魔法使い、巻き戻る。
* * * * *
「っ!?」
ラウルは飛び起き、辺りを見回した。
そこは侯爵邸の自室にあるカウチソファーの上だった。
一瞬、頭が混乱する。
つい先ほどまで、ラウルは白銀の塔の己の部屋で仕事をしていた。
部屋に泊まるつもりだったので深夜まで残ったのだが、瞬きの間に視界が変わった。
テーブルの上に置かれたベルを鳴らせば、見慣れた侍従が入室する。
「今日は何月何日だ?」
ラウルの問いに不思議そうな顔をしながらも侍従が答える。
それはラウルの記憶から一月ほど前の日付だった。
まるで、これまでのことは夢だとでもいうかのようにソファーから起きたラウルだったが、記憶にはアナスタシアやその義妹のこと、フォートレイル伯爵家のことなどが鮮明に残っている。
それらは関係者でなければ知り得ることのないものばかりだ。
この日付では、ラウルはまだアナスタシアと会っていない。
だが、頭にある記憶は確かにラウル自身のもので、夢ではない。
ラウルは立ち上がれば、侍従が身支度を手伝うために近づいてくる。
……銀月の塔なら確認出来るはずだ……!
急いで身支度を整えたラウルは、朝食も摂らずに馬車に乗って王城へ向かったのだった。
* * * * *
ラウルが王城敷地内にある銀月の塔に入れば、一階ホールに魔法士達が集まっていた。
玄関から入ったラウルにティエンが気付き、振り返る。
「ラウル様!」
「ティエン、お前、アナスタシアを知ってるか?」
ラウルの唐突な問いにティエンが頷き返す。
「ええ、存じ上げております。フォートレイル伯爵家の次女で、ラウル様の婚約者となられるはずだったご令嬢ですね」
やはりあれは夢ではなく現実だった。
「何が起こった? ……いや、もしかして『時戻り』か?」
「その可能性は高いかと。宮廷魔法士の何名かは記憶を有しています。恐らく、魔力量が多く、抵抗力の強い者は記憶を保持したまま体の時間だけ巻き戻されたのだと推定します」
時間を巻き戻す魔法はどの国でも、時代でも、禁術とされてきた。
それは本来の世界の在り方を捻じ曲げ、そのせいで過去には世界の魔力の流れが崩れて大災害を引き起こした事例もあった。
何より『時戻り』の魔法はあまりに影響力の強い魔法故に、代償も大きい。
この『時戻り』の魔法の行使には生物の命を代償とする。
魔力だけでは足りず、命を魔力に変換して消費しなければ使えない。
たとえ代償に人間一人の命を使ったとしても、巻き戻せる時間はそれほど長くないと聞く。
一月も時間を巻き戻すには一体どれほどの人間の命を使うのか。
だからこそ『時戻り』は禁術とされている。
それを誰かが使用したという事実に魔法士達が騒めいた。
「ウィルに報告してくる」
「かしこまりました」
ラウルは魔法士達をティエンに任せ、塔を出た。
王城に行く道すがら、魔法で伝言用の鳥をウィリアムに飛ばす。
魔法の鳥は素早く空を飛び、一足先にウィリアムのところへ向かって消える。
ラウルも後を追うように王城内に入り、複雑な道を進んで王族の過ごす区画に足を踏み入れた。
先に送った鳥のおかげかラウルが区画に立ち入っても騎士達は止めなかった。
途中、騎士の一人から「応接室でお待ちくださいとのことです」と声をかけられ、応接室に案内された。
まだ始業前なのでウィリアムも身支度を整え終えていないのだろう。
応接室で待っている間、ラウルは色々と考えた。
頭に浮かぶのはアナスタシアのことだった。
今のアナスタシアはラウルを知らない。
恐らく、このまま時間が進めばまたアナスタシアと会えるだろうが、そのアナスタシアにはこの一月分の記憶はないだろう。普通の人間は巻き戻った時間分の記憶を失っているはずだ。
せっかくアナスタシアが婚約を受け入れたというのにその事実が消えてしまった。
しかも今のアナスタシアはラウルのことを知らない。
それが一番、ラウルにとって不愉快であった。
部屋の扉が叩かれ、立ち上がれば、ウィリアムが入ってくる。
「こんな朝早くから至急の用件なんて、どうかしたのか?」
どうやらウィリアムは記憶がないらしい。
王族もそれなりに魔力があり、魔法を使えるが、抵抗出来なかったようだ。
「国内か、国外かはまだ不明だが、誰かが『時戻り』の魔法を使用した」
「何だって? あの禁術が……」
「俺だけでなく、銀月の塔の魔法士の数名は記憶がある。恐らく一月ほど巻き戻っている。他の塔からも報告が上がるだろうが、早急に調査したほうがいい」
どのような魔法が禁忌なのか知っておく必要があるため、王族も禁術を学ぶ。
ウィリアムも『時戻り』の代償が何か分かっている。
「急ぎ、陛下に報告すべきだ」
「ああ、そうだな。僕から父上に伝えよう。確か銀月の塔に探知魔法に長けた魔法士がいたな? ラウルは塔に戻り、急ぎ、どこで魔法が行使されたか調べてほしい」
「分かった。星雲の塔から何名か魔法士を借りたい」
「話をつけておこう」
そうして、ラウルとウィリアムは同時に動き出した。
応接室を出たラウルはその足ですぐさま銀月の塔に戻った。
……クソッ、全部やり直しかよ。
アナスタシアの涙も、笑顔も、恥ずかしそうな顔も。
短い期間ではあったが、築いた信頼関係も過ごした時間も、全てが無に帰した。
塔に着くと先を予想していたのか、ティエンが魔法士達をまとめ、指示を出していた。
こちらに気付いたティエンが歩み寄ってくる。
「ラウル様、大規模探知魔法の準備を行っております。ただ、銀月の塔の魔法士全ての魔力を注いでも我が国と周辺国までしか範囲は広げられないかと……」
「それで十分だ。国内で使用されたかどうか調べるのを優先しろ。薄くすると引っかかりにくくなる。あと、ウィルの許可が出た。星雲の塔から魔力の多い奴を連れて来れるぞ」
「かしこまりました」
ティエンが近くを通りかかった魔法士の一人に、星雲の塔に行って魔法士を連れて来るよう命じ、ティエン自身は塔の中で最も広い一階のこのホールの床全面を使って探知魔法の式を描く。
探知魔法は魔法士にとっては初歩に習うものだ。
だが、初歩で習うからといって簡単というわけではない。
探知魔法は己の魔力を拡散させ、それを感じ取ることで周囲の状態を把握する。
魔力が少ないと狭い範囲しか広げられない上に、魔力量が多い魔法士が力任せに探知魔法を使うと拡散させた魔力を他の魔法士や動物が感じ取り、探知魔法の行使に気付かれてしまう。
拡散した魔力を辿り、逆に己の居場所を突き止められる可能性もある魔法だ。
周囲の様子を探れるが、扱いの難しい魔法。それが探知魔法だ。
けれども、ティエンはその探知魔法の扱いが非常に優れている。
魔法式が描き上がるのとほぼ同時に、星雲の塔に出向いていた魔法士が、あちらの塔の魔法士達を連れて戻って来た。感じる魔力の気配の少なさから、魔力操作に優れた者達を選んで来たのが分かる。
それにティエンも気付いたらしく、魔法士に声をかけた。
「素晴らしい人選、さすがですね」
若い魔法士がそれに照れた様子で頭を掻いた。
ティエンは微笑み、そしてこちらに振り向く。
「ラウル様、準備が整いました」
「やるぞ」
「はい」
魔法式の中にラウルとティエンを含む銀月の塔の魔法士と星雲の塔から来た魔法士が入る。
広範囲のせいか、ティエンが探知魔法にしては随分と長い詠唱を行う。
そうしてまずはティエンが最初に魔法式に魔力を注ぎ、魔法式に流れるティエンの魔力を辿るように全員で魔力を注ぎ込む。魔力量が多すぎると探知魔法を操るティエンの体に負担がかかってしまう。
全員が神経を研ぎ澄ませてティエンの魔力の動きを感じ取った。
ティエンを中心に膨大な魔力が集まり、毛糸玉のように固まった魔力をティエンが魔力操作によって目の細かな網のように編み上げていく。しかも使われている魔力量は自然にある魔力に等しいほど少なく、だが、網に穴が空くほど薄くはない絶妙な濃度だった。
自然界にある程度の魔力量ならば他の魔法士や動物には気付かれにくい。
その緻密な魔力操作に他の魔法士達が感心している気配があった。
ラウルですら、それほど繊細に魔力操作は扱えない。
時間をかけ、大量の魔力が一枚の大きな網のように織り上げられた。
そして、その網がぶわりと広範囲に一気に広がる。
網にはラウルの魔力も混じっているため、己の魔力の広がりが伝わってくる。
塔から王城の敷地、王都、外壁の向こうに広がる平原に森、村、街、山……。
目を閉じるとどこまでも広がっていく景色が浮かぶ。
同時に全員がそれを感じ取った。
王都の一角、貴族の屋敷が連なる貴族街に建つ屋敷。
そこには巨大な魔法を使用した残滓があり、その屋敷を中心に広範囲に魔力の乱れがある。この探知魔法は『時戻り』の魔法を対象にしており、これに引っかかるのは魔法が使用された場所だけだ。
ラウルはハッと思わず目を開けた。
瞼の裏に映ったのはフォートレイル伯爵家だった。
国全体に広がった魔力の網がゆっくりと溶けて消えていく。
大勢で行ったため、一人一人の魔力量の消費はそれほど多くはなかった。
魔法式の光が収まり、ティエンが立ち上がる。
「フォートレイル伯爵家でしたね」
「……ああ」
ラウルは拳を握り締めた。
「ウィルに報告してくる。ティエン、お前は片付けを頼む」
「かしこまりました」
そうしてラウルは急いで塔を出て、王城に向かった。
ラウルの中に最初に感じたのは強い怒りだった。
その怒りを感じてか、使用人や通りかかった文官などが避けていく。
ウィリアムの執務室に行けば、そのまま中に通された。
「何か分かったか?」
ウィリアムの問いにラウルは吐き捨てた。
「『時戻り』を使ったのはフォートレイル伯爵家だ」
「……冗談だろう?」
「残念だが、真実だ。恐らく伯爵家を中心に魔法が行使され、魔法士だけでなく、伯爵家の使用人や周辺の貴族、その使用人といった者達の命が代償に使われたんだろうよ。……広範囲に魔法の残滓が残っていた」
それを聞いたウィリアムが額に手を当てた。
フォートレイル伯爵家にはウィリアムが想いを寄せる令嬢がいて、アナスタシアもいる。
このままでは禁術を使った家の者として処罰の対象となってしまう。
婚約どころの話ではない。
禁術を使用した場合はどのような理由であれ、極刑だ。
頭を抱えるウィリアムの気持ちはラウルもよく分かる。
アナスタシアも、その義妹も、関わっていなくとも処刑される。
「ウィル」
名前を呼べば、ウィリアムが顔を上げた。
「陛下にこれまでの経緯を説明する。……時間が巻き戻る前、俺はフォートレイル伯爵家の次女と婚約を結ぶ予定だった」
「どういうことだ?」
「話せば長くなるが──……」
時間がないのである程度は省略しつつ、アナスタシアとシンディー・フォートレイル、フォートレイル伯爵家との出来事について説明した。
ウィリアムは最初、次女のアナスタシアが改心したと聞いても疑念に満ちた表情をしていたが、シンディー・フォートレイルとウィリアムを引き合わせたことなどを話していくうちに、納得した表情に変わった。
話が終わる頃にはウィリアムは全てを理解したようだった。
「それを父上と兄上にもう一度、説明出来るか?」
「やるしかねぇだろ」
即答すれば、ウィリアムが小さく苦笑した。
「ああ、やるしかない」
国王に『時戻り』の魔法がどこで使用されたか報告しなければいけない。
そして、シンディー・フォートレイルとアナスタシアの助命を嘆願する必要がある。
……今のアナスタシアに記憶はねぇだろうが。
それでもラウルはアナスタシアを失いたくないと思った。
ウィリアムも同じ心境だろう。
「ラウル」
立ち上がったウィリアムに名前を呼ばれる。
顔を上げれば、拳が差し出された。
「絶対に二人を助けるぞ」
その言葉にラウルも立ち上がり、ウィリアムの拳に自分の拳を軽く押し当てた。
「ああ、婚約する前に婚約者を失うなんてごめんだからな」
「ははっ、なんかそれ、矛盾してるな」
まだ婚約していないのに『婚約者』と呼んだことがおかしかったのだろう。
一度手に入れかけたものが掌から一瞬でこぼれ落ちた時の、言葉では言い表せない感情がまだ胸の中で渦巻いている。今だけは記憶のないウィリアムが少し羨ましかった。
……絶対、手放すものか。
アナスタシアを婚約者にすると決めた。
それを覆すつもりはないし、アナスタシアが忘れていたとしても構わない。
忘れてしまっても、必ずアナスタシアを婚約者にする。
歩き出したウィリアムの背を追ってラウルも足を踏み出す。
……俺はお前が好きなんだ。
* * * * *