セクハラ教師(保険医の手記)
この小説は、未来視点ではなく保険医視点になります
セクハラ教師のサブストーリーです。
「先生、怪我の手当てをお願いします、それと、タオル貸してください」
大柄の男の子が細い女の子を抱いて、保健室に駆け込んできたのはお昼の30分前のことだ。
肩より下まで伸びた髪に隠れていて、女の子の顔は見えなかったが、細い手足、バランスの取れた体、膨らんだ胸、どのパーツも少女特有の色気ともいうべきたおやかな美しさがあった。
当年とって三十三歳。結婚して子供までいるものの、いまだに恋のバイブルは80年代の少女マンガである私にとって、軽々と少女を持ち上げる男の子というシチュエーションには胸がときめいた。
だが、体操服姿の少女の体は、馬にでも引っ張りまわされたのかと問いたくなるほどに、全身に擦過傷があった。
靴も靴下も履いていない。男の子が一歩踏み出すごとに細いふくらはぎが力無く揺れて、意識が無いのが一目で察せた。
腕も足も水に濡れて、水滴をいくつも落している。この分では、この男子もびしょ濡れになっているだろう。
「一体どうしたの?」
問いかけに、男の子の返事は簡潔だった。
「グラウンドで怪我をしたんです。水で砂を落したから、このままだと風邪引いちまう」
なるほど、足を洗わせたから、女の子が靴を履いてないということか。
随分と気の利く子だ。
ここにももちろん、患部を洗う水道はあるが、これだけの広範囲を洗うのは無理だ。
足を洗えるのは、体育館横にある地面に直接流せるタイプの水道ぐらいのものだ。そこで流してきたに違いない。
「頭は打った?」
「いいえ」
男の子に抱き上げさせたまま、消毒済みのタオルで素早く拭いていく。患部に触れないように細心の注意を払いながら。
左足、右足。体勢を変えた途端、かくりと女の子の首が角度を変えた。
「――――――――」
息を呑むぐらいに綺麗な子だった。
身長はさして高くないものの、足は長く腰が高い。前述したように、体のパーツも一つ一つが絶品だ。これだけ否の打ち所の無いプロポーションだと、大抵の女がいわゆる「後姿美人」になってしまうものだが、この子の美貌はただでさえ素晴らしいプロポーションに負けてなどいなかった。小さな顔には黄金率ともいえるバランスで長い睫に伏せられた瞼、小さな口、鼻筋が通ってつんと尖った可愛らしい鼻が配置されている。
保健医として働いて四年、この学校に赴任して一年とちょっと。沢山の生徒を見てきたものの、こんなに美しい子を見るのは初めてだ。多分、今後の保険医人生で出会うこともないだろう。
抱き上げさせたまま体を拭いて、一番手前にあるベッドに下ろさせる。
案の定、男の子のズボンは水で濡れていた。
「貴方も風邪引くわよ。拭くか、ジャージに着替えてきなさい」
「こいつの手当てを先にお願いします。手伝いますんで」
確かに、女子とは言え、気を失った生徒に応急処置をするのはいささか難儀だ。お言葉に甘えて手伝ってもらう。
男の子に手伝ってもらったお陰で、手当てにはさほど時間がかからなかった。
「よし、終わり。綺麗な肌なのにあちこち擦りむいちゃってかわいそうに。しっかし随分綺麗な子ねー。こんな可愛い子初めて見たわ。何組の誰さん?」
「1-2の日向未来です」
「ああ、この子が」
みなまでは言わずに、日向さん――いや、日向君の顔に掛かった髪を指先で流した。
髪の毛も羨ましくなるぐらいに、艶やかで指触りがいい。
話には聞いていたが、噂にたがわぬ美少女だ。
では、この男の子がいつも傍にいるという「ヤクザ」だろうか。
少々きついが、五年後が楽しみな男前だ。こちらは噂に尾ひれありということか。それとも、まだまだ無邪気で可愛い、13~18歳の子供達からすれば、このきつい顔がヤクザに見えてしまうのだろうか。
「先生、日向未来は来ましたか?」
開け放していたドアから、嫌な男が入って来た。
辻だ。
咄嗟に締め出してやりたくなってしまうが、悔しいかな、それはできない。
何かといえばすぐに声を張り上げ、相手を萎縮させようとするこの男とは、できるだけ関わり合いを持ちたくはなかった。
この男の下劣な部分は、それだけではない。
まだベッドのカーテンを閉じておらず、日向君の体に布団も被せていなかった。
包帯で痛々しく装飾されてしまったとはいえ、美しい少女の体が無防備にそこにある。
男の視線は彼女の体を嘗め回すように見ていた。
この男、全校集会などで倒れた女の子を運んでくるのはいいのだが、あからさまに太腿や背中、腹を撫で回すのだ。
ベッドに寝かせた後までも。
何度か問題にしているにも関わらず、事無かれな教頭も校長も口頭での注意だけにとどめている。
この男が、セクハラを訴える私に対して、年増女のヒステリーと陰口を叩いてるのを偶然耳にした時は、背中から撃っても犯罪にならないのではないかと真剣に考えたものだ。猪狩りに使っている愛用の銃が手元になかったので諦めたが。
「いきなり叫び出してグラウンドで転んでしまったんです。どうしたことでしょうなあ。きっと、まだ、事故のトラウマがあるのかもしれませんな」
辻の手が日向君に伸びていく。また、足や腕を触るつもりなのだろうか。どうせ止めてもなんやかんやと理屈を付けて触るのだ。私は諦めていたのだが。
「応急処置は終わりましたんで、もう大丈夫っすよ、辻先生」
足元に畳んでいた布団を、ヤクザ君が一気に広げて少女の体を隠した。
「竜神……。お前が日向を勝手に保健室に連れてきたのか!」
「はい」
「怪我人を勝手に移動させるとはどういうつもりだ! 万一頭を打っていたら、動かしただけで重篤な状態になるかもしれなかったんだぞ!」
「すいません、考えが及びませんでした」
呆気なく頭を下げられて、辻が二の句を飲み込む。
何か言い返してくると身構えていたのだろうが、そのせいでたたらを踏んだようになってしまっていた。
あれ、さっき、このヤクザ君ははっきりと頭を打ってはいないと答えなかっただろうか――――ああ、そうか。今、辻に頭を打ってないなどと反論しても、「打った」「打ってない」の水掛け論になって辻を激昂させるだけだ。
この男を激昂させても話が通じなくなるだけで何の益もない。歳に似合わない冷静な態度に感心し、辻本人は想像さえしてないだろうが、十五程度の子供にあしらわれている中年男がいささか滑稽に映る。
「だ、だいたい、なぜ女子をお前が連れて行くんだ! 保健委員でもないくせに! 下心でもあったんじゃないだろうな?」
随分と厭らしい言い回しだ。
大人の私でも顔をしかめる言葉に、ヤクザ君は眉一つ動かさなかった。
「あ、こいつ女子でしたね。オレ、馬鹿だから、ついつい男友達感覚で連れてきてました。こいつもいまだに自分の事俺って言ってるし。先生も、男だと思ったから、こいつの胸、思いっきり触っちゃったんすよね?」
は、胸?
思わず声に出していた。
辻は顔を真っ赤にして私を睨んでから、
「とにかく、お前も生徒指導室にこい!」
そう、ヤクザ君――竜神君に怒鳴りつけた。
辻が足音高く保健室を出て行く。竜神君も大人しく後に続いている。
「先生、未来が目を覚ましたら教えてください。こいつ、まだ落ち着いていないと思いますんで」
「落ち着いていない?」
お願いします。そう私に一礼してから、静かにドアを閉めた。
胸を触る、か。とうとうそこまでやったのかあの男は。
また会議で問題にする必要がありそうだ。あの大声で恫喝されるのかと思うと、今から気が重い。この学校に保険医が居付かないのはあいつのせいに違いない。
さて、どこから切り込むか。とりあえず、日向君と竜神君から話を聞かなければならない。
日向君が目を覚ましたのは、それから約40分後だ。
細い悲鳴と人が床に落ちた音に、私は慌ててカーテンを引いた。
「どうしたの? 日向君」
日向君は小さな体を更に小さく丸めてガタガタと震えていた。
「……さん……うさん……たすけて…やめて…ゆるして……ごめんなさい…いや」
「ちょっと、日向君大丈夫?」
「……ぁさん、たす……たすけて…………いや……ごめんなさ…………しないで……」
パニック状態に陥ってしまっている。
「日向君、日向君」
揺すっても、頬を叩いても何の反応もない。自分の体を守るようにきつく両手で肩を抱いている。
竜神君が言っていた、「落ち着いてない」とはこのことか。
「ちょっと待ってなさいね。すぐ竜神君を呼んでくるから」
生徒指導室に飛び込んで、渋る辻を無視して保健室へ竜神君を連れてくる。
「……いや、こわい、いや……ゆるして……ゆるして……」
竜神君はそっと近寄ると、一歩分だけ離れた場所で膝を折った。
「早苗さん」
早苗さん? その子は日向未来君よね? 早苗さんって誰なのかしら。
私の疑問など届くはずも無く、竜神君は静かで、落ち着いた、どこか甘い声で続けた。
「あんたはもう解放されたんだ。怖い事なんかなんもないぜ。オレもいるしさ」
「ごめ……なさい……、ごめ……さ……」
「大丈夫だから。ちゃんと守るから」
「………………」
――――――――――。
手を握ることも無く抱き締めることも無く、一歩離れた距離で誓う様が、まるで姫様に永久の忠誠を誓う騎士のようで、
ようで!!
ときめきに殺されるかと思ったわよ!! 危ない、悲鳴を上げるところだったわ!!!! 落ち着け私! 保険医でしょ!!!
日向君の様子がゆっくりと変化していく。
ふいに視線が動いた。
「未来」
竜神君が呼んだ名前は、今度こそ本人の名前だった。
「……竜神?」
竜神君が返事をするものの、日向君は確かめるみたいにもう一度名前を呼んだ。
夢うつつだった日向君の表情が一気に生気を取り戻す。
保健室だから配慮しているんだろうか、小声で、会話の応酬が続く。
気の知れた友達の、他愛の無いやりとりだ。
会話の内容は、騎士とお姫様というにはいささか無理のある内容だが、二人の周りだけ、この保健室とは違う空気があった。
目を閉じている間も可愛かったけど、竜神君の言葉に笑う日向君の愛くるしさは尋常じゃない。
肩を竦めて笑い、目を丸くして驚く。どの表情も私の足りない語彙では表現できないぐらいに美しい。
誰かカメラマン連れてこい。そのカメラマンが高名であれ無名であれ、指がもげるまでシャッターを押し続けるだろう。
むしろ私が写真に収めるべきだろうかと考えだした頃、辻が大声を出しながら乱入してきて、竜神君を連れていってしまった。
辻の暴言に、日向君が向かって行った時は本当にひやひやしたわ。
生徒指導室なんて密室に、この子が連れて行かれたらどうなったやら考えるだけでも肝が冷える。
あの男はいつか一線を越えてしまいそうな危なさがある。そのいつかが今日にならない保障なんてないんだから。
竜神君も判っていたのかもしれない。辻を挑発してから引いて見せ、見事に自分一人で全部持っていってくれた。
「竜神」
日向君が心配そうに名前を呼んで、ついていこうとしたけど無言で制止されて、悔しそうに辻の背中を睨んでいる。
素敵なカップルね。
おばちゃんファンになっちゃった。影ながら応援しちゃうわ。
さて、私は辻を糾弾する準備をしなくては。
私の戦いはこれからね。
打ち切りじゃありませんよ!