(前編)
「ご臨終です」
明け方、あの日の夢を見た。
中学二年生の夏休み。
今年も僕は家から歩いて十分の駅に向かう。いつもは使わない路線の電車に揺られ途中で乗り換えをして一時間弱。
閑散とした駅のホームに降りた途端に懐かしい香りが鼻をかすめた。
「この匂いも一年ぶりだなあ」
改札を出ると目の前には一面に緑が広がり、周りからは耳をつんざくほどの蝉の声。
ほんの少しだけ遠くに見える山と山の間には、ぽつぽつと昔ながらの家が建っている。
背がだいぶ高くなった稲と土の混じったこの香りは、ここ何年かで結構好きになってきた気がする。
駅の傍にある古びた商店の屋根の下に、僕はいつもの姿を見つけた。
その人は、立てかけられた深緑の自転車の傍らで背筋をピシッと伸ばして立っている。
そしてすぐに僕に手を振ってくれた。
「おじいちゃん」
「正くん、よく来たね。暑かっただろう」
麦わら帽子に水色のシャツを、こちらもピシッと着こなしたおじいちゃんを見るのは久しぶりだ。
帽子からのぞく変わらない穏やかな瞳。
でも目の横のシワ、この前より少し濃くなったかな。
「電車の中、クーラー効いてたから大丈夫。おじいちゃん、元気だった?」
「うん。庭の野菜の世話をしている時にちょっと腰を痛めたけど、それ以外はいつも通り元気にしてるよ」
ちらりと自転車のカゴの中を見ると、生クリームと卵のパックが一箱、ビニール袋からのぞいていた。
「あ、今回も焼いてくれるの?キッシュ」
「正くんがうちに来る時のお決まりだからね。飽きてないかい?」
「うん。うちでは食べることないし、おじいちゃんが焼くキッシュも大好き」
サクサクのパイの中に、卵とクリームのふわふわの生地。
一緒に焼き上げたお肉や野菜の凝縮したうまみとチーズの香りが口いっぱいに広がる、あのハーモニーがたまらないのだ。
「そりゃよかった。腕によりをかけて作らないとね」
ほっほっと笑って自転車のスタンドを蹴ったのを合図に、僕たちはそろって歩き始めた。
学校のことなどを話しながら、おじいちゃんの家に着くまではあっと言う間だった。
懐かしい瓦の屋根、白い壁の平屋が目に入る。
「手を洗ったらスイカを切るから、少し涼んでおきなさい」
玄関の鍵を開けた後おじいちゃんは庭裏の自転車置き場に向かい、僕は先に家に上がらせてもらう。
洗面所に向かう廊下に、大きな茶色い毛玉がべたっと床に張りついているのが目に入って思わず小さく叫んだ。
と同時に毛玉の正体に気づき胸を撫で下ろす。
「なつめ!元気だった?」
へそ天をして明るいくりくりとした目をこちらに向ける、この濃い茶色のオス猫は僕が生まれる前からこの家にいるから、もうけっこうなおじいさんねこだ。
挨拶代わりに少しでっぷりとしたお腹をそっと撫でると、小さく喉を鳴らす。
猫はお腹に触られるのを嫌がるものらしいけど、なつめは昔からここを撫でてもらうのが好きらしい。
「なつめ。もう正くんに挨拶してたんだね」
後ろを振り向くと首にかけたタオルで汗を拭くおじいちゃんが立っていた。
「山岡さんがくれたスイカ、よく冷えているよ。食べようか」
「うん」
その前に、なつめのごはんが置かれている部屋に入る。
アンティーク調のチェストの上には、いくつかの写真立てが飾られている。
僕はその中で一番大きな写真立てに目をやった。
肩までかかるグレーの巻毛。花柄のワンピースを着こなし、クリーム色の猫を抱いて穏やかな笑みを浮かべているのは、おばあちゃんだ。
猫の方はメス猫のシルク。
おばあちゃんが亡くなる一年前に大往生した。
「おばあちゃん、シルク。今年も一週間お世話になります」
部屋を後にしようとした時、写真立てのうしろに細長い青い箱が倒れているのに気がついて手に取った。
写真と一緒に壁に立てかけられていたものだろう。
何の気なしに戻して今度こそ部屋を後にする。
田んぼが一望できる畳の部屋に行って全ての窓を開け放し、座布団に腰を下ろして風鈴の音を聞く。田んぼの緑が鮮やかな絵画のようで見ていると心が安らぐ。
声を少し張れば外でも会話できるほどのご近所さん、山岡のおじちゃんがこの時期毎年くれるスイカを食べるのも、この家に来た時の醍醐味だ。
種を除きながらシャクシャクとひたすら食べていると、いつの間にか、なつめがおじいちゃんのそばに寄ってきていた。
そして僕とおじいちゃんの間に挟まれるようにして居場所を確保する。
「何年か前まではセミを取ってきたりしてたけど、最近はめっきりそんなこともしなくなったなあ」
「僕が虫取りに夢中になってた頃だっけ。なつめが僕の手のひらの長さくらいある、おっきなオニヤンマを捕まえてきてさ。おばあちゃん、めずらしく大笑いしてたよね。シルクはびっくりしてしばらく向こうの部屋にこもっちゃって」
「シルクはなつめと違って臆病な子だったからなあ。ああ、なつかしいねえ」
おじいちゃんはフォークでスイカを口に運びながら、シワの増えた手でなつめの首元を優しく撫でる。
なつめは気持ちよさそうに目を細めては、時折田んぼの上を飛び交うトンボに反応してカッと目を開いた。
二人でスイカの半玉を一気に平らげて片付けを手伝った後、おじいちゃんがキッシュに入れるトマトを庭に取りに行ったところで、僕の横で丸くなっているなつめの背を撫でる。
こまめに手入れしてもらっているのか、おじいちゃんねこにしては毛並みがいい気がする。
なつめは僕よりも、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に過ごしてきたんだよなあ。
夏とお正月の時にしか会わない僕とじゃ比べものにならないほどに。
床にうつ伏せになって顔をじっくり見ようとすると、それに気付いたのか閉じていた目を細く開けて視線を合わせてきた。
光の反射できらきらして見える黄緑の目は、ずっと見ていたくなるほどで吸い込まれそうだ。
「なつめは、不思議だよね。猫って誰かと目を合わせるのも、いろんなところを撫でられるのも、あまり好きじゃないんでしょ?」
シルクは、僕が毎年の夏にこの家に来ると怯えてすぐに別の部屋に避難するような子だった。
一週間でシルクがこちらにようやく慣れてきた頃に自分の家に帰るのを繰り返していたから、僕が写真のおばあちゃんのように彼女を抱っこできることは結局なかった。
「僕の知らないことを、きっと君はたくさん知っているんだよね」
ふいになつめが、つんと突き出た鼻の先をちょんと僕のそこに合わせてきた。
あ、鼻キスだ。と思った瞬間、ぐらりと視界が歪む。
小学生の頃、虫取りをしていた時に岩場で転んだ僕は、膝の傷口からばい菌が入って全身麻酔をして手術をしたことがある。
急激に襲ってくるあの強い眠気と同時に景色が薄れていきプツっと真っ暗になる、あの感覚に似ていた。
ぼやけた視界の中で最後に見たのは、大きく開いたなつめの目。
目を開くといつの間にか部屋は真っ暗になっていた。
あれからこんなに暗くなるまで寝てたのか。
なつめもそばにいないし、おじいちゃんも起こしにこない。
外からは、毎年この季節の夜に田んぼの中で大合唱するように鳴くカエルの声が聞こえてくる。
なんだかおかしいな、と思った。畳からは新しいものに変えたばかりのような土と草の匂いがする。
暗闇に目が慣れてきて周りを見渡すと、昼間にはなかった荷物らしきものがそこらじゅうに積まれていた。
家の中に人の気配はない。
気味が悪いと思いながら外に出てみて空を見上げると、満天の星が広がっていた。
深い紺色の空に一面に散りばめられた、小さな光の粒。
僕の家からは夜に空を見上げても、ここまで綺麗な星空は見ることができない。
感じでいた奇妙さも忘れて見入っていると、田んぼの向こうの歩道に二つの影が動いて見えた。
いつもは夜道を照らしている電灯がなぜかついていなくとも、影が持つ懐中電灯らしき物の仄暗い光でその存在が確認できる。
こんな夜に、この家に向かってくるあの人たちは誰だろう。
影が近づいてくるにつれて、二人が何かを話しているのが聞こえてきた。
若い、男女の声。
心臓の音がどきどきと大きくなってくる。
「家に入ったら、少し遅いですが夕食をとりましょう。夜風で冷えていませんか?みやこさん」
背筋のピシッとした影から、気遣うような男性の声がした。
「ええ、少し。それに今日も荷解きで疲れてしまいましたし、お昼の残りでもいただきましょう」
隣に寄り添う、頭が一つ分ほど低い影からはおっとりとした、それでいてどこか涼やかな女性の声がする。
みやこって、おばあちゃんの名前と一緒だ。
懐中電灯に照らされて二人の顔がぼんやりと分かるようになる。
そこで僕は思わず腰を抜かしそうになった。
白い半袖シャツを着た姿勢の良い男性。
裾がふくらはぎのあたりまである紺色のワンピースを着た、肩までかかる巻毛の女性。
僕の知る姿と違って皺もない、髪も二人とも黒々としているけど。
おじいちゃんとおばあちゃんだ。