8 再戦(その1)
ヴィルリーアが無事であることを信じて、ラウルはただ懸命に、樹々の囁く言葉を辿り続けた。
山道からはとっくに外れていた。蛇の特性か、樹々の記憶が語るのは、蛇行して進んでいる道筋だ。ラウル達の足取りも自然左右に何度となく振られた。
時間が取られる上に、蛇行は等間隔ではなく急に右だけへ突き進んだりしているのが厄介だ。
それでも、辿れている。
「登っていく気配がねぇな」
グイドの言葉に意識が引き戻される。
「え?」
「かと言って降りていく様子もない。あの蛇は、この霧ん中を棲家にしているようだが、――何で登らねぇのか」
最後の方は独り言に近い。
グイドの指摘は明瞭ではないが、不穏さを含んでいる。
「まあそれなら、このまま追えば早い段階で巣に着くだろう。山をぐるっと一回りって訳でもないだろうからな」
楽観的な方を歓迎したい、とラウルは密かに思った。
「グイド殿は、今まであのような魔獣に出会したことがありますか。かつての戦いの中で」
セレスティが尋ねる。
先ほどの蛇怪との邂逅の際、冑を握り潰されたせいでセレスティの表情が見えるのはいいが、同時に防御力上の不安も覚える。
(あんな硬い鉄の冑をあっさり握り潰す奴だ)
人の頭など、それ以上に脆いだろう。
「討伐隊にいる間、退治した奴は色々いたが蛇型は無かったな。ここらは四つ足が多かった」
「あれは――あれが、この山の主ということはありませんか」
セレスティが問うと、少し前を歩くレイノルドが同じ考えなのか首を巡らせる。
セレスティの問いにも頷ける。あれほど悍ましく、恐ろしい存在なら。
だがグイドは首を振った。
「それは無いだろうな。奴はどうやら霧の中から出ようとしていない」
「と言うと」
「単純な話だ。霧の上にもっとヤバいものがいるのさ」
ラウルは一度、グイドを振り返った。
それがオルビーィスの親――竜か。
リズリーアは張り詰めた面でじっと前を見据え、唇を引き結び歩いている。
時折瞬きをする以外、表情は硬く、人形のように変わらない。
けれど懸命に、感情が弾けそうになるのを堪えているのがわかった。
必ず追いつくから、と気休めをかける代わりに、ラウルは何度も木の幹に手を当て、「こっちです」とその都度声に力を込めた。
眠るヴィルリーアの頭を掴んだ二つの手、十本の指先に、力が籠る。
ヴィルリーアは眉根を寄せ、苦しげに呻いた。
閉じていた瞳が、うっすらと開く。
自分に伸びた白い腕、その向こうの顔――加わる痛みに、水色の瞳に激しい恐怖が宿った。
「ひ――」
みしり。
苦鳴は声にならず、ヴィルリーアの喉の奥で塊になった。
みし。
注がれる双眸に満ちる嗜虐的な欲望。
「――ピィ!」
鋭く、だが幼い鳴き声と共に、霧の中から真っ白な塊が蛇怪の背中へ突進した。
オルビーィスだ。
開いた顎が蛇怪の頸へ喰らいつく。半ば放り出されるように、ヴィルリーアの額を掴んでいた腕が離れる。
オルビーィスの鋭い牙が頸へ、ぐずりと食い込んだ。
蛇怪は痛みと恐怖に囚われて全身を激しく揺すった。蛇体がうねり、岩場と樹の枝を叩く。
その勢いにオルビーィスの小さな身体は弾かれ、岩場に激しくぶつかり硬い岩を砕いて、跳ねた。
「オルビー、ス……!」
蛇怪の尾が、宙に浮いたオルビーィスの身体を追いかけ更に、弾く。
オルビーィスは重なる枝葉の奥へ、叩きつけられるように消えた。
蛇怪は二本の腕で頸を抱え、五本の腕を広げて岩場に伏せて、オルビーィスが消えた先を見据えたまま、しばらくの間警戒に息を潜めていた。
押さえた首筋から鼓動に合わせ、血が滲み出ていく。
あれは竜だ。
霧の上にいるはずの。
だが、まだ幼く――あれは、蛇怪の脅威とまではならない。
蛇怪の背後で抑えた、けれど荒い呼吸が耳を捉えた。
振り向いた先で獲物が目を覚ましていて、全身を強張らせて震えている。
蛇怪は女の顔で、にたりと笑った。
まだ幼さをほんの少し残した柔らかそうな面。
恐怖に怯えて――
なんと旨そうな。
「リ――リズちゃ……」
獲物が漏らしかけた声を防ごうと、両手で自分の口を塞ぐ。
蛇怪が長い髪を揺らし近付けば、その分獲物はしりもちをついたまま腕と足でにじり、下がる。
すぐに獲物の背中は岩場の斜面に当たり、遮られた。
伝わる恐怖が食欲を唆る。
もう一度、獲物を喰らおうと顔を寄せる。
赤い舌がチロリと獲物の肌を舐め――蛇怪は叩かれたかのように身を引いた。
嫌な匂いが鼻腔を突いたからだ。
匂いは獲物の全身に、燻したように纏いついている。
不快な、刺激臭。
それでもどうにか喰らおうと、もう一度顔を寄せたが、刺激臭がつんと鼻腔を刺し、一瞬吸い込んだそれが肺に流れ込んだ。
肺腑が掴まれ絞られるようだ。
怒りに任せて獲物を掴み、岩壁に投げ付けた。
獲物は呻き、また動かなくなった。
長い蛇体がその場でぐるりととぐろを巻く。
どうしてやろうかと思案する。
最も美味く好ましいのは、やはり生きたまま血と脳髄と内臓を啜ることだ。けれどあの臭いは敵わない。
脳や内臓を喰らうのを諦め、引きちぎって乾くまで晒しておくか。
それとも待つか。
蛇怪は長い年月の中で、この人間という獲物の捕らえ方を理解していた。
一匹攫えば、何をどうしようというのか、群れの内の一人か二人は後を追ってくる者がいた。お互いに助け合おうとする者達ほどそうだ。そうでなければ我先に逃げ出し、それはそれで捕えやすいのだが――
今回もきっと追ってくる。
まだ周囲は明るく、人が行動するには十分な時刻だった。
蛇怪は黒い鱗の覆う蛇体と白い上半身、その二つともを岩場に張り付くようにして伏せた。
薄い唇から赤く細長い舌がちろちろと蠢く。
つかの間、霧だけが流れ――蛇怪はその音を捉えた。
枯葉の落ちた土を踏む音。
微かな熱と。
白い上半身をもたげ、岩場の下、霧の奥を見透かす。
白い面に笑みが浮かび、口の両端は耳まで裂け赤黒い色を覗かせた。
何と愚かなことか――
捕え、餌として貯蔵しておこう。
先ほど襲った際に矢を数本喰らい、右腕の三番目を切り落とされていた。その恨みもある。
全身の骨を砕き、蛇怪の腹で溶かされるその最後の一息まで苦しませてやらねば。
自ら餌になりにくる愚かな獲物を捕らえようと、蛇怪は岩場に差しかかる木の枝を伝った。