第1話 入学とビーコンの光
講堂の前庭に、人の川ができていた。
入口脇で上級生が案内する。「端末を胸の高さで」「歩きながら」。
うちの番が来て、胸ポケットの上でビーコンがピッと小さく鳴る。画面に「入場:許可」。誰にも見えないところで、見えない握手が交わされる。
大講堂の中は、春の塵が金色に光っていた。壇上には生徒会。中心にいるのは教頭。学園長は出張中――出資者挨拶で全国を飛び回っている“レアキャラ”だと入学案内にあった。
「本学は単位制・単元末テスト制です。行事は自由参加。G(五神獣コイン)は学園内の標準通貨、1円=1G、手数料はかかりません。決済はビーコンで自動。商品受け渡しで成立し、残高不足は自動借入に移行――店外に出る前の返却で即時取消できます。信用の降格は段階的。皆さんの選択が、そのまま信用になります」
静かなざわめき。
スクリーンが切り替わって、五つの紋章と担当分野が出る。
青龍(水):食料・農政・環境・購買
朱雀(火):スポーツ・興行・観光
白虎(金):文化・芸術・報道
玄武(土):科学・防災・情報基盤
麒麟(木):保健・規律・宗教
「本校は海に近い。南海トラフ地震の想定訓練を定期的に行います。インフラは冗長化していますが、脆弱さは現実です。避難ルートを端末に配信しました」
うちのポータルに小さな地図が降りてきた。出口、集合場所、海抜。
“現実”という言い方が好きだ。祈ることと備えることは、両方いる。
入学の言葉は、**御荘 悠真**が担当した。
白い光の中で穏やかに立つ。名門の名、南の海の旧家。財団の由緒は噂で知っている。
「自由は、誰かの労力の上に立ちます。だから、感謝と、手順を――」
短い。けれど芯が通っている。
式が終わると、校庭へ流れる人の川がほどけた。
見本市。屋台、ブース、掲示板。
青龍はもう行列。春物の試作「瑞穂ポテト」が湯気を立て、紙舟から塩の匂いがする。
うちは迷わず列に並んだ。
順番が来て、紙舟を受け取る。その瞬間、ポータルが軽く震え、「購買決済:−50G/受領確認」。何もかざしていない。ただ渡されただけで決済が終わる。
揚げたてをひとつ。春の油はやさしく、芋は甘い。塩が意志を与える。
「評価、お願いします」
屋台の女子がタブレットを差し出す。味・食感・希望ソース・再購入意向。それから「政党への応援メッセージ」。
うちは空欄で送った。旗は、まだ選ばない。選ばないのも、選択だ。
「その空欄、観測としては正しい」
低い声に振り向くと、星川 蓮がいた。
黒髪に銀のフレーム。ネクタイピンに星の刺繍。胸には天文地学部のバッジ。
「決めつけは、測定値を歪める。星も、政治も」
「観測って、そんなに気を使うの」
「うん。選択前の“沈黙”は、時々いちばん鋭い」
静かな笑い方をする人だ。硬くはない。理屈がやさしい。
うちが頷くと、彼は手を振って去った。背中の線まで、観測の人に見える。
青龍の屋台の隣で、得居 凛真が風紀の腕章をつけて立っていた。武道部兼任、弓袋は今日はない。
「列間の半歩詰め、お願いします」
声は短く、空気が動く。
紙コップを落としかけた子の肘にさっと手を添え、流れを乱さない。
「危険は半歩で防げる」
言葉の使い方が無駄ない。うちが見ていると、彼は気づいて小さく会釈をした。
「君、園芸に行くのか」
「……うん」
「温室に**刃物安全**が要る。ビーコンが見る」
「試験あるやつ?」
「三択×10。持ち方・渡し方・無理しない、それだけ覚えればいい」
案内の仕方まで、半歩だ。押しつけず、逸らさない。
うちは礼を言って、掲示板の園芸部へ向かった。
受付にいたのは――御荘 悠真。さっき壇上にいた人が、エプロン姿で笑っている。
「ようこそ。まずは**“鋏の手入れ基礎”から。合格すると温室に入れる」
教材箱にハサミ、クロス、薄いオイル**。手順は端的、語尾はやわらかい。
テストを終えると、ポータルが震える。合格:刃物安全/温室入室許可。
温室の扉上のビーコンが緑に点り、ガラス戸がするりと開いた。
湿った春の匂い。葉物のトレー、実験プランターのイチゴ、ハーブの苗。
「ここが青龍の台所のひとつ」
後ろから星川。透明なセンサーを持って、温湿度を測る。
「今日の課題、温室と外気の差」
「理科室みたい」
「温室は理科室。食べ物の実験室」
葉がわずかにしおれて見えた瞬間、入口から得居の声。
「今、潅水」
蛇口のノブに塩の粉。昨日図書館で見た水栓がよぎる。拭って、ゆっくり回す。ぎ、ぎ。葉に水の粒が乗り、空気がやわらかく変わる。
星川がセンサーのグラフを見せて、親指を立てる。
「半歩で育つ」
得居が短く言い、目線だけで礼をした。
外に出ると、青龍の屋台の前で空気が固くなっていた。
「フードクレジット(FC)がもう本日分終了? 昼まだなのに」
「Gでの購入をご利用ください」
自動音声。列の端で、小柄な子が顔を真っ赤にしている。
「……残高、ない」
声。次の瞬間、彼のポータルが赤く点滅した。
残高不足。自動信用借入へ移行します――承認
電子の声が冷静に進む。商品は手に載る。画面には小さく警告のアイコン。
「返却していただければ、店外に出るまでの決済は取り消しできます」
店員は穏やかに言う。
「返せば、いいの?」
「はい。落ち着いて。列は二本に分けます」
すっと入り込む風紀の腕章。得居が手を上げ、買える人と買えない人の動線を分ける。
「30分、空いてる?」
うちが声を掛ける前に、星川が小柄な子の横へ行っていた。
「……空いてる」
「苗定植のクエストがある。1000G。終わったら一緒に買いに行こう」
子は何度も頷く。
御荘が受付に立ち、うちは作業のフォローに回る。
指示はやさしく、手順は正確。
自由はきびしいけれど、戻れる道はある。
戻るのを助ける手は、ここにたくさんある。
作業が終わると、ポータルが震えた。報酬:+1000G/品質:良。
列に戻って、紙舟を受け取る。渡された瞬間に、「−50G」。
自分のGで食べる芋は、さっきより熱い。
たった50。けれど、0とは違う。
星川が横で小さく言う。
「自由は責任と同じ形をしてる」
「うちは、好きで選ぶよ」
彼は目を細めて笑った。観測の人の笑い。
「体育祭、出ない?」
朱雀の赤いジャージが風みたいに近づく。剣持 陽真。声は太陽、笑顔は観客席まで届くやつ。
「園芸の子もいい動きしてる。合同チーム、組もう」
参加したくなる声。うちは笑って、今はうなずかない。
旗はまだ、選ばない。
白虎の舞台では、御荘 玲臣が譜面を見ている。御荘家の親族らしい、柔らかな所作。
「見学は外からね。境界は、礼儀」
うなずく。境界という言葉が今日のうちに何度も浮かぶ。
白虎の幕の隙間からこぼれる音は、春のほこりみたいに軽い。
日が傾くと、麒麟の棟から鐘が一度だけ鳴る。
白い手袋の留学生、Eliyah Rosenが門の前で会釈した。
「祈りは強制しない。でも、守りたい指先があれば、医務室はいつでも開いている」
「ありがとう。今日は大丈夫」
そう言うと、彼は同じ角度で笑った。どんな相手にも変わらない、救いの角度。
夕方、講堂脇の図書館に寄る。
地下書庫の鍵は三分前返却の儀式。階段の前でビーコンが光り、ポータルに「入室不可:権限不足」。
受付の図書委員が教えてくれた。「申請すれば、抄録は見られます。全文は条件付き」
条件。境界。安全。選択。
背中で、紙の擦れる音。
振り向くと、神代 紫苑がカードの箱を抱えて立っていた。
「きょう、二度、水に出会ったね。ひとつは育てる水。もうひとつは、返せる水」
「返せる水?」
「店を、出る前に」
紫苑は、うちの目の前でカードを切り、何も引かない。
「占いは、ときどき解釈を間違える。でも、出来事は嘘をつかない」
眠たげな目で笑って、白虎の廊下へ消えた。
外に出ると、港に灯がともっている。
うちのポータルに、今日の数字が並ぶ。
「購買:−50G」「園芸作業:+1000G」「安全行動+1」「参加:白虎=外から」
南海トラフ訓練の通知がリマインドに上がり、予定表の夕方に仮予約が入った。
坂を上る途中、御荘 悠真とすれ違う。
彼は立ち止まり、うちの手を見た。
「赤くなってる。水仕事のあと、保湿を。麒麟に寄っていく?」
「今日は大丈夫。明日は行く」
「それがいい。自由は、連続で守ると優しくなる」
そう言って、御荘は軽く頭を下げた。
遠くで得居が風紀の最終巡回をしている。視線がまっすぐで、灯の中でも線がぶれない。
――守る人と、変える人。
観測する人と、祈る人。
そして、育てる人。
旗は五つ。うちはまだ、選ばない。けれど、光はもう差している。
寮の廊下で、ポータルがふっと温かくなった。
空中充電が強くなる時間帯らしい。
充電アイコンの隣に、信用ステータス:良好。
明日、もし踏み外しても、返せば取り消せる。戻れる道を思い出せばいい。
でも、戻らずに進む日も来る。そのときは、足で決める。
「うちは、うちの旗をあとで立てる」
窓の外で、港の灯が少し増えた。
旗は、やっぱり風のない空で揺れて見える。
春は浅いけれど、始まりには充分だ。




