地雷を踏む音が聞こえますわね
「クラリス・リーデル。お前との婚約を、今日この場をもって破棄する」
王太子エドモンドの声が響いた。
あまりに明瞭で、あまりに堂々としていた。
だからこそ、誰もが耳を疑った。
人々の視線が、いっせいに一点へと集まる。
中央に立つのは、深紅のドレスに身を包んだ公爵令嬢クラリス。
その背筋はまっすぐで、表情には微塵の乱れもない。
ただ、わずかに瞼が震えた。
「……まあ。随分と突然でいらっしゃいますのね」
彼は満足げに顎を上げ、隣に立つ若い伯爵令嬢の肩を抱いた。
金髪の少女――リリア。今宵の“新たな主役”である。
「お前は冷たい。女らしさというものがない。剣など振るい、男どもの中で恥じることもない。それに比べてリリアは優しく、俺の言葉を素直に聞く。王妃には、彼女のような女性がふさわしい」
会場の空気が凍りつく。
誰もが息を呑み、誰もが思った。――言ってはいけない、と。
クラリスの家、リーデル公爵家はこの王国を支える軍家であり、王家に忠誠を誓い、何度も国難を救ってきた一族だ。
“剣を持つ令嬢”は、彼らの誇りの象徴だ。
それを“恥”と呼んだ瞬間、王家が恩義そのものを踏みにじったことになる。
「……つまり殿下は、剣を持つ女が不快だと?」
「当然だ。女は守られる存在だ。戦場に出るなど、みっともない。王妃がそんな真似をしては、この国の笑いものになる」
言葉の端々に、嘲りが滲んでいた。
エドモンドは悪意を持って言っているわけではない
――それが、余計にたちが悪かった。
彼はただ、思ったことをそのまま口にする。
それを率直さと信じて疑わない。
だが、王太子の一言は、国の方針にすらなり得る。
軽口では済まないのだ。
クラリスは小さく瞬きをして、息を吸った。
返す言葉を選びかけて、ふと気づく。
――彼女の背後で、わずかに衣擦れの音がした。
振り向かずともわかる。父が、一歩だけ動いたのだ。
「……下品、とな」
低く響く声が、場を切り裂いた。
誰もがその一言に反応したわけではない。
だが、空気が確かに変わった。
王都の貴族たちは皆、戦場を知らない。
それでも――“気配”というものだけは、本能で察するのだ。
エドモンドは苦笑を浮かべる。
まるで場を和ませるように、軽い口調で言った。
「……ああ、そんな顔をなさらずに。誤解ですよ。少し言い方が悪かっただけです」
その言葉は、謝罪というより軽口だった。
むしろ“こんなことで怒るな”という感じの。
リーデル公爵は何も答えない。
ただ、無言で殿下を見据えていた。
その視線に耐えかねて、エドモンドがまた口を開く。
「いや、私はね、女は家を守るものだと思っている。だから剣を振るうなど、どうにも馴染めなくてね」
「つまり――理解する気がないということですな」
「そう構えないでくださいよ。私は正直なだけだ。誰もが思っていて言えないことを、口にしたまでです」
その“正直”という言葉が、場をさらに冷やした。それは率直ではなく、無遠慮の言い訳だ。
「なるほど」
リーデル公爵が静かに言った。
「殿下は正直なお方だ。思ったことをそのまま言葉にされる――それはよろしい。では、私も正直に申し上げよう」
公爵はゆっくりと歩み出た。
会場の視線が彼の背に吸い寄せられる。
王家の紋章が刻まれた胸章が、燭光を受けてかすかに光った。
「三年前、北方戦線における救援作戦――ご記憶にございますかな?」
唐突な問いに、エドモンドは一瞬だけ眉を上げた。
「……ああ、覚えているとも。貴殿もあの時、功績を上げたと聞く」
「光栄です」
公爵は軽くうなずいた。
「ですが、私の話は私のことではございません。その戦で、物資の輸送路を維持した部隊がございました。氷雪に閉ざされた山岳を越え、三十日間、補給を絶やさずに――」
「ふむ」
エドモンドは退屈そうにうなずく。
「英雄譚は結構だが、それが今、何の――」
「――その指揮を執ったのが、私の娘です」
その一言が、爆ぜた。
会場の空気が変わった。
誰かが小さく息をのむ音が、はっきりと聞こえる。
クラリスは俯きもせず、ただ静かに立っていた。
「十五歳の少女が、王都と前線を繋ぎ、飢えた兵に糧を届けた。
その功績を、陛下自らお認めになり――」
公爵はゆっくりと、懐から一つの物を取り出した。
金糸で王家の紋を縫い込んだ、小さな青のリボン。
その中央には、光を反射する銀の剣章が輝いていた。
「――王家の印を、この娘に授けられたのです」
ざわめきが、波のように広がった。
それは驚きと、そして畏れの入り混じった音だった。
王家の剣章――それは、国の英雄にのみ授与される勲章。
王族ですら軽々しく触れぬものを、彼女は確かに持っていた。
「まさか……!」
エドモンドの顔色が変わる。
「そんなはずは――陛下が、女に――」
「ええ、陛下が、です」
公爵の声が、割り込んだ。
「殿下は“剣を持つ女”を恥と仰せになった。ではこの印を、陛下の愚行とでも仰るおつもりか?」
エドモンドの唇が震えた。
言葉が出ない。
何かを言えば、自らの立場を傷つける。
黙れば、非を認めることになる。
静寂な空気が、彼の首を絞めた。
「どうされました、殿下」
クラリスが一歩、前に出る。その声は涼やかで、澄みきっていた。
「“誰もが思っていることを口にした”のではなく、“貴方だけが考えの浅いことを口にした”だけです」
「なっ……」
「お忘れですか? この国を支えるのは、男だけではありません。女であれ子であれ、命を懸けた者に、陛下は報いを与えられる。その叡慮を笑うのなら――殿下、貴方こそ王家の恥です」
公爵が娘の横顔を見た。
かつて戦場で敵を屠ったときでさえ、これほど見事な一撃を見たことはない。
王太子は、剣ではなく言葉で討たれたのだ。
そして――
「……おやめなさい、エドモンド」
王妃の声が、会場の奥から響いた。
誰もが振り返り、床に膝をつく。
白銀のドレスをまとった王妃が、ゆるやかに歩み出ていた。
「言葉の一つ一つが、王家の重みを汚すことを、まだわからないのですか」
「母上、私はただ――」
「黙りなさい」
その一言で、エドモンドは凍りついた。
王妃はクラリスに視線を向け、深く一礼した。
「リーデル嬢。王家を代表して謝罪いたします。あなたとそのご家族の名誉を、決して損なわせはいたしません」
「王妃殿下、過分なお言葉を賜り、恐悦至極にございます。娘のしたことは、ただ父として誇らしく思うのみ。この国に仕える剣の家として、今後も恥じぬよう努めましょう」
クラリスは微笑み、父の腕にそっと手を添えた。
「参りましょう、父上」
リーデル公爵が無言で頷き、二人はゆっくりと背を向ける。
その後ろ姿を、誰も止める者はいなかった。
扉が開き、冷たい夜風が吹き込む。
王妃が最後に一言だけ、冷ややかに告げた。
「――“剣を持つ女”を恥と呼んだ王太子がいたと、陛下に伝えましょう」
扉が閉まる音が、裁きの鐘のように響いた。
エドモンドは蒼白のまま、何も言えずに立ち尽くす。
その夜を境に、殿下の姿を社交の場で見る者はいなくなった。