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そして、その日の放課後。
「成瀬さーん、真嶋さーん。さぁ、部活の時間ですよぉ」
妙な掛け声とともに、支度を済ませた岩崎が俺の席に近づいてくる。
「あ、はーい」
素直に返事をするのはもちろん俺ではない。
「さぁ、行きましょう。すぐ行きましょう」
なんだ、そのテンションは。どうせ誰も訪ねて来ず、適当に勉強するだけであとは特に何もしない部室に行くのに、どうしてそんなにテンションをあげられるんだ。
「やけにご機嫌だな。いいことでもあったのか?」
俺が嫌味交じりに尋ねると、
「いいことではありません。むしろ嫌なことです。いやはや、季節が秋から冬になろうと、世間に苦悩が消えることはないんですね」
嗚呼無情、といった顔で天を仰ぎ、首を左右に振る。なんだ、その白々しい演技は。
「どういう意味だ」
「どういう意味でもいいじゃないですか。さあ早く行きましょう!」
やはり、どう見ても楽しそうにしか見えない。俺はイスから立ち上がると、カバンを手に取った。
「岩崎さん、何かおかしかったね」
誰から見ても、感想は同じであるらしい。ま、あれほど部室部室と言っているんだ。おそらく部室に行けばその謎は解明できるのではないか。
「とりあえず、部室に向かおう。話はそれからだろう」
「うん」
俺と真嶋は同じ種類の不安を胸に抱きつつ、教室を後にした。ともに口にはしなかったが、おそらく同じことを脳裏に描いていたと思う。曰く、朝の話が明確にTCCに対する依頼になったのではないか、と。
道中、俺と真嶋は並んで歩いていた。そして、その一馬身ほど先に岩崎がいる。上履きに羽でも生えたのではないか、という感じでやや飛び跳ねながら歩いている。心中的にはもちろん、物理的にも浮かれているに違いない。
俺はというと、部室に向かえば向かうほど、気持ちが沈んでいった。おそらく岩崎のテンションと俺のテンションは反比例しているのだろう。いや、岩崎がおとなしくしていたところで、俺のテンションは低空飛行か。となると、俺のテンションはいつ高くなるんだろうな。
俺が一人で意味の分からないことを考えていると、
「あ、成瀬。あれ見て」
と隣にいた真嶋がいきなり肩を叩く。真嶋の示す先は、俺の視線の先でもある。言われずともすでに視界に入っているよ。そして、真嶋の言いたいことも理解している。
「あれは、星野、だな」
「うん」
星野芹香が自分の教室から出てくると、気安い感じで岩崎の肩を叩いた。そして、岩崎は、
「グッドタイミングですね。では一緒に向かいましょう」
と対応した。これを見ていた俺と真嶋は、お互い顔を見合わせて、
「思った通り、だね」
「ああ。これでほぼ間違いない」
「ほぼ、なの?あたしは間違いないと思うけど」
いや、百パーセントではない。たとえば、
「一緒にトイレに向かうのかもしれない」
「それは希望的観測っていうのよ」
他にも、
「昇降口まで一緒に行こう、という意味かもしれない」
「それも一緒。それに昇降口までだったら、一緒に行こう、なんて言わないから」
俺は舌打ちをした。そんなことは分かっている。いいじゃないか、希望的観測だって。可能性はゼロではないぞ。
「なんか、いつも以上に嫌がってない?なんで?」
なんで、と言われても困る。いつも以上、とか言われても、俺はピンと来ない。なぜならいつ何時も、俺は本当に嫌だからだ。という大前提は置いといて、
「嫌な予感がするんだよ」
「それっていつものことじゃないの?」
「違うな」
予感というのは、前もって感じることだ。さっきは思わずあんなことを言ってしまったが、星野がTCCに相談事を持ち込むことは、ほぼ確実だと思う。つまり、ここでいう『嫌な予感』というのは、その先のことに対する予感だろう。曰く、
「星野は、俺が嫌だと思う相談をしてくる、ということだろう」
「それって、ものすごーく面倒だったり、誰かが怪我したりするってこと?」
「分からんが、その可能性もあると思う」
俺の顔がかなり真剣だったからだろうか。真嶋は本当に恐怖したような表情で一瞬立ち止まった。すぐさま俺の横に復帰したが、それほど恐ろしいことが頭をよぎったに違いない。いやまあ、そこまで神経質になることもないと思うのだが。
一階まで降りた俺たちは、昇降口を通り抜け、部室棟に向かった。残念なことに、星野は昇降口で別れたりはしなかった。
「どうやら本当にTCCの部室に来るようだな」
「そりゃそうでしょ。ここまで来たんだし」
俺はわずかな可能性にかけたんだよ。ま、それはさておき、
「お前、何してんだよ」
お前とは、誰を指しているのか。もちろん、岩崎ではないし星野でもない。でもって真嶋でもない。
「え?うわっ!」
どうやら真嶋も今気づいたようだ。その正体とは、
「日下部?いつからいたの?」
日下部。下の名前は、確か、博文。なんかどこぞの総理大臣みたいな名前だが、どこからどう見ても、ただの優男である。身長はおそらく百六十センチ前後。体重は五十キロあるかないか。俺や真嶋、岩崎のクラスメートだ。
「なんでお前がついてくるんだよ」
「二人してひどいな。別に俺がどこに行こうと勝手だろ」
確かにどこへ行こうと勝手だが、野球部である日下部がこっちに用事があるとは思えない。となると、
「俺たちに何か用か?」
という結論に達するのは、少しも不自然ではないだろう。
「いや、お前たちにはないんだが……」
「というと?」
「星野、何してんの?」
どうやら俺たちというより、前を歩く野球部マネージャーに用事があるようだ。
「いや、あたしたちもよく知らないんだけど、たぶん悩み相談じゃないかな」
「…………」
真面目な顔をして黙り込んでしまった。
「あんた、何か心当たりあるの?」
「いや、ないないない」
そうあからさまに怪しいリアクションをされると、こっちが困るのだが。ま、いいだろう。ここでうだうだやっていても仕方あるまい。
「とにかく、日下部」
「あ、なんだ?」
「星野のことが気になるのは分かったから、」
「あぁ?誰がそんなことを……」
なんだ、こいつは。自分の意見をはっきり言えないようでは、相手を動かすことはできないぞ。とりあえずイライラするな。
「どっちなのよ、はっきりして」
俺より先に真嶋が一喝してくれた。それが利いたのか、
「ああ!気になるよ!これでいいんだろ」
別に俺はどっちでもいいんだよ。お前の意志を聞いただけだ。なぜ、逆ギレされねばならんのか。まあそんなことはどうでもいい。とりあえず、
「とりあえずお前は帰れ」
「は?何でだよ、気になるって言っただろ!」
やかましいやつだ。
「とりあえず、と言っているだろ。それにお前は部活だろ」
「あぁ、そうだったな」
真面目にやれ。お前の部活は真面目にやる部活だろう。俺とは違ってな。
「明日教えてやる。だから今日は退け」
「え?そ、そうか。すまんな」
簡単で助かるな。麻生より頭が悪い気がする。
「じゃあ成瀬。頼んだぞ」
と言って、日下部は駆け足で野球部の部室に向かっていった。やれやれ。ため息を吐きつつ、日下部を見送っていると、
「ねえ、成瀬」
隣にいる真嶋が不服そうな顔で話しかけてきた。
「なんだ」
「あんなこと言ってよかったの」
あんなこととは、さっき日下部に言ったことだろう。
「明日教えてやる、って言ったことか?」
「うん。だってまだあたしたち何も知らないじゃん。それなのに、星野さんの了承もなしにそんなこと約束しちゃって」
そもそも、星野が本当に悩み相談をしてくるかどうかまだ分からないがな。それはともかく、
「もちろん相談者のプライバシーは尊重するつもりだ」
「え?それじゃ日下部にはなんて言うの?」
「別に内容を教えてやる、とは言ってない」
俺の言葉に、真面目の塊であるところの真嶋は、
「えー?本当にそんな屁理屈で誤魔化すつもりなの」
とご不満な様子。別に俺としてはどっちでもいいんだが、
「ああでも言わなきゃ、あいつはTCCの部室まで着いてきたぞ。そしたらきっと今より厄介な状況になる」
「まあ、少なくともすんなりとはいかなそうだね」
それが一番問題だ。面倒事を長引かせたくない。面倒事を回避するのも大変重要だと思うが、時にはそれを享受して、いかに可及的速やかに解決するか。これが重要な時もある。事件が始まる前から登場人物が増えるなんて、ろくな状況じゃないぞ。
「ともあれ、さっさと部室に行こう。悩み相談があろうがなかろうが、俺たちが部室に行かないと何も分からない」
「うん。そうだね」
何かある、と分かっているのに、部室に行かなきゃいけないとは、果てしなく足が重いが、すでにあそこは俺の居場所となりつつある。あそこに行くのが、俺の正しい姿なのだ。そこに事件があろうとも、な。