5 異界のゆらぎ
白く雪を纏った樹々は重なり合って視界を塞ぎ、僅かな陽光は濃い緑の枝葉に遮られ、地面を微かに照らすのみ。
雪を被った低い山が幾重にも連なり、山脈の足元から南方へと広がる森は六百里(約1,800km)に渡り、端から吹き入った風も凍る山脈にに到達することなく途絶える。
山脈の北に横たわるのは凍る大地。
一年の三分の二は雪が降り、短い夏も氷が溶け切ることはない。
その地はかつて、不毛の凍土と呼ばれていた。
大陸北限三国の内の一つ。
ラヴィエク――氷に閉ざされた、長い冬に生きた国。生きざるを得なかった国。
凍る大地では碌な作物が育たず、一年中雪雲に覆われて陽光の恵みも薄い。
もっと豊かで温かい南へと移り住みたくとも、風の語りに聞く肥沃な大地との間に横たわる山脈と広大な森が、その望みの一切を許さなかった。
それでも北限の強国と呼ばれたラヴィエクは、およそ三百年前、突如として滅びた。
湖を挟んで七十里(約210Km)も離れた隣国グラクェニクには、ラヴィエクは一夜にして滅びたのだと、ただそうした信憑性の低い噂が伝わったのみだった。
国が滅び拠り所を失ったラヴィエクの人々は、南を目指して山脈を越え、森へ踏み入り、だがやはり長くは進めなかった。
同じ冬に閉ざされたグラクェニクへ向かった者と、どちらがましな運命を辿ったか。
ラヴィエクの悲劇は三百年間、凍る大地に封じられ、蓋をされていた。
ついこの数日前までの話だ。
低い山脈の一角で激しい破裂音が響く。
直後に、雪煙りや凍った土と共に納屋ほどもある大岩が、灰色に曇る空へと吹き飛んだ。
高く跳ね上げられた岩や土砂は周囲をより昏い灰色に染めながら落下する。
再び雪煙りが視界を覆い隠して舞い上がる。
やがて雪煙りが薄れた空間に、突如として巨大な黒い柱が聳り立っていた。
柱というより、一見しては帯か――或いは空間そのものが裂けた断層。
鈍色の空を背に、地上から上空へ、真っ直ぐに十間(約30m)を超えて伸びている。
その高さを有しながらも、土の匂いの濃い地面から生える基部は、幅一間半(約4.5m)、奥行きは無く、真横に立てば存在そのものを見失ってしまう。
黒く磨いたように艶やかな表面は、曇天の奥に遠く滲む太陽の光を微かに映している。
その周囲に音は無い。
最初の衝撃が落ち着き、遠くに鳥の鳴き声が戻った頃合いで、黒い帯の足元に影が揺れた。
黒い頭巾を目深に被り、顔は白い仮面で覆われている。
両の眼窩はくり抜かれたように黒く光を宿さず、硬い口元は表情を窺わせない。
身体をすっぽりと、裾の長い外套で包み、黒一色のそれは内側に毛皮を張った厚手の布地もあいまって、見る者にどことない重苦しさを与えた。
一人、二人、三人――
続いて現れた人影は、五十人近く。
初めの三人以外は簡素な外套を纏い、顔も上半分を隠すのみだ。だからこそ彼等が人だと分かる。
三人の前に無言で膝をつく。
三人の内、真ん中の一人が仮面の顔で断層を見上げる。
奥は見通せず――、だが、それが見た目に反して途方もない深さを有していることは知っていた。
「漸く――これで」
交わされる言葉は低く抑揚が無く、そこに感情を窺わせない。
白く吐き出された息が、彼等の重ねてきた歳月の、その一夜一夜が砂を噛み肌を凍らせるものだったことの一端を窺わせる。
画面の下で、視線が動く。
「道はいつ繋がる」
答えたのは右隣の男だ。
声は歳を重ねてしわがれている。
「ここを足掛かりにしさえすれば、十日もあれば整うかと」
長く抑えた息が、大気をいっとき白く染めた。
「もう少しだ」
あと少し、と短く重い呟きが白い息に混じる。
あと少し。
父祖が過ごして来た、かろうじて命の糸を繋ぐような三百年に比べれば、もう瞬きの間にも。
「――父祖の悲願達成を、我らの手で」
三人は背後の黒装束の人々と同様、断層へ、恭しく膝をついた。
初めに現れた一人が、低い声で何事かを呟く。それは法術の詠唱に似て長く続いた。
長い一節を唱え終えると、周囲がそれに唱和する。
三節目を唱え始めたところで三人のうち右側の一人が立ち上がった。
膝をつく一団を振り返る。
「捧げよ」
視線を受け、三人の最も近い位置にいた一人が立ち上がり、厳かな足取りで前へ五歩、進み出る。
断層の正面で再び膝をついた。
頭巾を背中へ落とし、頭を垂れる。
冷えた大気に首を晒し、頭を前に突き出して。
立ち上がっていた黒装束は、頭を垂れる男へと近寄り、腰に帯びていた剣を抜いた。
幅広の剣身が、鈍く光を弾く。
剣が肩の上に持ち上がり――落ちる。
膝をついている男の首へ。
刃は男の首を一息に断ち切った。
呻きも、悲鳴も、騒めきもない。
雪の覆う地面に、首が重く湿った音を立てて転がる。
吹き出した血飛沫が断層の表面に噴きかかり、硝子に似た表面を伝った。
首を拾い上げ、まだ血の滴るそれを倒れた身体の前に置く。
見開かれた目は断層を見つめている。
流れた血が雪と土混じりの足元を染め、断層に至ってその縁を横に伝う。
最後の五十人が唱える詠唱はずっと続いている。
雪雲の覆う空を裂いたような、異質な黒い帯。
その下で、それを取り囲むように、たった今起こったことなど知らぬ気に、唱和が低く幾重にも流れる。
法術に似て法術と異なるのは、その詠唱に応える何らかの反応が、周囲に一つも無いことだ。
ただひたすら、声が流れる。
請うように。希うように。
ただひたすら。
温度もなく音もない、断層の奥、光の届かない暗闇に。
ひと抱もある巨大な眼が一つ――
こちらを見ていた。