黒板にかかれた、
トーストを片手に、もう片手は紙を持って、並んだ数字を睨みつつ俺は朝食を食べていた。
腕に巻かれた包帯が突っ張って鬱陶しい。
今日の朝食当番は母ちゃんで、メニューはバターを塗ったトーストと味噌汁だ。
母ちゃんが朝食当番の時はこういうわけ判らない組み合わせをぶっ放して来る。
油っぽいバターと塩辛い味噌汁がミスマッチもいい所だっての。
味噌汁もトーストも別々なら超美味いのに、合わさった途端不愉快になるんだよ。物心ついた時から文句いってるのに全然改善してくれないってひどくね。俺が朝食当番の時は、目玉焼きとサラダ出してるってのに。
まあ今更メニューにけち付ける気はない。母ちゃんに文句言ってるヒマあったら自分で作ったほうが早いしな。
問題はこの紙だ。
そこに書かれているのは、俺――上田早苗の体のスポーツ能力結果だ。
上田早苗(現在の日向未来)の身体能力
【50m走】11.8
【握力】15
【ボール投げ】7
【立ち幅跳び】140
戦闘力たったの5か……ゴミめ……。
昨日、辻に連れて行かれた竜神を待ってる間に、自分で測定できる種目をやってみたんだ。
竜神と入れ替わりで辻から開放された浅見も手伝ってくれて、測定自体はさくさく進んだけど、結果はこの有様だ。
ひどい。ひどすぎる。
ボール投げの7mってなんだよ……。直接地面に落してもそれぐらいいくんじゃねーの?
因みに、生前の俺の結果は、
日向未来(事故前)
【50m走】7.2
【握力】41
【ボール投げ】23
【立ち幅跳び】200
全ての項目が超平均である。
平均だからって馬鹿にするなよ? 優れもしないけど劣りもしないって凄いことなんだからな。ああ素晴らしき平均!
いや、駄目だ俺、逃避するんじゃねえ。現実の結果に目をむけなきゃ。
ボール投げの7mも酷いけど、握力もひでえな。男時代の二分の一以下ってどういうことだ。最近ペットボトルの蓋が硬くなったなーって思ったのはこのせいか。こんだけ非力なら、そりゃ硬くも感じるだろうな!
事故ってからこのかた、ブタのごとく食っちゃ寝ばっかりしてたから筋力が下がってるだけなんだよな、多分。
このままじゃ早苗ちゃんの名誉にも関わる。この体はそんなに低スペックじゃないよな?
おっぱいと容姿に、身体能力の全てが持っていかれたなんてありえないよな?
よし、運動部に入ろう。サッカーしよう!
急激に上がったテンションが、急激に下がった。
俺の通う学校に女子のサッカー部は無いのを忘れてた。
男子サッカー部のマネージャーならできるけど……ちょっとなあ……。
同級生でも触ってこようとする男がいるんだ。先輩の中にのこのこ飛び込んで行ったら、洒落にならない事が起こりそう。
竜神が一緒に部活に入ってくれるなら大丈夫だろうけど――――って、それはいくらなんでも甘えすぎだよな。
小学校から中学校、高校とサッカーを続けてきたのに、今更バスケやバレーなんかしたくないしなあ。
俺は紙を見ながら、つい十分前に病院から帰宅して来た兄ちゃんは新聞を読みながら、母ちゃんはテレビを見ながら、各々ばらばらに(行儀悪く)朝食をとっていたのだが、チャイムの音で一気にまとまった。
「おはようございます」
返事を待たずして入ってきたのは、俺の送り迎えをしてくれている竜神だ。
「お早う強志君。いつも言ってるけど、チャイム鳴らさず入ってきても構わないんだよ」
キッチンから顔を出して母ちゃんが笑う。
最初のころ竜神は馬鹿正直に返事があるまで玄関前で待っていた。
ぶっちゃけ、この辺りに鍵をかける習慣は無い。
チャイムと同時に玄関先に立っているのがデフォの地域だ。
チャイムだけだと「ああ、なんかの間違いで鳴ったんだね」「いやいや、小学生の悪戯だよ」という恐ろしい反応が返ってくる。
最初の一日目なんて、鳴ったチャイムを悪戯だと決め込んで返事もせず、ドアを開けて初めて竜神がいるのに気が付いて心の底から肝を冷やしたもんだ。竜神のことをヤクザの八代目跡取りだと思ってたし。
「お早う。家の愚弟……いや、愚妹が迷惑ばかりかけているようで、申し訳ない」
兄ちゃんが新聞を畳みながら、竜神に頭を下げた。
「いいえ。オレは――――」
頭を下げかけた竜神を押して玄関へ走る。
「いってきます!」
竜神が俺の家族に頭を下げる必要なんて無い。世話になっているのは俺なんだから。
人いきれにうんざりしていた満員電車も、竜神と乗るとちょっとだけ快適になった。でかい体で周りを押し返してくれるし、痴漢の被害にもあわなくなったし。到着駅の大混雑も安全に降車できる。
ちょっと待て、俺、何でもかんでも頼りすぎじゃねえか?
こいつに何かしてやれたことってあったっけ?
「傷、開いてねえか?」
「え? あ、うん、大丈夫」
考え事をしていて、返事がぎこちなくなってしまった。
俺の体は今、包帯だらけだ。
半袖の制服とスカートとソックスでは隠しようもなくて、通行人から時折驚いたような顔をされてしまう。
「単なる擦り傷だからさ。包帯巻いてるのは傷口の保湿がどうとかってだけで、大怪我だからってわけじゃねーし」
携帯がメール着信に震えた。確認すると、浅見からだった。
「浅見、今日は学校休むってさ」
「そうか……。辻に突っ込んでいくなんて慣れないことしたから熱でも出ちまったかな」
「う、ありうる」
『体力測定に付き合わせてごめんな。ゆっくり休めよ!(薬の絵文字)』と返信して携帯を閉じた。
「おはよー未来、竜神君」
「あ、花沢、美穂子、お早う」
「お早う」
ちょうど校門の辺りで、向かいから来ていた女子二人組みに声を掛けられる。花沢と美穂子だ。
「今日も会ったな」なんて男っぽい喋り方の花沢と、茶色のふわふわした髪で「いい天気だね」と笑う正統派可愛い女の子の美穂子。
こいつらとは家の方向がまるきり違うってのに、利用してるバスが丁度この時間に到着するらしくて、一週間に二回ぐらいは校門や校庭ではち会うんだよな。
ウチの学校は毎朝必ず、先生が二人、校門前で立ち番してる。
「お早う」
今日の立ち番はうちの担任だった。
「お早うございます」
挨拶をして通り過ぎようとしたんだけど、
「竜神君、ちょっといいかな」
「なんですか?」
「話があるんだ。職員室まで一緒に来てくれ」
竜神だけ呼び止められてしまった。
「わかりました。……美穂子、花沢、未来を頼む」
「あぁ」
「まかせといてー」
おい、なんで女子二人に任せる必要があるんだよ。俺は子供か。
「はい、手!」
美穂子が俺に向かって掌を差し出してきた。
男の体の時は美穂子なんて小さくて華奢で、こんな子が彼女だったらなーとか、教室にテロリストがなだれ込んできたら守りたいなーって思ってたはずなのに、今は美穂子の方がでかいというなんとも情け無い有様になっている。
「手?」
「未来がセクハラされないように、これからはちゃんと守るから」
「美穂子みたいな可愛い子に守られるほど弱くないよ」
「では、私が守ろう」
花沢が有無を言わさず俺の手を取った。うわ、手、でかいな女のくせに! そういや身長も高いもんな。170越してそうだ。
美穂子が165ぐらいなのかな? 詳しい数字は判らないけど、両方とも迫力ある美人だよなあ。花沢なんか、腰まで長い黒髪してるけど中性的で、モデルって言われても違和感ない。
「未来ってほんと、ちっちゃくて可愛いよね。子猫みたい」
「こ、子猫!? いや、それはないだろ」
いや、待てよ。俺も初めて早苗ちゃんの顔を見たとき、子猫みたいだって思ったような?
「あるある。未来が胸触られたの見た時、びっくりし過ぎて辻の顔面にグーパン入れちゃったもん」
「え」
「私も思わず金玉蹴った」
「は!?」
おい、花沢、どこ蹴ったって!? もういっぺん言ってみろ!
「浅見が辻を引き倒して、全部自分がやったって罪を被ったんだがな。まったく、優男の癖余計な事を」
「そだね。自分の罪は自分で被りたかったよ。浅見君って大人しいくせ向こう見ずなんだから。かっこよかったけどね」
――――――――そうだったのか。
つか俺、いろんな人に迷惑掛けすぎだ。
辻って凄く根に持ちそうだよな。
これで浅見や美穂子や花沢がいびられるようになったらどうしよう。
母ちゃん、昨日、俺の怪我見てぶちきれてたけど、学校に電話もかけてたみたいだけど、ちゃんと話してくれたのかな。
母ちゃん切れたら感情的になるから、フォローできてないかもしれない。
担任に話してみようかな。でも担任に辻の悪行を阻止できる力ってなさそうだよな。教頭先生か校長先生に言えばいいのかな。あーもう、ごちゃごちゃしてきた!
「おはよー」
挨拶をしながら教室に足を入れる。
クラス中が、一気に静かになった。
え?
「なにあれ」
美穂子が低く呟く。
視線は黒板を向いていた。
黒板には、でかでかと、いくつかの文字が書かれていた。
見慣れた漢字が並んでいるのに、一瞬、文字を認識できなかった。
書かれていた文字は――――――。
『日向未来は
ヤリマンビッチ
男に捨てられ自殺未遂』
ぐらりと視界が歪んだ。
機械的に机に向かって、重たいカバンを乗せた。
「これ、書いたの誰?」
美穂子が足音高く教壇に上り、教室に向かって聞いた。
「馬鹿な真似をしたもんだな。犯人はふざけ半分だったかもしれんがな」
花沢が黒板を写メに取っている。
「犯人が進学するときも就職するときも結婚するときも、相手先にこの画像を送ってやろう。もちろん未来の名前は加工させてもらうがな。どこに逃げても永久に送り続けてやる。――――一生後悔させてやる」
低く、でもクラス中に通る声で宣言した。
「一番初めに入ったのは誰?」
美穂子の呼びかけに、おずおずと手が上がった。
山田さんという大人しい女子だ。
「私が多分、一番最初だと思う……。でも、私は書いてないよ! 来た時には書いてあったから」
「何時に来たの?」
「えと……八時ちょっと前だったかな」山田さんがおずおずと答える。
問い詰める美穂子と写真を何枚も取っている百合に、教室の空気が淀んで行く。
駄目だ。このままじゃ美穂子と百合が悪者になってしまう。
「美穂子、花沢、いいよ。事実じゃないし。俺なんかの為に怒ってくれてありがとうな。すげえ嬉しい」
俺は思わず声を張り上げていた。
ヤリマンビッチってのも、男に捨てられってのも事実じゃない。だけど、自殺未遂――そこだけは――――。
一部分だけでも虚偽が混じってれば、それは事実じゃない。事実じゃないんだ。自分に言い聞かせる。
「未来」
花沢と美穂子が同時に俺を呼ぶ。美穂子の目には心配そうな、花沢の目には「逃げるな」と非難めいた光が宿っている。
「いいんだ」
美穂子や花沢に犯人を追及するなんて悪役をやらせたくない。
このクラスに犯人がいるかどうかも定かじゃないんだから。
美穂子も花沢もすごく強い女だ。この事件が最悪の結果になって、クラスからハブられることになったって、平気で登校してきて誰にでも話しかけていくだろう。でも、俺のせいで余計な苦労なんてさせたくない。
俺はできるだけ大きな声で言った。
「さっきの嘘、実は、それ本当のことなんだよ! 俺、男食いまくりのヤリマンビッチなんだって」
声は引きつらなかっただろうか、
表情は自然だっただろうか。
美穂子と花沢から、クラスの視線を逸らせただろうか。
誰かを矢面に立たせるのは嫌だ。
「馬鹿かお前。彼女居ない暦年齢で死んで女になったくせ調子のんな。男も、誰でもいいってわけじゃねーんだよ。童貞がビッチにレベルアップなんて無理だろ。つか中身男なんだからそもそも男相手にセックスすんの自体無理のくせに」
期待なんてしてなかったフォローが入った。全てを冗談に変えてしまうような、俺を馬鹿にする台詞と同時に背中を叩いたのは、竜神だった。
思わず竜神の胸倉を殴っていた。カバンでガードされてしまったけど。
「ちょ、おま、おま、お前!! クラス中に――ばらすなよさすがに恥ずかしいだろ!! てめーマジ死ねよ! 確かに――自体無理だけど」
童貞やセックスを超小声で、後はテンションに任せて詰る。
教室のあちこちで笑い声が起こって、ドンマイ、まあ、来世があるからなー、なんて励ましがあがって、やがて、関心が別の部分へと移っていった。
花沢と美穂子も机に戻ってきていた。
「あれは先生に見せるから、そのままにしとくね。不愉快だろうけど」
「うん。大丈夫。俺、男だからあんなん気にしねえから」
カバンから教科書を取り出そうとする。
けど、唐突に、肩から力が抜けた。
カバンを閉じて机の上に置いたまま、ドアに向かう。
「未来?」
「今日はサボる。精神的ダメージ受けたからそんくらいありだよな」
「おい、待てよ! 辻に見つかったらどうすんだ! 今度こそあぶねえぞ」
竜神が慌てて後を追いかけてきた。
どこに行くあてもなくて、ただ廊下を歩く。
「なあ、お前、昨日どこでサボってたんだ?」
後ろから付いてきてくれた竜神に聞いた。
竜神はさっきの慌てた様子が嘘のような、いつも通りの落ち着いた様子で答えてくれた。
「屋上」
「屋上って立ち入り禁止じゃねーか。どっからいくんだ?」
竜神が俺の腕を掴んで、どんどん階段をのぼって行く。最上階、教科資料室のある階まで登ると、一番奥の教室の、古びた木製のドアの蝶番を蹴飛ばした。
鍵が掛かってるはずのドアが簡単に開く。中には今は使われていない、古びた机がピラミッド状に積まれていた。
一番高い机の先には、円形の、ナウシカに出てくるオームの目みたいな天窓があった。竜神がちょっと動かしただけで、天窓が外れる。
「すげえな。良く見つけたな」
「煙となんとかは高い場所が好きなんだよ。見つけるための苦労は惜しまねえ」
先に上った竜神に手を引かれ、屋上に出る。
外は酷く快晴だった。
「おー、気持ち良いなー」
この学校は桜丘校って名前だけど、丘の上にあるわけでも、海岸や山に接してるわけでもない。周りにはこの学校より背の高いビルがそびえ立ってて、景観は悪い。
それでも、傍に立つビルには窓がないので、監視されているような圧迫感は無かった。
一面に緑の防水塗膜が張られた屋上を歩き回る。
「ようやく見つけた出入り口なんだからな。誰にも言うなよ」
「……秘密の場所だったのかよ。俺に教えてよかったのか?」
「だから、言うなって口止めしてんだろ」
なんか、笑えた。笑いながら、言った。
「竜神、エロいことしよっか」
いろいろしてくれてるお礼に。
竜神は面白くも無さそうに眉根を寄せた。
「捨て鉢になってんじゃねーよ」
「ノリわりーなー。ヤリマンビッチが誘ってやってんのに」
「何言ってやがんだ馬鹿」
「こっから飛び降りて死のっかなー」
「全力で止めるぞ」
むぅ、本気で止めるだろうなこいつなら。
飛び降りるのはどう頑張っても無理そうだ。
手すりから離れ、大の字になるみたいに屋上に寝転がった。
空が高い。
雲ひとつ無い綺麗な青い空。
そんな空に向かって、声を張り上げた。
「あーもう、面倒くせえ」
ほんとうにもう、なにもかも、