ちゃんと変わろうと頑張ったけど、周りに皆が集まってきて早苗ちゃんと変わる事はできなかった。