次姉、助けられる。
突然の婚約から一時間後。わたしはバレンシア侯爵邸にいた。
しかも、何故かバレンシア侯爵令息──……ラウルに抱き締められている。
急遽バレンシア侯爵家に身を寄せることになったため、部屋を用意してくれているらしく、準備が整うまで応接室で待つこととなった。
……それは別に構わないのだけれど……。
「あの、なんでわたしは抱き締められてるの……?」
気恥ずかしさを感じながら問えば、ラウルが答える。
「俺がそうしたいからに決まってるだろ」
「俺様かっ!」
思わずツッコミを入れてしまう。
先日、夜中に突然現れたラウルから、これまでの話は聞いた。
そして『婚約する』とも言われた。
だけど、まさか婚約届を書いてすぐに侯爵邸に行くことになるとは思ってもみなかった。
伯爵家よりも華やかで、でも品の良い調度品の数々が少し落ち着かない。
……時間が巻き戻る前のわたし、本当にこの人と婚約しようとしてたの?
とてもじゃないが平凡なわたしが関わるような相手ではないだろう。
それなのにラウルはこうしてわたしにべったりで、だからこそ、どうすればいいのか分からなくて混乱する。
わたしを抱き締めるラウルの腕にギュッと力がこもる。
「もう少しだけ実感させてくれ。……時間が巻き戻った時、婚約直前で繋がりが断たれたんだ。俺がどんな気持ちだったか考えてみろ」
耳元で囁かれ、くすぐったくてつい首を竦めてしまう。
「どんなって……」
言われて、想像してみる。
好きな相手がいて、その相手と婚約する予定だとしよう。
多分、その時はすごく嬉しくて幸せな気分だと思う。
それが時間を巻き戻す魔法でなかったことにされ、しかも相手は自分を覚えていない。
「……とてもつらい、ですね……?」
「そうだろう」
ギュッと抱き着いてくるラウルの表情は見えない。
ただ、小さく安堵の息を吐いたことだけは感じ取れた。
……誰かに、こんなに好きになってもらえるなんて初めてだ。
先ほどまではまだ出会ってそれほど経っていないのにこんな触れ合いをするなんてと考えていたけれど、抱き着いてくるというより、縋りついていると言ったほうが正しいのかもしれない。
大切な人との時間も、繋がりも、関係も失って。
それでもわたしを想って、助けようとしてくれている。
そう思うと温かな気持ちが胸の内に広がった。
手を上げ、そっとラウルの頭に触れ、優しく撫でる。
「……覚えてなくてごめんね」
こんなに好きだと伝えてくれているのに、この人との時間はわたしの中にはなくて。
それがとても申し訳なく思う。
同時に少しだけ、時間が巻き戻る前のわたしが羨ましかった。
この人と関係を深めていった時間は、今のわたしにはもう得られない。
……きっと、とても楽しい時間だったんだろうなあ。
そうでなければわたしが婚約を受け入れるはずがない。
「……多分、時間が巻き戻る前のわたしは、あなたが好きだったんだと思う」
「今はどうなんだ?」
訊き返されて、一瞬、言葉に詰まった。
「……嫌いではない、かも」
何故かラウルがプッと噴き出し、声を上げて笑い出した。
けれども馬鹿にするような笑いではなく、愉快そうな優しい笑いだった。
「そうか」
笑いが収まったラウルがすり、とわたしに頬を寄せてくる。
まるで大きな猫みたいなその仕草に少しだけ可愛いと感じてしまう。
それから、またギュッと抱き締められた。
「以前のお前も、同じこと言ってたぞ」
「え? そ、そうなんだ……」
「お前、結構素直になれない質だよな」
そう言われ、なんでそうなるのかと疑問になり、そして気付く。
わたしは『以前のわたしはラウルが好きだったと思う』と言った。
そして、以前のわたしと同じく『嫌いではない』と言った。
それはつまり、今のわたしも以前のわたしと同じ気持ちを抱く可能性が高いということで……。
顔に熱が集まるのを感じて両手で覆う。
「だ、だって、わたしはわたしだし……! 同じわたしだから仕方ないでしょ……!?」
自分でもなんで言い訳めいたことを言っているのか分からないが、すごく気恥ずかしい。
「ああ、そうだな、お前はお前だ。つまり、前のお前も今のお前も俺を好きってことだ」
「すっごい超理論……!」
でも、心臓がドキドキと早鐘を打つその意味を想像すると否定は出来ない気がする。
両手で顔を覆っていると何やら足音が聞こえてくる。
そして、部屋の扉が叩かれた。
ラウルが「どうぞ」と言ったので、わたしは「え?」とつい顔を上げてしまった。
開いた扉の向こうには金髪に紫の目をした、美しい女性が立っていた。
わたしとラウルを女性がまじまじと見て──……
……って、抱き着かれたままだった!!
「ラ、ラウル、ちょっと離れて……!」
「断る」
「即答!?」
どんなに強くラウルの胸を押しても、全くラウルは離れない。
……魔法士って体も鍛えるものなの!?
むしろ、抱き寄せられている腕に力が入り、より密着する。
あわあわしているわたしと楽しそうな様子のラウルに、女性が小さく笑った。
「まあ! ラウルちゃんったらもう婚約者を溺愛しているのね。本当、お義父様そっくり」
女性が扉を閉めて中に入って来ると、向かいのソファーに優雅に腰掛けた。
それから、女性がニコリと微笑む。
「初めまして、わたくしはラウルちゃんの母です。ラウルちゃんがいきなり連れて来てしまったそうで、ごめんなさいね。……この子、一度やると決めたら意志を曲げない子で……」
女性……いや、バレンシア侯爵夫人が困ったように頬に手を当て、途中から苦笑する。
「もしどうしても帰りたいなら、わたくしが協力するわ」
「母上、余計なことはしないでください」
即座にラウルが不満そうな声で返す。
……お母様やお姉様と離れるのは寂しいけど……。
でも、ここ最近はお母様とお姉様とは離れて過ごしていたから、これはその延長線と思えば耐えられる。それにお母様は禁術を使ったことで重罪人として捕まるのだろう。
今帰ったとしても、今後、伯爵家にわたしの居場所はない。
「……いいえ、大丈夫です。ラウル……様が、わたしを思ってしてくれたことですので」
瞬間、キュッと鼻先をラウルに摘まれる。
「『ラウル』だろ」
「う……ラ、ラウル、分かったら離して……!」
すぐに手を離したラウルが拗ねたように顔を背けた。
それにバレンシア侯爵夫人が「あらあら、まあまあ」と目を輝かせた。
スッと立ち上がったバレンシア侯爵夫人がわたしの横に移動し、座ると、手を取られる。
「ラウルちゃんの片想いかと思っていたけれど、そうじゃないのね? ああ、良かった。あなた、確か、お名前はアナスタシアちゃんだったかしら?」
「は、はい、そうです……」
「わたくし、ずっと娘が欲しかったの! それなのに息子達はなかなか結婚してくれなくて……是非、仲良くしてちょうだいね?」
ニコニコ笑顔のバレンシア侯爵夫人がギュッとわたしの手を握る。
「あ、改めまして、フォートレイル伯爵家の次女、アナスタシア・フォートレイルです。その、よろしくお願いします……」
「これからよろしくね、アナスタシアちゃん」
ラウルがわたしを抱き締めたまま笑う。
「アナスタシア、可愛いでしょう?」
「ええ、とっても!」
「笑うともっと可愛いですよ」
「まあ、そうなの? いえ、そうよね。こんな可愛い子だもの!」
わたしの話題で楽しそうに話すラウルと侯爵夫人に挟まれるという訳の分からない状態は、侯爵家のメイドが部屋が用意出来たと声をかけに来るまで続いたのだった。
ちなみにわたしに当てがわれた部屋は二階で、客室がある階らしい。
ラウルや侯爵家の皆様の部屋は三階なのだとか。婚約するとは言え、婚前に何かあっては問題なので、きちんと部屋は離して用意してくれたそうだ。
……ラウル様なら魔法で夜中にひっそり来そうだけど。
それについては知られるとまずい気がして、黙っておくことにした。
* * * * *
シンディー・フォートレイルは簡素なベッドの上で膝を抱えて座り込んでいた。
気温が高い時季なので寒くはないけれど、この地下室に閉じ込められてから一度も外に出ていない。
空気も澱んでいるこの薄暗い地下室で頼れるのは、高い位置にある細く狭い小窓から差し込む微かな光だけだ。昼間はそれで何とか室内が見える程度には明るくなる。
だが、夜は真っ暗でほとんど物の形は分からなくなる。
昼間にメイドが置いていった日に一度の食事と一日分のたっぷりの水。
食事も簡素なもので、空腹を感じても少しずつ水を飲んで騙し騙し過ごすしかない。
放り込まれる前に手直しをしたのか、簡易のトイレも室内にある。
三日に一度、着替えと体を拭くくらいはさせてもらえるけれど、手伝ってくれるメイドはお義母様の命令を聞いて動いているだけらしく、手付きが乱暴で、一言も言葉を発さない。
まるで、牢屋のような部屋に、罪人のように閉じ込められている。
ひとりぼっちには慣れていても、物理的に孤独になるとより寂しさを感じた。
「……アナスタシア、お姉様……」
ここに閉じ込められる前、アナスタシアお姉様はわたしに謝ってくれた。
もう虐げないと、今までごめんなさいと、頭を下げてくれた。
すぐには許せないと思ったし、また虐められるのではとも疑った。
アナスタシアお姉様は「許さなくていい」と言った。
……私の気持ちが分かっているみたいだった。
そうしてアナスタシアお姉様は、お義母様とドーリスお姉様に「虐めをやめるよう説得する」とも言っていて──……でも、私はそんなことはありえないと思った。
お義母様もドーリスお姉様も、アナスタシアお姉様も、私のことが大嫌いだから。
前妻の子である私が鬱陶しいのだろう。
お父様がいた時は優しかったお義母様達は、お父様が領地に行った途端に態度が変わった。
だから、アナスタシアお姉様の態度が変わったとしても、多分一時的なもので、すぐにお義母様とドーリスお姉様に感化されてアナスタシアお姉様はわたしをまた虐めると予想していた。
その後、突然私はこの地下室に放り込まれた。
やっぱり、と思った。
だけど扉の外にいる、お義母様が雇った強面の男の人達の話を盗み聞いて知った。
アナスタシアお姉様は、お義母様とドーリスお姉様に「シンディーを虐めるのをやめて」と言ってくれたらしい。お義母様達はそれに耳を傾けることはなかったそうだ。
それでアナスタシアお姉様も屋敷の離れた場所に閉じ込められているのだとか。
お義母様は私とアナスタシアお姉様が会えないようにした。
……アナスタシアお姉様……。
お義母様は実子であるドーリスお姉様とアナスタシアお姉様には優しいのに、アナスタシアお姉様を閉じ込めるということは、相当怒っているのだろう。
……少しでも疑ってしまったのが恥ずかしい……。
アナスタシアお姉様は私をからかっているだけで、謝罪は嘘で、信じた私をお義母様達と一緒に嘲笑っているのではと思ってしまった。
きっと、アナスタシアお姉様は本当に後悔して、反省して、謝ってくれたのだ。
お義母様達を説得しようとした結果、アナスタシアお姉様は閉じ込められた。
でも、扉の外の男の人達が話していた。
アナスタシアお姉様はどこかの侯爵家の方と婚約して、昨日、屋敷から連れ出されたと。
侯爵家の方がアナスタシアお姉様に惚れて何度も婚約の打診をかけてきて、お義母様は渋々婚約を受け入れたらしく、昨日も今日もすごく機嫌が悪いらしい。
「……良かった……」
侯爵家なら、お義母様は手出し出来ないはずだ。
でも、どうしてかすごく不安で、心細く感じる。
お義母様達に虐められるようになってからはずっと一人だったのに、アナスタシアお姉様がこの屋敷からいなくなったと聞いて怖くなった。
もうこの屋敷には私の味方は誰もいない。
お義母様達の虐めが酷くなったとしても止めてくれる人はいないだろう。
アナスタシアお姉様が安全な場所に行ったことは嬉しいのに、怖くてたまらない。
もしかしたら、お義母様の命令で扉の外にいる男の人達が暴力を振るってくるかもしれない。
そうでなくても私はこのままここで段々と衰弱して死んでしまうかもしれない。
……最後にもう一度、お父様と会いたかった……。
お父様がこの状況を知ったら、絶対にお義母様達を許さないだろう。
けれども、お父様は領地にいて、なかなか戻って来られない。
多分、お義母様は私を一生この地下室に閉じ込めるつもりだ。
膝を抱え、感じる恐怖や寂しさ、不安を堪えていると、扉のほうが騒がしく感じた。
思わず顔を上げ、耳を傾ければ、確かに外が騒がしい。
誰かの言い争う声が僅かに聞こえてくる。
そうして、ドンッ、と扉が強く叩かれた。
「シンディー、そこにいるの!?」
扉の向こうから、アナスタシアお姉様の声がする。
ベッドから立ち上がると、扉の鍵がガチャリと開く音がした。
すぐに扉が開かれて鮮やかな赤色が飛び込んでくる。
「シンディー!」
「っ、アナスタシアお姉様……!!」
ベッドから立ち上がり、素足で床に飛び降りた。
私よりもいくらか背の高いアナスタシアお姉様の両腕が背中に回る。
「ああ、無事で良かった……!!」
震える声がして、ギュッと強く抱き締められた。
カツ、コツ、と足音がして顔を上げればアナスタシアお姉様が振り返る。
「はは… …これじゃあ格好つかないな……」
髪の色も服装も違うけれど、そこにいる人物の顔には見覚えがあった。
「ウィル……?」
街でよく一緒に遊んでいた商家の子息……ウィルが苦笑しながら立っていた。
* * * * *