第4話 五百年の目覚め
プシュゥゥゥ……。
耳障りな排気音が、凍てついた静寂を破った。カイルとミリィが固唾を飲んで見守る中、少女を五百年もの間閉じ込めていたガラスのカプセルが、ゆっくりとその扉を開き始める。
隙間から噴き出した純白の冷気が、滝のように床へと流れ落ち、足元を瞬く間に白く染め上げていく。それは、遥か過去からの息吹そのもののようだった。
「う……」
完全に開いたカプセルの奥から、か細い声が漏れた。
銀髪の少女が、おぼつかない足取りで一歩、現代の世界へと踏み出す。だが、長すぎた眠りは彼女の体力を根こそぎ奪っていたらしい。ふらり、と覚束なく傾いだ体を、カイルは咄嗟に駆け寄り、その肩を抱きかかえるようにして支えた。
「おい、大丈夫か!?」
「ご、ご主人様! いきなり抱きつくなんて、ハレンチですぅ!」
「ちがうわ! 倒れそうだったんだよ!」
ミリィの的外れな非難を背中で受けながら、カイルはその体の軽さと、氷のような冷たさに驚いていた。毛布越しに伝わる体温は、生きている人間のものとは思えないほど低い。
腕の中で、少女がゆっくりと顔を上げた。澄み切った青い瞳が、不安げにカイルを見つめている。先ほどまで使っていたディスプレイではなく、彼女は自身の唇で、途切れ途切れに言葉を紡ごうとした。
「……あ……りが、とう……ございます……」
「喋れるのか」
「……はい。少し、だけ……まだ、うまく……」
掠れた、囁くような声だった。だが、それは確かに彼女自身の声だった。
少女はカイルの腕からそっと離れると、改めて二人に向き直り、スカートの裾を僅かにつまんで、ぎこちなくお辞儀をした。
「私の、名前は……エリア、と申します」
エリア。その響きは、この凍てついた空間に不思議と馴染んでいた。
「俺はカイル・アーヴィンだ。こっちはミリィ」
「ミリィ・フィセルですぅ! ご主人様専属の、天才メカニックなんですぅ!」
ミリィが胸を張って自己紹介すると、エリアはふわりと、氷が解けるように微笑んだ。
その時、カイルの懐で再び通信機が鳴った。慌ててスイッチを入れると、先ほどとは打って変わって、どこか拍子抜けしたようなミリィの声がスピーカーから響く。もっとも、本人はいま目の前にいるのだが。
『ご主人様! 大変ですぅ! ……じゃなくて、大変じゃなくなったですぅ!』
「どういうことだ?」
『ディープワンのコア、ぴたりと安定しました! あの少女が目覚めたのと、ほとんど同じタイミングで、まるで嵐が過ぎ去ったみたいに……。一体、何がどうなってるですぅ?』
カイルは思わずエリアに視線を向けた。彼女もまた、驚いたように少しだけ目を見開き、それから何かを納得したように小さく頷いた。
(やはり、この少女とディープワンは繋がっている……)
確信に近い予感が、胸をよぎる。
エリアはカイルの視線に気づくと、静かに口を開いた。
「詳しいことは……まだ、思い出せません。ですが、まずは行動しませんか? この都市には、眠っている人々を起こす前に、確保すべきものがあります」
「確保すべきもの?」
「はい。食べるものです」
至極真面目な顔で言われ、カイルは一瞬、言葉に詰まった。
■
エリアの案内で、カイルとミリィは『ZONE-K:冷却層』のさらに奥深くへと足を踏み入れた。先ほどまでいたカプセルの間とは異なり、通路は狭く、壁からは霜に覆われた無数のパイプが剥き出しになっている。青白い非常灯だけが、迷宮のような通路を不気味に照らし出していた。
「こっちです」
先導するエリアの足取りは、まだ少し危なっかしい。だが、記憶だけは鮮明なのか、迷う素振りは一切なかった。
カイルは周囲を警戒しながら、ミリィは物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回しながら、その後ろに続く。
「エリアさんは、どうしてここに眠っていたですぅか?」
ミリィが素朴な疑問を口にした。エリアは少し考えるように視線をさまよわせてから、答える。
「……戦争が、あったのです。とても、大きな。私たちは、未来に希望を託して、ここで眠りにつくことを選びました」
「戦争……」
その言葉に、カイルはつい先ほどまで自分がいた戦場を思い出し、苦い表情を浮かべた。五百年の時を経ても、人間がやっていることは何も変わっていないらしい。
「着きました。ここです」
やがて三人がたどり着いたのは、ひときわ大きな扉の前だった。扉の上部には、旧文明時代の文字でプレートが掲げられている。
『SECTOR-F: COLD STORAGE -FOOD-』
「冷却食料庫……か」
エリアが壁のパネルに触れると、重々しい音を立てて分厚い扉が横にスライドしていく。開いた瞬間に、カプセルの時とは比べ物にならないほどの強烈な冷気が、ごう、と音を立てて通路に溢れ出した。
「うわっ、さむっ!」
「ひゃあ!?」
カイルとミリィが思わず身をすくめる。
扉の向こうに広がっていたのは、巨大な倉庫だった。体育館ほどもありそうなだだっ広い空間に、天井まで届きそうなほどの金属製の棚がずらりと並び、そこには無数のコンテナが整然と収められている。
カイルが知るどの食料庫よりも、巨大で、そして完璧な保存状態だった。
「す……すごい量ですぅ……!」
「ああ……これだけの量があれば、当分食うに困らねえな」
カイルは感心しながら棚に近づき、コンテナの一つに貼られたラベルを読んだ。
「『高熱量圧縮レーション・ビーフシチュー風味』……レーションか。俺たちが食ってるのと同じだな」
「非常食、ですから。これが一番、保存に適していました」
エリアが説明する。カイルは早速、手近なコンテナを一つ、棚から引きずり出した。ずしりとした重みがある。蓋を開けると、中には銀色のレトルトパックが隙間なく詰め込まれていた。
「よし、いくつか拠点に持って帰るか。ミリィ、手伝え」
「はいですぅ!」
「私も、お手伝いします」
エリアもそう言って、別のコンテナに手をかけた。だが、よほど重いのだろう。小さな体を懸命に使ってコンテナを引こうとするが、びくともしない。それどころか、バランスを崩してよろけてしまった。
「う……」
「おっと」
カイルは持っていた箱を一度床に置くと、エリアが動かせなかったコンテナを片手でひょいと持ち上げた。
「……え?」
エリアが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でカイルを見上げる。そのあまりに素直な驚きの表情に、カイルは少し照れくさくなった。
「お前はまだ本調子じゃないんだろ。こういうのは任せとけ」
「ご主人様は、力仕事が得意なんですぅ! ミリィのホムンクルスパワーにも負けないくらい!」
なぜかミリィが得意げに胸を張る。
カイルは二つのコンテナを軽々と両脇に抱え、言った。
「ほら、戻るぞ。腹も減ったしな」
「……はい」
エリアは、自分の非力さが少し悔しいのか、唇をきゅっと結んでいた。だが、すぐにカイルを見上げると、もう一度、はにかむように微笑んだ。
「ありがとうございます、カイルさん」
その自然な笑みに、カイルは今度こそどう返していいか分からず、「……おう」と短く答えるのが精一杯だった。
■
三人は、戦利品であるレーションのコンテナを抱え、拠点のリビングエリアへと戻ってきた。そこは、居住区画の中心にある共有スペースで、簡素なキッチンとテーブル、そして使い古されたソファが置かれている。
ミリィは早速、慣れた手つきでレーションを温め始めた。旧文明の調理器具は、ミリィの手によってとっくに現代の規格に改造済みだ。すぐに、シチューのいい匂いが部屋に立ち込める。
「はい、お待たせしましたですぅ! 五百年物のビーフシチュー、一丁あがり!」
湯気の立つ皿が、テーブルに三つ並べられた。
エリアは、目の前に置かれた皿を、まるで宝物でも見るかのようにじっと見つめている。そして、おそるおそるスプーンを手に取ると、ゆっくりと一口、シチューを口に運んだ。
「……おいしい……」
その瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
五百年。それは、想像もつかないほど長い時間だ。彼女にとってこの一口は、ただの食事ではない。止まっていた時が、再び動き出した証そのものだった。
「泣くほど美味いか?」
「はい……温かい、です……」
そう言って微笑むエリアを見て、カイルもミリィも、何も言わずに自分の皿にスプーンを伸ばした。
無言のまま、三人の食事は進んでいく。奇妙な組み合わせの三人だったが、そこには不思議と、家族の食卓のような温かい空気が流れていた。
(……本当に、これからどうなるんだか)
カイルはシチューを口に運びながら、物思いにふけっていた。
一日のうちに、死線を彷徨い、謎の少女を助け、五百年前の食料を手に入れた。あまりにも、目まぐるしい。
ちらり、とエリアの横顔に視線を移す。
彼女が目覚めた途端、あれほど荒れ狂っていたディープワンのコアは、嘘のように静けさを取り戻した。まるで、永い眠りについていた主の帰還を、ずっと待ちわびていたかのように。
(一体、どういうことなんだ? このディープワンって機体は……そして、エリア……お前は、一体何者なんだ……?)
答えの出ない問いが、頭の中を巡る。
戦いはまだ終わっていない。それどころか、この少女の目覚めによって、カイルの運命は、さらに巨大で、そして抗いようのない奔流へと飲み込まれていく。
その予感だけが、確かな手触りをもって、彼の胸に重くのしかかっていた。
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