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6 這い寄るもの(その1)

 


 一日前のことだ。

 霧の中を猿の群れは、昼間手に入れたご馳走をもっと手に入れたくて、人間達の後を遠巻きに追っていた。


 あの時唸り飛んできた矢が恐ろしい。それにあの場にいた幼竜も。気をつけなくてはいけない。

 それでも一度味わった味が忘れられず、隙を見てまた食料を奪おうと、猿達は周囲からの敵にも気を配りながら、樹々の枝から枝を慎重に移動していた。


 それでも――



 猿達は群れから一匹、また一匹といなくなった。

 静かに。

 声も立てず。





 追っていた人間達がまた足を止めたのがわかる。太陽は霧の向こうで、西の地平にゆっくりと降りていくところだった。

 昼間のように、ご馳走を手に入れる機会に違いない――嬉々として近寄ろうとした猿達が慌てて樹上に止まったのは、地上に狼の群れが動いているのを見たからだ。

 人間たちを獲物として襲おうとしている。

 それではもう人間達の持っているご馳走を手に入れるのは難しく、逆に自分達が狼の餌になりかねない。


 群れを率いる雄猿は追うのを諦め、群れに意思を伝えるために声を上げた。

 おかしいと、気付いたのはその時だ。

 応える鳴き声が少ない。


 もう一度呼び掛けた声は、少し先の霧の中から上がる狼の唸り声と人間達の声とに紛れた。下ではもう戦いが始まっている。

 雄猿は再び声を上げた。

 やはり返答が少ない。

 一番離れた場所から返った鳴き声が、半ばで途切れた。


 雄猿は明らかに異常を理解した。

 霧に覆われ目で見ることはできなかったが、三十匹ほどもいた群れは、その時既に二十匹にまで数を減らしていた。



 ――逃ゲナクテハ



 そこに、()()は現れた。

 その姿を見た瞬間、恐怖に全身を掴まれ、雄猿は尾の先を動かすことすらできなくなった。



 狼の遠吠えが、霧を貫いて樹上へも響く。

 その響きは異常を告げている。






 ()()は枝を渡ってゆっくりと近付くと、手頃な場所に手を伸ばし、木の枝に張り付いていた猿を無造作に掴んだ。

 猿は怯え切っていて、捕獲は容易だった。


 鋭い爪が猿の腹を裂く。零れ出たはらわたを啜り、頭蓋を両手で割って脳を啜る。

 その間にもそれは白くたおやかな腕を動かし、それぞれの手に一匹ずつ、合わせて六匹の猿を掴んだ。


 逃げもせず、悲鳴も上がらない。

 それの双眸が――恐怖が、彼等の身体を縛っていた。


 肉が裂ける音。

 骨が折れ、砕ける音。

 咀嚼音。

 布をこすり合わせる時に似た、擦過音。


 しゅる。



 しゅる。



 しゅる。




 そこにいた猿の群れ、二十匹を超えるそれらの脳とはらわたを啜り味わうと、肉体を丸々喰らう。残りは木の枝に引っ掛けた。

 それは太い木の枝に絡むようにぐるりと丸くなった。






 次に目を覚ましたのはまだ陽が昇らないうちだ。

 既に空腹を感じていた。

 そこに引っ掛けておいた餌を一匹掴む。

 けれど冷え切って硬い骸より、霧の中に感じる温かな血の熱がそれの気を惹きつけた。


 昨日、この森に入ってきた生き物――人間を、それはもう何度も喰らったことがあった。

 猿よりずっと柔く美味と言えるし、あれ一体喰らえば二日は腹がくちくなる。


 今、森を歩いているのは合わせて六体。手足を捻って保存しておけば、生きたまま半月は保つ。獲物がか細く呻く様は空腹を刺激し、喰らう時の旨味が増した。

 全部捕らえて小さいものから先に喰うのがいい。今までそうしてきたように。

 ()()は、人間の捕らえ方を心得ていた。


 餌を一つ手に掴んだまま、ほかの残骸にはもはや目もくれず、それは樹々の上を移動し始めた。

 時折、細い首を左右へと振り分ける。首の動きに合わせて長い黒髪が薄暗い霧に散る。

 霧の中を進み、獲物達が固まって憩んでいる頭上近くにまできた。霧に覆われながらも、それの目は血の熱を僅かに捉えた。


 唇を笑みの形に歪めると、耳元まで黒々と裂ける。

 猿などよりもずっと上等で、美味そうな匂いが鼻腔をくすぐる。

 舌舐めずりをし、近付こうとしたその時、耳障りな甲高い音が彼らの中から湧き起こった。


 一瞬、体を硬直させたその肩へ、乳白色の膜を切り裂いて飛来した矢が突き立つ。


 それは痛みと驚きに身を翻して霧の中に消えた。







 歩くほどに斜面は険しくなり始めた。

 時折足が地面に取られ転びそうになる。

 霧はまだ濃く、視界を妨げて漂っている。


 朝出発してから、一度短い休憩をとり、三刻ほど歩いただろうか。


「あとどのくらいで、霧を抜けられるでしょうか」


 セレスティは前方を見据えていた視線をグイドへ向けた。そこには早く霧を抜けてしまいたいという思いが含まれているようだ。

 朝、樹上にいたモノが何か、そして今、彼らを追ってきているのかどうか――

 ラウルは肩を震わせた。


 平気か、と問うようにオルビーィスが飛びながら頬に鼻先を寄せる。

 ラウルはオルビーィスの鼻先を指の腹で撫でた。


「大丈夫だよ。空気が冷たくなってきたね。オルビーィスは寒くない?」


 標高が上がっているせいで肌寒さが増している。

 ぴい、と元気よく答えが返る。


 あとどのくらいで、というセレスティの問いに、グイドが顔を巡らせる。


「そうだな……思った以上に時間がかかってる。登山道が緩いし、まっすぐ登っていかないからな」


 これで?とラウルは思ったが、口にはしない。この山をまっすぐ登ったらどれほどきついか。斜面をぐるりと回っているような今の道は有り難かった。

 グイドが続ける。「だが今日にはこの霧を抜けられるだろう。野営は見通しのいい場所でできるさ」


「ええ〜、まだあるの?」


 リズリーアは頬を膨らませた。そんな様子も愛らしさが勝る。

 朝、野営地を発ってからは近付く獣もなく、リズリーアもヴィルリーアも強張っていた顔が穏やかになっている。


(朝の、アレももう、どこかに行ったかな)


 最初の休憩時にまたグイドが丸薬を焼き、煙を浴び直したのもある。お陰でオルビーィスが肩に降りてくれないのが寂しいが、ふよふよと周りを飛んでついてくる姿は何度もラウルの頬を弛ませた。


 他愛無い会話を挟みながら、もう半刻ほど歩いていると、何となくだが霧が薄くなり始めたように思える。

 樹々もまばらになり、足元も土より石が多くなってきた。

 風が吹く。その風も森に入った頃より強くなっている。


 ラウルは前後を見て、声をかけた。


「そろそろ一度、休憩にしましょう。お昼に」

「賛成!」


 リズリーアが手を挙げる。


「ぼ、ぼくも、賛成です……」


 ヴィルリーアも続き、グイドが頷く。


「そうだな。オルビーィスがラウルに近くなってきたから、ここらでもう一度煙を浴びておこう」


 うう。また遠くなってしまう。残念だ。







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