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15 霧を染める赤



「え……」


 誰もいない。

 ぐるりと見回す。

 霧が濃くまとわりついているせいか。


 足音も声も聞こえない。

 ここにいるのはラウルと、オルビーィス、ヴァースだけ。


「――グ、グイドさん! セレスティ!?」


 息を止め耳を澄ませたが答えは無い。


「リズ、ヴィリ――」


 辺りは真っ白で、いるのは自分一人。


「レイノルド! おーい! 聞こえたら返事してくれ!」


 強い風が吹いた。

 霧が重く動く。

 雷鳴が遠く鳴る。


 どこかで――、それは雷鳴よりももっと近い場所で、轟く音が聞こえた。

 雷鳴は一度だけだったが、轟く音はずっと響いている。


(何だ? 水の音――川? いや)


 滝。

 いつの間に、とまた思う。先程までセレスティ達と歩いていた時は、滝の音など聞こえていなかった。


 どこかに滝があるのなら、立ち込める霧で辺りが確認しにくい分、うっかり滝壺に足を滑らせないように気をつけなくては。


(うう、みんなどこにいるんだろう)


 フルゴルなら目印になって見つけてもらいやすい思ったが、レイノルドに貸していた。


(でも目眩しもできるし、レイが持ってるなら安心だ)


 レイノルドが使えばその光で、彼等の位置が分かるかもしれない。分かるはず。


(使ってくれるといいけど)


 自分一人がはぐれたのだろうか。もしかしてみんなばらばらに?

 探しているだろうか。


「――ええと、ゲネ」

『ご主人、前――』


 ヴァースの声は低く、囁くほどだ。

 こんな警告の仕方をする時は――


 相手を刺激したくない時。


(近いん、だ)


 ヴァースを引き抜く。

 そっと、なるべく足音を立てないように膝をやや屈め、歩く。

 肌を撫でるひんやりとした霧が不安を纏いつかせるようだ。早く合流したかった。


 ゆらりと。

 右前方に影が揺れた。

 はっと顔を向ける。


 人影。


「そこに、誰か――」


 ラウルは駆け出し


『ご主人!』


 鋭い声に、つんのめった。


「え」


 ヴァースを見て、視線を正面へ戻す。

 人影はもう、そこにいた。

 いや、それは人影と、言えるかどうか――


 顔はラウルの、三尺(約90cm)も上にあった。ラウル自身六尺(180cm)近いから、九尺はある。

 血走ったような目と、目が合った。

 一本一本が針金に似た土色の毛が全身を厚く覆っている。

 剥き出した牙が見え、次に生臭い息が鼻先へ漂った。低く湧き起こるような唸り声。


 オルビーィスがラウルの肩に伏せる。

 ラウルはオルビーィスを遠ざけようと左肩を斜めに引いた。


「く、熊――」


 それとも猿。

 どちらともつかない。


 ただ、全身に張り巡らされた筋肉は人間の鍛えられるそれを軽く凌駕し、腕の一振りで容易く骨が砕かれると、そう思った。

 唸り声。


 獲物を狙い据えられたその双眼には、ラウルが理解できる光はない。


『ご主人――腹から顎へ、おれ様を思い切り切り上げたら――』


 ヴァースが囁く。

 ラウルはヴァースの柄を両手で握り締めた。


『逃げろ!』


 ヴァースが振動する。

 指示通り振ろうとした、その時だ。


 立ちはだかっていた魔獣の頭が、消えた。


「えっ」


 ラウルはヴァースを握ったまま、二歩、後ろへよろめいた。


「何が――」


 文字通り、首から上が丸まると消えている。

 ラウルはまだヴァースを振ってもいない。


 認識は瞬きの間だった。

 頭のあった位置に、残った身体――首から、血が吹き出した。

 霧を紅く染める。


 ヴァースが大きな声で何か言っている。

 もう一つの瞬きの間に、目の前の魔獣はぐらりと倒れた。

 ラウルの方へ。


 咄嗟に避けたラウルは、そのまま足をもつれさせて尻もちをついた。

 すぐ横へ、魔獣の躯が倒れる。

 手の甲に生暖かいものが当たり、ラウルは迫り上がる声を無理矢理堪えた。


 臓物――こぼれ出た内臓だ。

 それから広がっていく血溜まり。

 魔獣は背中を背骨ごと割られていた。


「何」


 何が。


 死んだはずの魔獣の身体がずるりと動く。

 霧の奥の、何者かが魔獣の足を掴み、引き摺っているのだ。

 ヴァースが叫んでいる。


『逃げろ!』


 蛇怪の時くらい必死だ。あの時以上に。

 それはそうだ。

 たった今、ラウルなどひと撫でで殺せそうな魔獣が、それこそひと撫でで、首を失い内臓を撒き散らした。


 ならそれをしたのは、この魔獣以上のものでしかない。


『逃げろ!』

「うん、に、逃げたいよ」


 でも、腰が抜けててね? ははは


『ご主人!』


 右腕がぐんと振り上がる。肩が外れるかと思った。

 振り上がったヴァースの刃、剣の側身が硬いものを捉える。そのまま固定された。


 牙。

 ずらりと並んだ牙が、剣身をがっちりと捕らえている。

 女の顔。


 背筋が凍る。


(蛇怪――?!)


 違う。

 だが違うとわかっても安堵などある訳がなく、眼にした異容に身体は一層強張った。


 長く鱗の連なった首は同じだ。

 その先の躯は、蛇ではなく獣。

 書物で見たことのある、獅子という生き物に近い。

 胸には人に似た二対の乳房、背に分厚い翼。


 細く布を擦るような音に目を向ければ、長い尾の先端で、蛇の頭がしゅるしゅると舌を震わせているのが見えた。


「なん……」


 何だ、これは。

 ヴァースの柄を握る手が震えている。

 人面獣の顎がヴァースの剣身を捕らえているせいで、腕を突き出したまま動けない。


 そして動いたら、その瞬間に腕ごと頭を持っていかれると、そう思った。

 先ほどの魔獣のように。


 均衡を破ったのは。


 肩に伏せていたオルビーィスが、身を細かに震わせたかと思うと、飛び出した。

 ラウルの肩に爪の痕が残る。


「オル……」


 人面獣の首に唸りを上げて喰らいつく。

 それはラウルが、初めて眼にする獰猛な姿だった。


 ラウルの肩でくつろぎ、手のひらの感触に目を細める様とは全く異なる。

 怒り――


 オルビーィスの顎は人面獣の首よりもなお頼りなく、だが鱗を貫いて突き立つ。

 人面獣は咥えていたヴァースを放し、首を仰け反らせた。


「ヴァ、ヴァ、ヴァースッ、無事か!?」

『何てことねー! それより』


 オルビーィスだ。

 人面獣の太い前脚が振り上がる。振り回した長い爪が闇雲に空を割き、地面を穿った。

 女の顔が苦悶に歪んでいる。


「オルー!」


 ラウルはヴァースを構え、暴れる人面獣とオルビーィスの姿を忙しなく目で追った。

 その都度ヴァースの切先を向けるが、踏み込みどころがわからない。

 オルビーィスは我を忘れ、爪を突き立て唸り、喰らいついている。


 このままではいけないと、その考えが唐突にラウルを打った。

 駄目だ。


「オルー! 戻れ!」


 オルビーィスはぴくりと反応し――

 その瞬間、人面獣は激しく身をゆすった。


 喰らい付いていたオルビーィスの牙が外れて放り出される。

 駆け寄ろうとしたラウルの目の前で、振り下ろされた人面獣の爪が、オルビーィスの腹を、裂いた。


「オルー!!」


 全身の血が一気に下がった気がした。

 オルビーィスは弾かれ、ラウルの右斜め前へ、霧の中に消える。

 負傷の状態もわからない。


「オルー!」


 追いかけようとしたラウルの前を人面獣が塞いだ。

 咄嗟に飛び退き、ヴァースを構え、突っ込んだ。


「どけっ!」





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