次姉、婚約する。
混乱したままのわたしを置いて、ラウル様との婚約はトントン拍子に進んでいった。
第二王子が「私が証人になろう」などと言い出して余計に断れなくなる。
……いや、元々断れないけども!
家格が上の侯爵家からの打診を理由もなしに断るのは難しい。
しかも王族が勧める婚約を断るなんて無理だった。
すぐに用意された婚約届にラウル様が署名し、わたしにも署名を求められ、拒否しようとすると「今すぐ連れ去って屋敷に閉じ込めてもいいんだぞ?」と半ば脅されて署名してしまった。
第二王子が良い笑顔で「あとは両家当主の署名だな」と言った。
シンディーはキラキラした目でこちらを見ていて、何か勘違いしている気配を感じる。
「今日は疲れただろうから、ゆっくり休むといい」
と第二王子は言って、婚約届を片手にラウル様と共に部屋を出て行った。
二人が出て行き、わたしはぐったりとソファーに寄りかかる。
「……嵐が去っていった……」
わたしの呟きにシンディーが小さく笑った。
「アナスタシアお姉様が修道院に行かなくて良かったです」
「……わたしが近くにいて、シンディーはつらくない?」
「つらくありません。むしろ、これからもアナスタシアお姉様と仲良くしたいです」
シンディーの言葉に、わたしは立ち上がってシンディーの横に移動し、抱き着いた。
「ありがとう、シンディー」
こんなに良い子をずっと虐めていたなんて、わたしは本当に最低な人間だ。
……それにしても、本当にわたし、ラウル様と婚約しちゃうのかなあ。
* * * * *
「よぉ」
そうしてその日の夜、当たり前のようにラウル様が来た。
シンディーは隣室を与えられていて、そちらに戻っているので部屋にはわたししかいない。
……というか、何で来たの?
「婚約者相手にそんな顔するなよ。さすがの俺でも傷付くぞ」
「まだ婚約届は受理されていないと思うけど。……じゃなくて、何か用?」
入って来た窓を後ろ手に閉めたラウル様が、ソファーにいたわたしの横に座る。
入浴後なので解いたままの髪に伸びて来た手が触れて、癖っ毛を楽しむように指先に絡めた。
「昼間は無理に推し進めたから、一応ご機嫌伺いにな」
「ゴリ押しした自覚はあるんだね……」
「ああでもしないと修道院に行っただろ?」
「気に入ったって言っても、どうしてそこまでするの?」
気に入った相手を助けるにしても、他に方法があるだろう。
わざわざ婚約なんてする必要はないはずだ。
……貴族の婚約は簡単には解消出来ないのに。
「お前、実は結構鈍いんだな」
指先に絡めたわたしの髪にラウル様が口付けた。
「俺はお前が好きだって言ってんだよ」
ジッと灰色の瞳が見つめてくる。
「す……、ええっ!?」
「婚約の申し込みをされた時点で気付けよ、鈍感」
……ラウル様がわたしを好き!?
「だから、俺はお前を修道院には行かせない」
異性から告白されるのなんて初めてで、心臓がドキドキと高鳴る。
前世では恋愛に興味がなかったからこんな経験は初めてだった。
気恥ずかしくて顔が熱くなる。
俯きかけたわたしの頬に触れたラウル様の手によって顔を上げさせられる。
「なんだ、そういう表情も出来るのか」
口角を引き上げて笑うラウル様にわたしは目を瞬かせた。
「そういう表情……?」
ラウル様の手が離れたので、両手で頬に触れる。
今、自分がどんな表情をしているのか分からない。
「それで、返事は?」
と言われてギョッとする。
「へ、返事ってすぐしないといけないの……?」
「俺は気が長いほうじゃない」
「ああ……」
納得していると頬をむにっと軽く抓られる。
「返事は『私もです』以外、認めないけどな」
「それ返事の意味ある!?」
わたしのツッコミにラウル様が不満そうな顔をした。
抓っていたわたしの頬から手を離し、頬杖をつきながらラウル様はわたしを見た。
「俺のことが好きだって、お前の口から聞きたいんだよ」
それくらい察しろ、と呟いたラウル様が視線を逸らす。
不満そうに見えるその仕草が照れ隠しだと、それだけは分かった。
分かって──……わたしの体温が一気に上がった。
ラウル様はこれまで何度も『嘘は吐かない』と言っていた。
だから、きっと、多分……今までの言葉に嘘はなく、ラウル様は本気でわたしを気に入って、わたしを好きだと言ってくれているのだろう。
「い、嫌ではないと……思います……」
顔から火が出るのではと思うほど、気恥ずかしい。
何が恥ずかしいのか訊かれると分からないが、とにかく恥ずかしかった。
「その、わたし、恋愛したことなくて……だから、好きとかまだ分からなくて……!」
「……その歳で?」
「だって貴族は親が決めた相手との政略結婚が一般的だし……!」
「まあ、そうだな」
ラウル様が納得した様子で頷き、わたしを見る。
「それなら、まだ知り合いの俺と婚約したほうが人となりが分かってていいだろ?」
「確かに」
見知らぬ相手と政略結婚をするより、ラウル様と婚約したほうがいいというのは頷ける。
……別にラウル様のことは嫌いじゃないし。
このままわたしが伯爵家にいられるとは思えない。
伯爵はきっとお母様と離婚するだろうし、そうなればお母様の実家の男爵家に帰るしかないが、男爵家がわたしを受け入れてくれるかどうか。もし帰れたとしても居場所はないだろう。
それならラウル様と婚約して侯爵家に身を寄せるのがわたしの生き残れる道だ。
「……本当にわたしでいいの?」
侯爵家で、宮廷魔法士で、こんなに見目も良い人が、平凡なわたしと婚約するなんて。
「お前でじゃない、お前がいいんだ」
ジッと見つめられ、真剣な眼差しにやはり顔が熱くなる。
「……まだ、好きとか分からないけど、ラウル様と婚約します」
「ああ、今はまだそれでいい」
ラウル様の手がわたしの頬に触れる。
「これからは俺のことは『ラウル』って呼べよ」
「ラウル……様……」
「おい」
ムニィッと両手で頬を引っ張られる。
結構、容赦のない引っ張り方に慌ててその手を叩く。
「痛い痛い痛い!」
何度も叩けばようやく手が離れていったので、急いで頬をさする。
「酷くない……!?」
「いいから呼べよ」
「全然良くない! ……っ!?」
グイと引き寄せられ、互いの顔が近くなる。
そうして、耳元でラウル様が言う。
「アナスタシア、良い子だから俺の名前を呼べ」
低い声で囁かれ、ぞくりと背筋を何かが駆け上がる。
思わずビクリと震えてしまった。
「ちょ、く、くすぐったいから……!」
「呼んでくれないなんてつれないな」
「ひぁっ!?」
フッと耳元でラウル様の笑う吐息がして、それが耳に当たってくすぐったい。
体温がぐわっと上がり、ドキドキと心臓が早鐘を打つ。
「っ、分かったから、やめっ……ラウル……!!」
ピタリとラウル──……いや、ラウルが動きを止めた。
「ああ、今後はそう呼べよ」
そう言って笑ったラウルはとても機嫌が良さそうだった。
わたしは何故かすごく気恥ずかしくて、しばらく顔が熱くなっていた。
* * * * *
浮遊魔法で王城のバルコニーから抜け出したラウルは機嫌が良かった。
赤い顔で恥ずかしそうにラウルの名前を呼んだ、アナスタシアを思い出す。
……なかなか可愛いところがあるな。
あの歳まで恋愛一つしたことがないと言っていたけれど、それならそれで、これからが楽しみだ。
婚約に頷いた以上、もうアナスタシアを手放すつもりはない。
魔法士は基本的に興味が湧かないと関わらない性質があり、ラウルも己はその傾向が強いと理解している。興味のないことは全くやる気が出ないし、貴族令嬢にも結婚にも関心がなかった。
両親はラウルを気にしていたけれど、次男であるラウルは急いで結婚する必要はない。
だからこそ、ラウルが『気になる相手がいる』と言えば、両親は喜んでいた。
今回の件についても説明したが、両親はアナスタシアについて特に何かを気にした様子はなく、ラウルが決めた相手ならば大丈夫だろうとあっさり婚約の許可を出した。
あとはフォートレイル伯爵の承認を得れば婚約は成る。
もちろん、アナスタシアについての調査はした。
フォートレイル伯爵家の次女、アナスタシア・フォートレイル。
現在十七歳で、再婚した伯爵夫人の連れ子。
鮮やかな赤い髪に柔らかな緑の瞳、そばかすがある顔立ちは可愛らしい。
性格はどちらかと言えば内向的。母親や姉の後ろにいつもいるような娘で、しかしわがままなところがあるらしい。前妻の子であるシンディー・フォートレイルを虐げていたのは事実だった。
……まあ、基本的には母親か姉のそばにいるだけだったようだが。
本人は暴言や暴力で虐げたと言っていたが、実際は伯爵夫人や姉にくっついて一緒になってあれこれ言っていただけのようで、アナスタシア自身は暴力を振るっておらず、シンディー・フォートレイルから物を取り上げたというのも、やったのはやはり母親と姉だった。
それについてはシンディー・フォートレイル本人からも聞いている。
何より、今は反省し、改心して妹のために動いている。
シンディー・フォートレイルもアナスタシアを許しているそうなので、アナスタシアが罪に問われるとしても、母親や姉を止めなかったことくらいだが、伯爵家の女主人である母親に次女が逆らえたかと訊かれれば難しいところである。
むしろ、よく改心して行動したと思う。
母親や姉に逆らうことで、アナスタシアまで虐げられる可能性もあった。
それでもアナスタシアは妹を助けると決めた。
その覚悟と行動力は、ラウルも素直に関心した。
地面に降り立ち、今度は歩き出す。
初めて会った時から、アナスタシアは令嬢らしくない令嬢だった。
貴族の令嬢と言えば、いつも微笑みを浮かべて淑やかにしている者ばかりだったが、アナスタシアは表情豊かで、自然体で、それでいてどこか必死さを感じさせた。
今思えば妹を助けるために必死だったのだろうが、それが少し、羨ましくもあった。
ラウルは何かに対して必死になったことがない。
わざわざ全力を出さなくても大抵のことは出来てしまうから。
そして、同時に『それを自分にも向けてほしい』と思った。
アナスタシアは愛情深い人間だろう。母親と姉、そして妹の間で苦しんでいる。
妹に向ける優しい眼差しや柔らかな声を、ラウルは欲しくなった。
笑うとより可愛らしくなるアナスタシアの笑顔を向けてほしい。
恐らく、この先の人生でこれほど関心を持てる相手は現れないだろう。
こういう時の魔法士の勘はよく当たる。
アナスタシアを逃してはならない。
心地好い夜風に吹かれ、ラウルは微笑んだ。
……今は打算でもいい。
婚約を受け入れた以上、手放すつもりはない。
「……あいつは分かってねぇだろうな」
婚約に頷くということは、ラウルの想いを受け入れるのと同義だ。
本当に嫌なら断っていたはずだ。
恐らくアナスタシアはこのまま行く当てがないことを理解した上で婚約を受け入れたのだろう。
どんな理由であっても婚約を受け入れたなら、今はそれでいい。
政略結婚も同じようなものである。これから婚約者として仲を深めていけばいい。
宮廷魔法士の職場である魔塔の一つに着き、中へ入れば、声をかけられた。
「ラウル様、ご機嫌ですね」
ラウルの部下であるティエン・バクスターがそこにいた。
淡い茶髪に同色の目をした、三十歳ほどの地味な容姿の男だった。
だが、探知魔法に関しては宮廷魔法士の中で誰よりも優れた男でもあった。
「アナスタシアが婚約を受け入れた」
「フォートレイル伯爵家の次女ですね」
ガラスの靴を確かめるためにフォートレイル伯爵家に行った時、ついて来ていたのもティエンだ。
そのまま歩くラウルの後ろにティエンが付き従う。
「ああ、俺の『お気に入り』だ」
ティエンが後ろで苦笑する気配を感じる。
「ラウル様に気に入られるなんて、フォートレイル伯爵令嬢も大変ですね」
「名誉なことだろ?」
「それは間違いではありませんが……ラウル様は捻くれておられますから、フォートレイル伯爵令嬢を困らせて楽しんでいらっしゃるのでは? あまり意地の悪いことばかりしていると逃げられますよ」
それにラウルは、ハッ、と鼻で笑う。
「俺が簡単に手放すと思うか?」
後ろで「いいえ」と返事がある。
「ラウル様ならば、わざと逃した上で地の果てまで追いかけ、相手が諦めたところを悠々と捕まえて帰ってくるでしょうね」
「それも悪くはないが、アナスタシアは行動の予想がつかないところがあるからな。しっかり囲って逃がさないようにしておかないと俺でも逃げられるかもしれない」
「そんなに面白い方ですか」
不意にラウルは立ち止まり、振り返った。
「言っとくが、たとえお前でも手を出したら容赦しない」
ティエンが降参だというふうに両手を上げた。
「さすがにそのようなことはしません。私は勝てない戦いはしない主義ですので」
「どうだかな」
そして、ラウルは自身に当てがわれている部屋の扉を魔法で開ける。
大きな書斎机の奥にある、座り心地の良い椅子に腰掛ける。
「『白銀の魔塔』の主、ラウル・バレンシアに敵う者など、この国には片手の指ほどしかいないのですから」
ティエンの言葉に、ラウルは肘置きに頬杖をついて口角を引き上げたのだった。
* * * * *