4 6と1と1とマイナス1(その1)
「今日のところは休んでいってください」
昨日の夕刻にオルビーィスと白竜と別れ――ラウルは小屋を出て一行にそう声をかけながら足もとの小石に躓いた――、一晩また山中で過ごしてから下山した。
この小屋に辿り着いた時には、もう正午を過ぎていた。
実に五日ぶりに戻ってきたことになる。
「お風呂沸かして、それから早めの食事にして」
ラウルは張り出していた木の枝に額をぶつけた。
「あてっ、ゆっくり寝て身体を休めましょう」
「俺はこれで帰る。早いとこ慣れた寝床で寝たい」
グイドは既に小屋の前の小道を森へ向かおうとしている。
「そんなぁグイドさん、お礼させてください」
グイドの袖を掴む。
「あ、もちろん正式なお礼は後からきちんとお支払いしますし」
「いらん気を回すな。お前の剣が売れない限りは無理だろうからな」
「うう、保証できない」
気を取り直し、グイドの前に回る。
せめて今できるお礼をさせて欲しい。
「なら尚更、賑やかにぱぁっと、お風呂と食事だけでも」
「賑やかに風呂?」
というレイノルドの突っ込みを背景に、グイドはじっとラウルを見た。とても深い眼差しだ。
何だろう。
「グイド殿」
セレスティが目配せしている。
何だろう。
「おじさん」
リズリーアが袖を引く。
何だろう。
「仕方ねぇな」
「有難うございます」
レイまで。
何だろう。
ぱぁっとがダメだったのかな。でもしめやかにもちょっとな。
何にしろグイドが残ってくれるのは嬉しい。
「リズリーア、ヴィルリーア、君達は大丈夫?」
「当然! まずお風呂!」
「僕も……」
リズリーアが飛び跳ね、着地するまでの間に小道を低い声が地を這った。
「リィィズゥゥウーーーー」
「びゃっ」
「ヴィーィリィィイーーーー」
「きゃあっ」
振り返った先、森の入り口に一人の女性が立っている。
四十歳前後、膝下までの青灰色の外套の裾が今風を受けたように揺れている。
長い黒髪を後ろに一つ、すっきりとまとめていて、理知的な面差しはそう、リズリーアとヴィルリーアに良く似ている、ような。
水色の瞳の、眦がキリキリ吊り上がっている。
ついさっきグイドを引き止めた時にはそこにいなかった。
女性は双子目掛けて小道を歩き、両手を伸ばして二人の後ろ襟をそれぞれ掴んだ。
「あんた達ぃ……っ!!!!」
あっ。
「母さま!」
「ど、どうしてここに」
「あわわわわ」
「ボードガードさんに聞いて、心臓止まるかと思ったわよ!」
「帰るの月末じゃ」
「学会が……」
「あわわわわ」
「帰りを早めたの! 貴方達が何かやらかしてやしないかと心配だったから! そしたら案の定!」
「案の定だなんて母さまってば」
「あ、あ、あの、お母さん」
「あわわわわ」
「ん?」
三人の目がラウルへ向いた。
ラウルは右へ左へ、ずっと行ったり来たりしている。
「あわわわわ」
双子の母――グイドが名前を挙げていた法術士、クリスタリア・トルムへ、ラウルは深々と頭を下げ、二人を今回の旅へ連れて行ったことを詫びた。
「いいえ、あなた方には余計なご負担をお掛けしました」
クリスタリアは微笑み――つつ、まだ双子の首根っこを掴んでいる。
リズリーアもヴィルリーアも、特にリズリーアは親に回収されていく子猫のようだ。
「この子達には帰ってから、私と夫から、みっちりとお説教しておきます。さ、帰るわよ」
ふふふ。と。
微笑んでいるが怖い。
とてもお怒りになっている。
「あ、あの、本当に、責任は俺にありまして」
ラウルがまた頭を下げる前にリズが首根っこを掴まれたまま首をうんと伸ばした。
「違うよ! あたし達が勝手に押しかけて、無理やり着いて行ったんだもん!」
リズリーアは母の顔を見上げ、両手をお願いの形に組んだ。
「母さま、お願い。帰ったらきちんと反省して、術書の複写十巻でも二十巻でもするから。もっとって言うならもっとするから。だからあと一晩、ここにいていいでしょう?」
熱心に詰め寄る様が予想外だったのか、クリスタリアが一瞬怯んだのが面白い。
すぐに持ち直し、リズリーアの頬を両手で挟んだ。
「いい訳ないでしょーが! 貴方達ねぇっ、帰ってみたらいなくて、どれだけ心配したと思ってるの。お父さんだって、急遽王都からこっちへ向かってるわ」
「お、お母さん」
ヴィルリーアが袖を摘む。
「貴方も」
と言いかけて、クリスタリアは口を閉ざした。
ヴィルリーアはまっすぐ顔を上げている。
「ええと、お母さん。これから、お別れ会なんだ」
母の顔をじっと見上げる。
ヴィルリーアが苦手な言葉を懸命に紡いでいるのがわかる。
「皆さんに、すごく助けてもらって、僕達、それに、たくさん頑張ったし、それに、オルビーィスが帰っちゃって、ラウルさん寂しいから――」
じわぁ、と、ラウルは目頭が熱くなるのを感じた。
そんな、ヴィリ、俺なら全然大丈夫だよ。
でもその気持ちが本当に嬉しいな。
「だから、みんなで、一緒に過ごしたい、んだ」
「ヴィリ――」
クリスタリアは水色の瞳を、その間ずっと我が子に向けていた。
ほんの少し、ヴィルリーアが話していた時間よりも長く我が子を見つめ、それからにこりと微笑んだ。
「何だか、貴方もずっと成長したのね、ヴィリ――」
全員順繰りに風呂を済ませて旅で被りまくった砂埃やらを落とした。
居間はクリスタリアも加えた七人で、狭いほどに賑わっている。
ラウルが手伝いセレスティが拵えた、干し肉の香草煮込みと焼き野菜を中心に、麺麭と薄く切った乾酪、酢漬けや果実煮の瓶、葡萄酒が並ぶ。
ラウルは焼き野菜の大皿を運びながら、周りを見回した。
「――」
「ラウル?」
セレスティが両手に香草煮込みを注いだ深皿を持ち、立ち止まって左右を見ているラウルの顔を覗き込む。
「あ、いえ、何でもないですよ、何でも。すごくいい匂いです。温かいうちに食べましょう!」
さっと足を踏み出し――た爪先が床の敷物に引っかかり、ラウルは手から大皿を滑らせてしまった。
「ぅわ」
宙を舞いかけた大皿をいつの間にか立ち上がったグイドの右手が受け止め、伸ばした左手で傾いたラウルの胸を押さえる。
「す、す、すみません、グイドさん!」
「おじさんやっぱすごーい」
歓声を上げたリズリーアの頬を、クリスタリアがぷにっと摘んだ。
「リズ。グイドさんと呼びなさい。とても実力と功績のある人よ」
「それね、ほんとにスゴイんだよ母さま。ほんとに矢を三本同時に打って狙い通り当てちゃうの!」
「それは見たかったわね。でもリズ」
「はい!」
グイドさんと呼びます、とリズリーアが背筋を伸ばす。
「おっさんのままで構わん、無理してもどうせすぐ戻る」
「いいって」
「リズ」
「ラウルさん、大丈夫でしょうか……」
レイノルドはヴィルリーアを見て、
「気にしなくていいさ」
皿を取りに戻った台所の入り口へ視線を移した。