第四十二話 ライーン
ジリアーヌの馬車の中で、俺は防具を着て身支度を整えた。
ジリアーヌが最後くらいはきっちりと仕事をしたいと言って、汲んで来た水で俺の体を隅々まで洗って拭き取り、香料を振りかけて服を着させてくれた。
本当なら毎日するはずだったらしいが、俺がハッスルしすぎてジリアーヌを気絶させてしまうので出来なかったようだ。
ごめんなさいと謝りつつ、ようやくちゃんと出来たと苦笑いを浮かべた。
昨夜、神のお告げと云われる光を見た後、ジョージョと別れて馬車に戻って一眠りした。
で、今に至るわけだが、まだ夜が明けて間もない頃だ。
あと一刻ほどしたら商隊は出発するが、その前にやる事がある。先延ばしになっていたクレイゲートとの会談だ。今回、ジリアーヌはクレイゲートに呼ばれていないので同席はしない。少し残念そうにしながら、ジリアーヌが見送ってくれた。
ジリアーヌの馬車を出ると、眩しい光が目に飛び込んできた。
太陽の輝きが勢いを増しながら空を上っている。今日もほぼ快晴で雲があまり見られない。今は春から夏に向かう時期のようで、新緑が日毎に濃さを増していっている。
この土地の季節はどういう風に変化するのかは分からないが、日本と違って雨が少なく湿気も少ないようだ。夏になるとどうなるか分からないが、あの独特の体に纏わり付くような不快感が無い事を祈るばかりだ。
クレイゲートのテントを尋ねると、入り口でルイッサーが待っていた。
「よう、ディケード。ボスは今、例の積荷の様子を見てるんでな。中で待っててくれ。」
「おはよう、ルイッサー。あれは大丈夫なのか?弱っているらしいけど。」
「女神様の慈悲のお陰でかなり良くなったようだけどな。気になるか?」
「あれのために戦った訳だしな。」
「そうだな…」
ルイッサーの表情に陰ができた。
多くの部下や仲間がそうと知らずに、あれを守るために戦って死んでいった。ある意味、今回の商隊に参加した護衛たちは貧乏くじを引いたようなものだ。
まあ、そういった事態もあり得ると納得して仕事を請け負っているのだろうけどな。
テントの中に入るとクレイマートが応接用のソファに座っていた。
「やあ、おはようディケード。よく眠れたかい?」
「おはよう、クレイマート。お陰で全快近くまで回復したよ。」
挨拶を交わしながら向かい側のソファに腰掛けると、若い犬耳の女性がお茶を出してくれた。
どうやらその女性はクレイマートの奴隷のようだ。奴隷環が首に巻かれている。多分、身の回りの世話をするための専属奴隷なのだろう。お茶を淹れ終わると一礼をしてテントの奥に控えて立っている。
多分、クレイゲートにも専属の奴隷が居るのだろう。この世界ではある程度の地位が有る者は専属の奴隷を持つのが常識なのかもしれない。俺にジリアーヌを付けてくれたのも、そうした風習からだろう。
クレイマートと雑談を交わしているとクレイゲートがルイッサーと共にテントに入ってきた。
俺は立ち上がってクレイマートと共に迎える。こういった場合の礼儀は何処もあまり違いはないようだ。クレイゲートは今の俺の雇用主だからな。
クレイゲートが着席して、俺たちもソファに腰掛ける。
最初の時はクレイゲート、クレイマート、ルイッサーの三人が俺の対面に座っていたが、今はルイッサーが俺の横に腰掛けている。人間関係の変化が席の位置取りにも表れている。
それぞれの前にお茶が提供されると、クレイゲートが口火を切る。
「今回の商隊活動も後半日となった。エレベトの街に到着するまでが護衛としてのディケードの仕事となる。
この『女神ジュリ様の庭』を出発して2刻も進めばエレベトの街の防衛勢力圏内に入る。そうすれば魔物の襲撃も皆無に等しくなる。が、最後までよろしく頼む。」
「了解です。」
「で、昨日も少し触れたが特別ボーナスについてだ。金銭による支払いを考えているが、ディケードの望みを聞いてからにしようと思っている。
ディケードの活躍無しにはこの商隊の存続も危うかった。それに見合ったものは用意しようと思っている。」
単純に金銭の受け取りを考えていたが、ものと言われてもな…この世界についてまだ知らない事ばかりだし、特には思いつかないな。
「ジリアーヌなんか良いんじゃないか。」
俺が考え込んでいると、ルイッサーがニヤリと笑いながら言ってきた。
ジリアーヌは人間じゃないか。と思ったが、奴隷なのでそういうのも有りなのか?
「ふむ、ジリアーヌか…」
クレイゲートは考える素振りをする。
クレイマートが自分の意見を挟んできた。
「ジリアーヌだとさすがに足が出てしまうじゃないか。僕はディケードに片腕になって欲しいからね。特別ボーナスに支度金を足して金貨100枚を提示するけどね。」
クレイマートがニッコリと笑いかける。
おいおい、日本円で1億円だぞ!
特別ボーナスと支度金の内訳が分からないが、そこまでして俺を雇いたいのか?超VIP待遇にも程があるだろう。大企業の役員か、っつうの。
しかし、それでも足が出るって事はジリアーヌの買取価格はそんなにするのか?
奴隷の相場自体が分からないが、かつての日本の高尾太夫並だったりするのだろうか?
高尾太夫は遊郭で働く、遊女の頂点に立つ存在を指す名称だ。平たく言ってしまえば売春組織の花形でありNo.1の称号だ。江戸時代のある高尾太夫は姫路藩主に、現代の価値にして5億円前後の金額で身請けされたという。
ジリアーヌはそれに匹敵するような存在なのだろうか。
確かにジリアーヌは単なる娼婦というより、クレイゲートの裏方の仕事を請け負っている節があるしな。付加価値が高いのだろう。
まあ、なんにしても俺にはどちらも無理な話だ。
「いや、ジリアーヌには前もって訊いてみたけど断られたよ。」
「ほう…」
「そうなのか?」
俺の言葉に、クレイゲートは興味ありげに笑い、ルイッサーは意外だという感じで驚いた。
クレイマートはホッとした感じで頷いている。
「やっぱりディケードは我が商会に入って、僕の相棒になるべきだよ。僕はこれから商隊の規模を大きくして、この国全土に渡って商いを広げるつもりだからね。
ディケードが居れば、魔物の襲撃からの脅威度が圧倒的に低くなるからね。
お願いするよディケード。君には是非とも僕の許で、その剛腕を振るって欲しい。」
クレイマートが瞳を煌めかせて俺を誘う。
若者特有の野望に満ちた真っ直ぐな眼差しが俺には眩しく映る。それは俺が若い時に持ち得なかったもので、正直とても羨ましいと思う。俺にもそんな野望があれば、もっと世の中を楽しんで生きて来れただろう。
しかし、今俺はようやく自分の望みを持つ事が出来た。俺もクレイマートのように自分の望みに向かって突き進みたいと思える目的が出来たのだ。
「すまないクレイマート。君の誘いはとてもありがたいが、俺にもやりたい事が出来た。今はそれに向かって進もうと思っているんだ。」
「そ、そうなのかい…それは今やらないといけない事なのかい?」
断られるとは思っていなかったのか、クレイマートは大きく落胆しながら確認を取る。
「頼むよディケード。僕には君が必要なんだ。」
「ごめん、今はせっかく出来た夢を諦めたくないんだ。」
諦めきれないクレイマートは尚も誘いを掛けようとするが、クレイゲートが肩に手を置いて引き止める。
「クレイマート、少し落ち着け。そう一方的に願いを押し付けても通るものじゃない。」
「父さん。」
「お前にはお前の望みが有るように、ディケードにも自分の望みがある。今は望むべき方向が別々かもしれんが、いずれ同じ方向を向く時が来るかもしれない。
お前たちはまだ若い。人が望む方向は時によって変わるものだ。縁を繋ぐ努力を怠らなければ為すべき時が見えてくる。その機を逃さないようにする事だ。」
お茶を口に含んで間を取ると、クレイマートは父親の言葉の意味を咀嚼している。クレイマートにとって、クレイゲートは尊敬する父であり師なのだろう。それはあの戦いの最中の態度を見ても明らかだ。
二人の関係は理想的な親子関係にも見えて、子供が出来なかった俺には羨ましくもある。
クレイマートが一つ息を吐き出した。
「僕はディケードに頼ろうとしていたのかもしれない。君の並外れた身体能力は圧倒的で、それをバックに持てば何でも出来るような気がしていた。
でも、今の自分を振り返った時に、僕はディケードを使い熟すだけの能力が有るのかは疑問だ。」
心の内で自問に対する答えを見つけたようで、クレイマートの瞳に新たな力が宿る。
「ディケード。僕はもっと自分を高めて、先ずは商隊を一人で纏め上げて切り盛り出来るようにしてみせる。それから国中への販路を拓くとするよ。
その時にもし僕に賛同してくれるなら、その時は力を貸して欲しい。」
「分かったよクレイマート。俺はやりたい事は見つかったけど、それがいつまでも続くとは思えないしね。その時が来て縁があったら協力させて欲しい。」
俺はクレイマートと力強くこの世界の握手を交わした。
クレイマートは何処までも真っ直ぐに自分の野望に向かって突き進もうとする。猪突猛進、その恐れを知らない若者故の言動は、見ていて気持ち良さを感じさせる。無駄に年を取ってしまった俺だが、応援したいと思う気持ちが湧き上がってくるのも確かだ。
クレイゲートが優しく俺たちを見つめている。それは明らかに父親の顔だった。
ルイッサーは「青春だね〜」と呟いている。
クレイゲートは経営者の顔に戻って話を引き継ぐ。
「話は纏まったようだな。ディケードへの特別ボーナスは金銭での支払いという形で良いかな。」
「ええ、他に思い当たるものも無いのでそうして貰いたい。」
結局、商隊の全滅の危機を救ったという事で、4千万ヤン、金貨40枚を支払う証文を貰った。
飛竜を倒した時の倍の金額だが、それが高いのか安いのかは判断がつかない。他の護衛たちが貰っていた報奨金よりも二桁多いので、破格なのは確かだ。
飛竜を売った代金等を合わせると1億円を超えてしまったが、僅か数日でそんなに稼げるなんて異常にしか思えない。まるで実感が無いし、今後まともな金銭感覚を持てるのか不安になる。
クレイマートやルイッサーたちの反応を見る限り驚いた様子も無いので、そう凄い事でも無いのかなと思ってしまう。
多分、〈超越者〉とはそういった存在なのだろう。
日本に居た時も、プロ野球選手やサッカー選手がメジャーリーグに行くのに移籍金が数十億円とかの話もニュース等で見聞きしたし、経済誌には大企業のCEOの年収が数十億円とか載ってるしな。そういった世界なのだろう。
そんなものは完全に別の世界の出来事だと思っていたので、ある意味そっちの方が俺には異世界だと思えるよな。
クレイマートが尋ねる。
「ディケードのやりたい事って、やっぱり〈冒険者〉なのかい?」
「そうだな。《半神や英雄》たちが作り上げたと云われる魔法が栄えた文明、その痕跡が残っているなら是非見てみたいじゃないか。」
「確かに実際に見られるなら見てみたいよね。《魔法杖》や《魔法函》等、小さな《聖遺物》ならいろいろと出回っているけど、遺跡となるとそう見られるものじゃ無いからね。僕達だと《天柱》や《女神様の庭》くらいだからね。」
「噂だと、異世界に繋がっている入口なんかも有るらしいぞ。」
ルイッサーも話しに加わってくる。やはり男ならこういった話は好きだよな。
多分、ルイッサーが言ってるのはダンジョンの入口の事だろう。
「ディケードは記憶を失っているようだけど、多分他の国で〈冒険者〉をしていたんだと思うよ。この国でも直ぐに請負人から〈冒険者〉になれるよ。」
「そうだな。実力だけなら今でも上級クラスに相当するか凌いでいるみたいだしな。」
自分でも忘れかけていた記憶喪失の設定が出てきて少し焦る。そう言えば、身元を隠すためにそんな話にしたんだったな。
クレイゲートの様子を窺うと、何事も無かったようにじっと俺を見つめている。もうそんな些細な事はどうでもいいんだろうな。
「ディケードが〈冒険者〉を目指すなら紹介状を書いておこう。」
クレイゲートがそう言って俺の後ろ盾になると、当初の約束を履行してくれる事になった。
本来なら、〈冒険者〉になるためには請負人ギルドで初級クラスの見習いから初めて中級クラスとなり、上級クラスへと上がる必要があるようだ。が、クレイゲート商会の紹介状があれば中級クラスの黒鉄ランクから始められるらしい。
これは非常にありがたい申し出だ。
しかし、そういった融通を利かせられるとは、クレイゲートは業界内では確固たる地位を確立しているのだな。
まあ、当然のように見返りとして、入手したアーキテクチャ類の売却はクレイゲート商会を通すように言われた。さすがに抜かりはないな。
クレイマートとルイッサーが応援してくれる。
「ディケードなら直ぐに実績を積んで上級クラスの魔鉄ランクになれるよ。」
「そうだな。実力的には何の問題もないが、実績を示さないとギルドも上に上げてくれないからな。」
「ああ、地道にやっていくさ。」
これで一つの懸案は片付いたが、もう一つの懸案に関しては具体的な話は見えて来ない。
死ぬ間際に盗賊の親玉が残した言葉、『メルゥディレン家』『ローリエンティ』についてだが、クレイゲートにも心当たりは無いという。
『メルゥディレン家』に関しては貴族の家名と思われるが、この国には該当する貴族は存在しないだろうとの事だ。
ただ、古の貴族という言い方から、過去に追放されたか滅亡した貴族の可能性があるという。
俺の腕輪に刻まれた模様を見て、メルゥディレン家の紋章と言っていたが、多分、幾何学模様の中心に描かれた3つの絡み合った龍の文様を指しているのだろう。
この腕輪はいまだにどうやっても外す事が出来ないでいる。
元のディケードの記憶によると、この腕輪は本来ゲームプレイヤーが身に着けるマルチデバイスだ。
主にゲームに関する情報を引き出したり、パーティメンバーとのコミュニケーションに使ったり、あらゆるアイテムの操作を行ったりするための物だ。
で、この3つの龍が絡み合っている文様は、ゲームに於いてクリアしたダンジョンの数を表していて、プレイヤーのステータスになっていたものだ。
この腕輪が過去からの物なら、本来の持ち主はかなりの強者だったようだ。
まあ、それはともかく、今の世界ではこの《神鉄の腕輪》は王から貴族家当主に盟約の証として贈られる宝具となっているようなので、該当する貴族が居ないという事は、単純に昔の《聖遺物》が落ちていただけなのかもしれない。
もっとも、クレイゲートが真相を隠している可能性もあるけどな。
あの積荷の飛竜の雛だが、ある大物貴族からの依頼という事だ。それを奪いに来た盗賊はその大物貴族に敵対する者の指示で動いていたと思われる。
あの時の感じからして、『ローリエンティ』というのは盗賊の頭に命令を出した者かそれに近い者を指しているように思う。もしかしたら、あの凄い作戦を指示した者かもしれない。
こちらもクレイゲートは知らないと言うが、大物貴族同士の政争が絡んでいるとしたら、迂闊な事は言えないだろうしな。
クレイゲートの表情からは何も汲み取れないが、俺に直接被害が及ばない限りは問題は無いだろう。
不味いのはこの腕輪が人目に触れる事だが、普段はカバーを掛けて腕の防具で覆って隠しておけば大丈夫だろう。
結局、この件に関しては何も分からなかったが、記憶の片隅にでも留めておく事にしよう。
☆ ☆ ☆
クレイゲートのテントを出た俺は、朝食を取るために娼館馬車が並ぶブースへと戻った。思ったよりも話が長引いたので、太陽が大分高くなっていた。
ブースではテーブルに料理を並べてジリアーヌが待っていてくれた。
珍しい事にライーンがいて朝食を取っていた。何時もなら三人の少女たちはこの時間は寝ているはずだが、ライーンからは普段とは違う雰囲気が漂っている。
ジリアーヌに勧められて席に付き、俺は食事を始めた。
ジリアーヌは何かと甲斐甲斐しく世話をしてくれる。いかにもゲストを饗している体で、親しみを感じさせながらもホステスの役目をキッチリと果たそうとしているように感じる。
ジリアーヌなりのケジメなのだろう。一線を引かれているようで哀しくもある。
俺もそんなジリアーヌの態度に合わせるように接する。昨夜の行為でお互いの想いは通じ合った。それで十分だろう。
バーバダーは俺たちの雰囲気を察したのか、少し距離を取って達観している。
一方、ライーンは食事をしながら時折俺たちの様子を伺っている。
明らかに俺たちの様子を気にしているようだが、何も言わずにじっとしている。ジリアーヌもバーバダーもそれに関しては何も言わない。俺が来る前に三人で何かしらのやり取りがあったのだろうか?俺には窺い知る事の出来ないムードが漂っていた。
食事を終えると片付けが始まった。最後の行程に向けての準備だ。エレベトの街に到着するまでスローペースで進むが休憩は無い。
寝ているカルシーやシーミルはそのまま運ばれる。途中目を覚ましたら馬車内で食事をして身嗜みを整えるのだろう。
ジリアーヌは自分で御者をするようで、その準備をしている。
俺はそんなジリアーヌの仕事ぶりを目に焼き付けるようにじっと見ていた。
正直、未練が無いと言えば嘘になる。それほどまでに心惹かれた女性はジリアーヌが初めてだ。
俺の視線を感じるのか、時折ジリアーヌは俺を見ては微笑んでくれる。そこに未練は感じられない。覚悟を決めた女性は強いなとつくづく思う。
女神ジュリに挨拶をして、商隊は出発した。
俺は中央の見張り台に立って辺りを警戒する。怪我人は大分癒えたが、人手不足は変わらないので昨日とほぼ同じ布陣で商隊は進む。
《女神ジュリの庭》から草原は続いているが、たまに小さな森があったり起伏の大きな丘があったりして、それなりに変化のある道が続いている。なんとなくだが、南フランスの片田舎を思わせるような景色だ。
暫く進むと、一箇所だけ幅が20m程の浅い川に阻まれて、道が途切れている箇所があったが、ゆっくり進む事でクリア出来た。このディビージョ川は大雨が降ると暫く通行止めを食らうようで、下手をすると一週間近くも足止めを食らう時があるという。
橋を架けても直ぐに流されてしまうので、そのまま進んで渡河するのが当たり前になったようだ。
このディビージョ川を超えると、いよいよエレベトの街に近づいたと実感するらしい。
確かに目の前には《天柱》が大きく見えていて、その巨大さをいやが上にも実感する。実際にこれを見てしまうと、人間が作った物だとは到底信じられない。神が作ったと言われても納得するしかないスケールの建造物だ。
ふと近くで動くものの気配を感じ取った。
俺は戦闘態勢を取って身構える。伝令役にその旨を伝えようとした時、後方から俺のいる馬車に向かって走ってくるライーンの姿が目に入った。
馬車は比較的ゆっくり進んでいるが、それでも時速10km近くは出ている。スカートの裾を持ち上げて懸命に走るが中々追いつけないでいる。
なんとか俺のいる馬車に追いつくと、よじ登って来ようとする。俺は慌ててライーンを抱き上げて馬車の見張り台に乗せる。まさか俺のいる馬車を目指しているとは思わなかった。
「はぁはぁ…あ、ありがとう…はぁはぁ…ございます…ディケード様…はぁ…」
「おいおい、どうしたんだこんな所に、なにか急用か?」
俺の質問に対して首を横に振るライーン。話をしようとするが荒い呼吸で声が出ない。俺が謝りつつ飲みかけの水を渡すと、気にする素振りも見せずにゴクゴクと飲み干した。
息が整うと、ライーンが俺の隣に立って話し始めた。
「すみません、お仕事中なのに押しかけてしまって。」
「まあそうだが、必要な事だったんだろう。」
「はい、わたしにとっては…」
どうやら俺にだけ話したい事があるのだろう。今朝、様子が変だったのもそのためなのか。
ライーンは暫く俯いて躊躇いを見せたが、意を決したように顔を上げて俺の目を見つめた。
「あの、ディケード様はジリアーヌ姉さまを身請けされるのですか?」
「ん?あ、いや、残念ながらその話はジリアーヌ本人に断られたよ。」
「やっぱりそうだったんですね。あ、あの、それでは、わたしを身請けしていただけませんか!」
「えっ⁉」
さすがに、これには驚いてしまった。
まさかライーンがそんな事を考えていたとは思いもしなかった。
「わ、わたし、ケモ耳も尻尾もありませんけど、絶対にディケード様のお役に立ってみせます。毎日一晩中責められても耐えてみせます。ジリアーヌ姉さまの苦手な料理だって得意です。お願いします、どうかわたしをお側に置いて下さい!」
涙を流しながら懇願するライーン。それは魂の叫びそのものだった。
その強烈な訴えは俺の心を掻き乱す。あまりにも想定外の展開に、俺は少しの間思考停止状態となった。
ライーンは真っ直ぐに俺を見つめて答えを待っている。
「すまないが、あまりにも突然の事でよく事態が飲み込めないんだ。どういった訳で、それを望むのかな?」
「す、すみません。いきなりそんな事を言われても困ってしまいますよね…」
まあ、なんとなく想像はつくが、少し会話をして情報を整理してみるか。ライーンの心の内にある想いや願いがどういったものか知る必要があるからな。
ライーンはある商家で生まれ育ったが、商売に失敗したために借金の肩代わりの一部として売られた。普通なら奴隷商を通して売買されるが、知り合いだったクレイゲートが高値で買い取った。
ライーンとしては早く借金を返済して、娼婦から足を洗って奴隷から開放されたいが、一向にその目処が立たず、先が見えない事に絶望感を抱いているという訳だ。
ちなみに、ライーンを身請けするには2億5千万ヤン、金貨250枚が最低でも必要となる。借金の返済だけでも金貨200枚が必要との事だ。
さすがにこれでは絶望感を抱くのも無理はないだろう。
奴隷の娼婦は実質的な実入りが1年間で金貨1枚相当だが、借金の返済は売上の5割が割り当てられるので、金貨10枚相当が返済額となる。それだと借金の返済だけでも20年はかかる計算だ。
今20歳のライーンが借金を返済し終えた時には40歳になっている。
40歳の女性が奴隷から開放されたとして、何が出来るというのか。しかも、それはそこそこに人気があって売れている場合だ。当然年を取れば人気が落ちて客も寄り付かなくなる。実質的に返済し終えるのは不可能だ。
その実例がバーバダーだ。50歳を超えて独身のまま奴隷を続けている。ライーンには、それが未来の自分に重なって恐怖なのだろう。
ライーンはケモ耳人ではなく普通の人間だ。この世界ではケモ耳と尻尾を持つ女の方が男には人気があるので、客の受けは良くない。残酷な現実だが、それが実際のところだ。本人もそれは自覚している。
そんな訳で、実入りの良い俺に縋るように飛びついて来たのだろう。
同じように抱かれるなら、不特定多数のオッサンどもより見た目若い俺の方がマシだろうしな。
「ごめんなさい。本当は奴隷の身のわたしからこんな話を持ちかけるなんていけない事ですけど、ディケード様なら解ってくれるんじゃないかと思って…」
「………」
子犬のように縋る瞳で見つめるライーンに、俺は言葉に窮してしまう。
やれやれ、バーバダーの危惧していた事が現実になってしまった。ジリアーヌではなくライーンの方に表れてしまったようだが。
俺がいろいろと甘やかしたり融通を利かせたせいで、気を持たせて夢を見させてしまったんだな。
「すまないライーン。君を身請けする事は出来ない。」
「!」
ライーンの瞳に絶望の色が広がる。
「どうしてもダメですか!何でも、何でもしますから、お願いしますっ!!」
床に額を擦り付けて、土下座に似た形で懇願する。
ある意味人生の全てを掛けた思いの込もった懇願は鬼気迫っていた。
思わず圧倒されて受け入れてしまいそうになるが、心を鬼にしてグッと堪える。
「すまない…」
「う、ううぅ…ぐうぅ…くぅ…わーーーーーーっ!!!」
ライーンが大声を上げて泣き出してしまった。
その号泣はリュジニィを思い出させ、俺の胸を強烈に締め付けて心を抉った。
女性の涙は男に罪悪感をもたらすが、号泣までされると自分の存在そのものを消し去りたい衝動にかられてしまう。それほどに女性に泣かれるのは辛い。
俺の妻だった女も離婚が決定した時に号泣した。その時に初めてなりふり構わず泣き崩れる女の姿を見て心が痛んだが、ある意味それは自業自得だろうという思いもあって、まだ平静で居られた。
しかし、今回は俺の言動に端を発している部分もあり、申し訳なさでいっぱいだ。ライーンは床に突っ伏して泣き崩れているが、断りを入れた俺が慰める訳にもいかず、薄情なようだがそのまま見ているしか無かった。
別にライーンの事は嫌いではないし、どちらかというと好意的に思っている。ジリアーヌが気絶した後に、俺の有り余った精力を受け止めて貰えた事もあり感謝もしている。人間とかケモ耳人とか関係なしに、女性としての魅力も感じているし、その境遇にも同情している。
それでも、身請けとなると全く話が変わってくる。
金額の事は抜きにしても、身請けとはその言葉通りにその女性の身体も人生も貰い受ける事であり、責任を持つという事だ。そのためには、それに見合うだけの思いが必要だ。残念ながら、そこまでの思いはライーンに対して持ち得ない。
ライーンもまた、俺に対してある程度の好意は感じているかもしれないが、深い愛情を持っている訳ではないだろう。
そういった者同士が身を寄せ合っても、何れ破綻するのは見えている。それは妻だった女との関係と同じで、俺は身をもって経験している。
特にライーンの場合は、カルシーやシーミルに真面目っ子と言われるように生真面目すぎるのだ。物事を素直に受け止めて、考え過ぎて自責の念に駆られる傾向がある。言葉は悪いがメンヘラ気質の重たい女と思わせる部分がある。
現に今こうして思い込みで行動しているし、俺の所にお願いに来た時も「絶対にディケード様のお役に立ってみせます。毎日一晩中責められても耐えてみせます。」って言っていたしな。
心意気と覚悟は買うけど、耐えてみせますは無いよなぁ。俺はあくまで二人で楽しみたいと思ってHしてるのであって、責めて悦んでいる訳じゃないからな。
まあ、相手側からしたらそう受け取れるのかもしれない…けどさ。
その点、ジリアーヌはちゃんと一緒に楽しもうとしてたよな。ただ、途中で体力が尽きて気を失っていたけど。
う~ん、やっぱり責めている…のか?
なんにせよ、ライーンが俺に身請けされても、その責任感から何でも言う事を聞くだけのイエスマシーンになって、ストレスを溜めて自滅するだけの未来しか見えないな。そんなのお互いに不幸なだけだろう。
突然、前方の見張りから警告が響き渡る。
「ビュフルーだーーー!ビュフルーの群れが来るぞーーーーっ!!」
「しまった!」
前方を見ると、商隊が通過している道の脇にある沼からビュフルーの群れが出てきて襲い掛かろうとしていた。ビュフルーはぱっと見、形は水牛そっくりで大きな三日月型の角を持ち芦毛に覆われた体をしている。
これは明らかに俺の失態だ。
遠方の魔物の気配を探るのが俺の役目なのに、ライーンに気を取られて索敵を怠ってしまった。
ビュフルーの群れが商隊の目前に迫っていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
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