第3話 購買補助と1000Gの重み
昼の鐘が鳴る少し前、港の風が校庭を渡っていった。
五神獣ポータルの通知がひとつ震える。
《本日分FC残:低》
《青龍党よりお知らせ:FC在庫は先着で終了します。Gでの購入可/返却で取消可(店外持出前)》
教室の空気が、数字ひとつでざわつく。
うちは端末を胸ポケットに戻し、廊下へ出た。
回廊の先から、香ばしい油の匂い。青龍の屋台だ。
並ぶ列は二本。G購入の列と、FC利用の列。
列分けの看板の横には、風紀の腕章――得居凛真が立っている。
「半歩空けて進んで。押さない」
短い声がよく通る。
ビーコンが通過を数える軽い音が、列のリズムになっていた。
前にいた男子が、紙舟の瑞穂ポテトを受け取った瞬間、端末が赤く点滅した。
「残高不足。自動信用借入へ移行します――承認」
電子音が平然と進み、男子の手には熱い紙舟が残る。
とたんに彼の顔が青ざめた。
「や、やば……」
小さく震える声。うちは思わず口を開いた。
「返そう。ここで返せば取り消しになる。店の外に出る前なら」
男子ははっとして頷き、手を伸ばす。
店員が受け取り、ピッ。画面は決済取消に戻った。
凛真がさりげなく列を整え、前に合図を送る。
「次、Gの列の方どうぞ。FCは今日分終了」
静かな声が、波の上に橋を架けるみたいに広がった。
――“戻れる道”。
ルールに用意された優しさが、今日みたいな日に効く。
「菜結」
後ろから名を呼ばれて振り返ると、星川 蓮がいた。
ポケットには小さな温湿度センサー。
「昼、混む前に行こう。Gで。朝のクエストの分、あるだろ?」
うちは頷く。
苗定植(30分)で得た+1000G。
数字は数字。でも、土の匂いがまだ手に残っている。
二人でGの列に並ぶ。
受け渡しの瞬間、ビーコンが微かに唸る。
端末に「購買決済:−50G/受領確認」。
かざさないし、タップもしない。
受け取ったという事実だけが、世界を動かす。
紙舟を一つずつ持って、屋台の端に寄った。
海苔がふわりと香り、油が光る。
ひと口。
熱と塩が、今日のため息を押し戻してくる。
「1000Gって、軽いようで、軽くないね」
うちが言うと、星川は端末を見せた。
画面にはさっきの行動ログが淡く並ぶ。
《農園作業:+1000G》
《購買:−50G》
《安全行動:+1》
《列整協力:+0(観測のみ)》
「数字は、温度に似てる」
星川が静かに続ける。
「上がっても下がっても、理由がある。
無風で上がる温度は、たぶん危ない。
風があって上がる温度は、生きてる」
そこへ、白いローブの裾が柔らかく揺れて来た。
神代 紫苑がタロットの箱を指で弾き、眠たげな目を細める。
「君、二度目の水は、いま越えたね」
「返却のこと?」
「うん。返せる水は、戻れる道。
でも、戻らない方が良い日もある」
紫苑はカードを切り、何も引かないでしまう。
「引かない選択が、いちばん難しい。
……でも今日は、正解」
端で見ていた御荘悠真が、簡易シンクで手を洗いながらこちらに目をやった。
「戻す勇気と進む手順。両方、大事だ」
いつもの穏やかな声。
手を拭くタオルの端が、春の風で少しだけ揺れる。
「御荘党首、午後の出店会議の場所、変更です」
青龍のスタッフが駆け寄る。
「購買の動線、少し詰まってます。玄武の提案で、配列変えるって」
横合いから星川が図面を開いた。
「入口のビーコンを一台角へ。G列とFC列の交差角を15度広げる。
通過認識の誤爆を減らせる」
「任せる」
御荘は短く言い、視線だけで合図を送る。
青龍のスタッフと玄武の観測班、風紀の凛真が三点で動いた。
半歩の調整が、列全体をすこし軽くする。
その時、背の高い男子が肩で人を押しのけて前に出た。
朱雀の赤。
「こっちは先に並んでたんだよ!」
声が跳ねて、空気が熱を持つ。
凛真が半歩前に出て、手のひらを見せた。
「落ち着け。店外持出前なら返却で取消できる。
――半歩下がれ。息を吸え。視線を下げろ」
命令の順番が、手順になっている。
男子は勢いのまま呼吸を吸って、視線を床に落とした。
風船から空気が抜けるみたいに肩の力がほどけて、
彼は黙って列の最後尾へ戻った。
麒麟の白い手袋――エリヤ・ローゼンが、その背中に軽く声をかける。
「低血糖だ。水と飴を。祈りは任意」
冗談めかした言い方なのに、効く。
男子は素直に頷き、エリヤの差し出す紙コップを受け取った。
回廊の空気から、きしむ音が消える。
人と旗と数字が、それぞれのスピードで動き直す。
うちは紙舟の最後の一本を口に入れ、
50Gの重みをもう一回だけ確かめた。
午後の出店会議は、青龍の仮設本部で行われた。
壁に貼られた大きな配置図。
青龍の主動線に、白虎のステージブースが並び、
朱雀の体験コーナーが隅の運動エリアに伸び、
玄武のデータブースと麒麟の医務・衛生ラインが挟み込まれている。
「正面は青龍の主菜。左手に白虎の演目。
右手は朱雀の体験。その手前に玄武の清掃ドローン。
出口で麒麟の手洗い・祈り」
星川が棒で示すと、御荘はうんと頷いた。
「主菜は静かに。演目は柔らかく。体験は遠くで熱く。
手洗いは必ず通る」
御荘の言葉は短いのに、道順の芯が通っている。
「医務はここ。迷子はここ。落とし物はここ」
エリヤが白い手袋で貼り紙を押さえ、
凛真が避難路の矢印に赤いテープを引いた。
紫苑は、静かに机の角を整えた。
「角は丸く」
それだけ言って、画鋲をひとつ抜いた。
指先から血がにじむ。
エリヤが即座に手袋を脱いで、消毒と絆創膏。
紫苑は目を細めて笑った。
「痛い。でも、生きてる」
会議が終わるころ、光が少し傾いていた。
ビーコンが三時のチャイムと同期して、
ポータルにそれぞれの行動ログが積まれる。
うちの画面にも、今日の小さな記録。
《園芸作業(午前):+1000G》
《購買:−50G》
《行列整流:観測・補助(+0)》
《会議参加:青龍準備》
+0の行が、なぜか一番心に残る。
見て、動けるように構えて、結局動かない。
その“まだ”が、うちは嫌いじゃない。
半歩を覚える過程は、きっとこういうことだ。
「菜結」
帰り間際、御荘に呼び止められた。
温室の横、午後の光。
「旗は、焦らなくていい。
でも、手は早く――水は待たない」
彼は笑って、葉の裏をそっと撫でた。
水が、そこに光になって残った。
回廊に出ると、凛真が風紀の最終巡回をしていた。
「店外に出る前の返却、今日は三件」
端末を見て、短く報告するように言う。
「戻れる道、ちゃんと使えたなら良」
うちはうんと頷いた。
「戻らない日も、来るけど」
凛真はそこで言葉を切って、半歩だけ会釈をした。
それ以上は、踏み込まない。
境界の守り方だ。
港の方から、鐘が一度。
麒麟の棟の前で、エリヤが誰にでも同じ角度で会釈をしている。
うちは手を振って通り過ぎ、
そのまま温室へ引き返した。
今日の1000Gが、指先でまだ熱い。
50Gの塩が、舌でまだ生きてる。
明日は、もっと始まる。
旗はまだ選ばない。
でも、誰かの列に半歩寄って、風になれるように――。
うちはポータルを胸に戻し、空に薄い月を見つけた。
春は浅い。けれど、足場には十分だ。




