10 ゆらぎ(その1)
長い尾を懸命に動かし、蛇怪は地を這い進んだ。
尾は先から三分の一ほどを断たれ、腕を五本失い、喉や胸、あちこちに受けた矢傷からも血が流れている。そして最後の風の刃が、全身に無数の傷を刻んでいた。
――逃げなくては
――遠くへ
――あの岩場には今は戻れない
――どこかに潜んで傷を癒やし
――いや、その前に、何でもいい、餌を捉えてその血肉を啜るのだ
――回復を
這い進み、周囲に獲物がいないか意識を巡らせ、視線を巡らせる。
その目が一点に止まった。
霧の奥に――血と肉の熱を感じたのだ。
土を踏む足音。
――人
渇望が膨らんだ。
血を。
痛む躯を堪え、片方残った眼にぎらつく光を宿して静かに、静かに這い寄る。獲物はただ一人、霧の立ち込める森を歩いている。仲間からはぐれ道に迷ったのか。
霧が、薄くなり始めた。
風が吹いている。
やがて蛇怪は、霧の中に一つの姿を捉えた。
やはり人だ。
人間の、女――
美味そうな。
吊り上がりかけた口の端が、どうした訳か、そのまま凍るように歪んで固まった。
蛇怪の耳を、澄んだ声が捉える。
「おや――おや、おや」
鈴を振る音に似て、柔らかく。
刃のような。
先端を細く象った瀟洒な銀糸の靴が、土に落ちた枯葉を踏んだ。
「このようなところに、血塗れで――」
長い銀髪をゆるく結い上げた、美しい女だ。ラウルの鍛冶小屋に現れた。
ただそれは、つい二刻ほど前のことのはずだった。
この山中に、この短時間で、どのような技であれば辿り着くのか。
結い上げた絹糸の如き銀髪は、光の加減によって艶やかな青を帯びて見える。
同じく銀の瞳が、地に伏せた蛇怪を捉えて微笑む。
「喰ってくれと言わんばかりじゃないか」
蛇怪は怯えきり、裂けた躯で後退ろうとした。
だが痛みや出血のせいだけではなく、深い恐怖に身が強張り、いくらも退がれない。
「安心おし。お前を喰らおうという訳じゃない。そう――」
女は長い薄布の裾を引き、怯える蛇怪の前にしゃがんだ。
「ちょっとばかり面白いものをね、借りてきたんだよ」
柔らかく微笑む。
その手に握られているのは、たおやかなこの女とは全くかけ離れた印象の、女の身長を優に超える巨大で、幅広で、分厚い剣だった。
それはラウルが打った大剣、シュディアールだ。
「私はねぇ、この山のケダモノどもを、ここらで一旦煤払いしておこうかと思ってねぇ」
憂いを帯びて首を傾げる。
流れる声は幼な子に話しかける響き。
「何故って? まあお前には直接関係はないんだがね。いや、無いことはないか――」
銀色の瞳が細く、細くなる。
「ともあれ私も、腹に据えかねているからねぇ」
女は立ち上がり、片手で剣を頭上へと持ち上げる。
セレスティでさえ持ち上げることの叶わなかった、鉄塊の如き剣。
女はその鉄の塊を、蹲り怯える蛇怪へ、鞭でも打つかのように軽々と振り下ろした。
矢が無い。
それでも追おうと、ラウル達はそう決めた。
グイドの矢がもう無いことは衝撃的だったが、ヴィルリーアがまだ法術を使えることと、リズリーアの治癒のお陰でセレスティとレイノルドの負傷がほとんど癒えていることと。
何よりヴィルリーアが行くことを強く主張したのだ。
「もしリズちゃんが攫われたら――僕はその感情に、耐えられません」
今追わなかったら、他の人が同じ想いをするかもしれないから、と、もう一度、凛として繰り返した。
(ヴィルリーアは怖がりだし、引っ込み思案だけど、でも自分以外の人ために強いんだな)
自分が兄になったように誇らしい。
弟のエーリックとまだ十歳のアデラードを想い出す。
何も言わないで出てきたから心配はさせていないと思うが、そろそろラウルの小屋を訪ねてくる頃合いだ。
ついさっき死ぬかと思った時は、家族の顔が走馬灯のように浮かんだ。
(必ず帰らなくちゃ。この子達も無事に。それからグイドさんも、セレスティも、レイも)
オルビーィスを――この小さく勇敢な竜を、親元に返して。
肩に乗ったオルビーィスへ向けかけた視線を戻す。
ラウルは再び樹々に尋ねながら慎重に進んだ。
とは言え尋ねるまでもなく、蛇体が這った血の跡を地面に見ることができる。
(弱ってる。今度は倒せる)