2 優柔不断
温かい紅茶を一口含み、花の香に似た薫りにラウルはようやく一息ついた。
結構修羅場を潜ってきたつもりだが、ここ最近の中で一番心が乱れたかもしれない。
『名前は優柔不断にしよーぜー』
うっ。
自分のことを言われているようでざっくり来た。
震える手で紅茶の杯を受け皿に戻す。陶器が触れ合い立てる繊細な音が束の間散った。
「いや、はは、もう決めてるんだ。変幻自在にするよ。ぴったりな名前だろ?」
『――』
ヴァースさん?
『――』
ヴァースさん?
『――』
「なんか言って、ヴァースさん!?」
『ま、良いんじゃねーのー。それでご主人の気持ちが癒えるならなー』
「癒えないけどね!」
机の上に横たえた剣は既に始めの片手剣に戻っている。
ラウルはあの後二度、剣を振った。
剣に起こる変化を確かめるためだ。
まず、剣の形が変化することを残念ながら改めて確認した。
次に、その変化に一定の規則があることを確認した。
「買い手がつかないことも確認した」
『まーまー』
剣の変化はこうだ。
まず本来の姿、片手剣。刃渡二尺(約60cm)弱。両刃。
これを一度振ると両手剣に変化する。すると刃渡は二尺五寸(約75cm)になり、重量も増す。両刃。
もう一度振れば、半月刀に変わる。刃渡一尺六寸(約48cm)、片刃になるが刃は剃刀のように切れ味鋭い。
最後に短剣。
刃渡は七寸(約21cm)、柄も片手用に縮む。
(ちぢ、む……?)
何の話だろう。
剣の話をしたい。
(重さは変わったように思ったけど、変わってなかった)
そこは中心の移動による感じ方の問題のようだ
ラウルは台の上で沈黙している剣を、じっと見つめた。
それから八振りの剣へがある小屋の方へと視線を移す。
「……また増えちゃった……」
これで九振り目の迷剣が誕生した。
ラウルの溜息は尽きることはない。
が、今は想像もつかないが、彼の打った迷剣達がのちに、その特異な能力を存分に発揮して活躍し、鍛治師ラウルの名をこの国の隅々にまで轟かし――たりすることも期待できなくもなくもないかもしれない。
ラウル・オーランドは鍛治師である。
鍛治は自ら選択した職業で、子供の頃から憧れていたものでもあった。
本来の――この北東辺境部の領主、オーランド子爵家の後継ぎという立場から今の生活になったが、ラウル自身は子爵という役割に戻りたいと思ったことは一度もなかった。
現子爵セルゲイ・オーランドの息子でラウルの従兄弟であるレイノルドは、ラウルに会う度に呑気だとか無責任だとかいらいらしているが。
(レイは考え込みすぎなんだよなー)
そんなに考え過ぎてたら胃に穴が開くぞー、と言って鼻先を突こうとしたら思い切り手を払われ、舌打ちをし、胃をさすりながら去っていった。
すごい目をしていた。
(胃を悪くしてるのかなぁ、心配だなぁ)
レイノルドの言い分もラウルには分かる。
だが、レイノルドも分かっているだろう、とも思う。
セルゲイ叔父の方がずっと領主として良い仕事をしているのだ。
六年前の大戦の影響、それ以前の蝗による農作物被害などの影響など、色々と重なったこの地は一時期領民達の生活も非常に苦しかったが、今はだいぶ回復してきた。
今後、近隣の主要都市イル・ノーに飛空艇の発着場が完成すれば、そこから流入する人や物も増え、それに伴うこの地の生産物の流通も増えるものと期待されている。
オーランドの領事館のあるロッソまでの飛空挺誘致はできなかったものの、物流の向上はセルゲイがこの地域発展の施策として押し進めているものだ。
母アンナはラウルがオーランド子爵家の家長として戻ることを強く望んでいるし、十六歳の弟のエーリックや十歳になる妹のアデラードの将来はしっかりと考えてやりたいが、ラウル自身は今の生活に満足していた。
鍛治師であるラウル・オーランドとして。
打った剣は売れないが。
売れない理由はご覧いただいた通りだが。
まあ持ち手を選ぶというか持ち手が選ばないというか、日がな一日お喋りしている剣を市場には連れていけないというか。
とにかくラウルは鍛治が好きで、この森が好きで、何より、数少ないながらもここを訪ねてくる人がいて、彼らとの親交に心温められることと、
それから――
『お、ご主人、オルーだぞ』
ヴァースの声とほぼ同時に、ラウルも気が付いて空を見上げた。
樹々の枝葉に見え隠れする青い空を白い軌跡が過ぎる。
「オルビーィス!」
ラウルは声を弾ませて空の白い姿に両手を広げた。
陽光を受けて輝くのは連なる白い鱗。
ゆるく前へ伸べた長い首。
広げた翼が地上に影を落とす。
まだ体長二尺(約60cm)に及ばないながらも、立派な体格の、美しい竜だ。
見るたびに成長しているように思える。
この春、ラウルが卵を拾ったすぐの時分には、まだ一尺くらいの大きさだったというのに。
「ピー!」
でもまだまだ声は甘えん坊なんだよな、とラウルはにへりと笑った。
オルビーィスが翼を畳み、両手を広げているラウル目掛け、滑空する。
喜びがその姿に滲んでいる。
一直線、ぐんぐん近付いた。
ぐんぐんぐんぐん。
ぐんぐん。
「あ、ちょ」
『おーやばいなー、突進されたら胸に穴開くぞご主人ー』
ぐんぐん。
「オルー、待っ!」
直前で、急停止。
「オルー、えら」
どずん。
「ぐェッ、ゲッ」
胸に飛び込んだオルビーィスを受け止めきれず、ラウルはかなりの勢いで背中から地面に倒れた。
両足が高く上がり、空を指して止まる。
足元が柔らかな土で良かった、と心底思った。
「ピィ!」
笛に似て鼻を鳴らし、オルビーィスは頭をぐりぐりとラウルの胸に押し当ててくる。
鱗がそれなりに痛い。
そしてだいぶ重い。
「ぐう」
胸を潰しそうにのしかかる重みに呻きつつ、ラウルは長い首を両手で撫でさすりオルビーィスの顔を持ち上げた。ちょっとそれなりに力が要る。
宝玉に似た空の色の瞳がまず、目に飛び込んだ。
その澄んだ色に、胸を押し潰す重さもどこかへ吹き飛ぶ。
「オルビーィス、久しぶり! 今日も元気だね!」
「ピィ、ピイィ!」
真っ白な鱗の一枚一枚が、艶やかに空を映している。
「五日ぶりだね、会いたかったよぉ」
「ぴい! ひゅうん、あおあ、きゅー」
『甘えた声出してーもう赤ん坊じゃないんだぞー』
そういうヴァースの声も面白がっている。
起き上がったオルビーィスの白い躯は、もうすぐラウルの胸まで届くまでになった。
「3か月前はせいぜい腰くらいまでだったのにねぇ」
それどころか、出会った時は卵だった。
しみじみと、ラウルはオルビーィスと出会ったばかりの日々を思い起こした。
きりふり山の麓、きりよせ川に浮かんでいる卵を拾ったこと。
最初は飛竜だと思っていたが、預けようと思っていたキルセン村の竜舎のボードガード親方に、竜だと知らされた。
竜を手元で育てることはできない。
オルビーィスを本来いる場所――母親の元に返すため、竜の巣のあるだろうきりふり山へと冒険の旅をした。
助けてくれたのは戦士のセレスティ・ヨハン・ヴァルシュミーデ。
魔獣狩りの英雄、グイド・グレスコー。
双子の法術士リズリーア・トルムとヴィルリーア・トルム。
何故か従兄弟のレイノルド。
ここ数年不仲だったレイノルドとはこの旅がきっかけで関係が改善された――ようなされていないような……
(でもキルセン村に行くといるし。でも文句言うし)
常に眉根に縦皺が刻まれているし。
(跡になっちゃうっていつも言ってるのになぁ)
一度皺が刻まれると消えないので注意したほうがいい。
それはともかく、あれは今振り返ればとても短い日々だったけれど、ラウルにとっては一生に一度の壮大な冒険の旅だった。
一生に一度の冒険の旅だった。
一生に一度だった。
一生に一度だ。
「もう行かない」
『何だってー?』
「何でもないよ」
もう絶対になにも無いよ。
と自分に首を振り、ラウルは転がっていた地面から身体を起こした。
オルビーィスが傍らに座り、長い尾をゆるく振っている。
「さ、オルー、お昼にしようか」
お昼、という言葉を聞き、オルビーィスはとても嬉しそうに瞳を煌めかせまた尾を振った。