2 霧の中(その3)
「結局何にもないままお昼になったねー!」
お腹空いた! とリズリーアが自分の背嚢から今日の昼食を取り出す。小分けに三日分、用意した干し肉とパン、それにチーズ。
量はそれほど無いが、パンに薄く削いだ干し肉とチーズを挟むと見た目と香りが空腹を刺激する。
「いっただっきまー」
霧の向こうが俄かに騒がしさを増した。
瞬間、リズリーアの手元に、何かが落ちる。
「ぎゃ」
黒い塊――
見下ろしたリズリーアと目が合う。
小さな、二つの目。
白目は無く色素が薄く、黒い点のような瞳孔。
毛に覆われた長い四肢と短めの胴。
固まったリズリーアをよそに、それは素早く動いた。
リズリーアの干し肉を両手に掴んで。
凍り付いていたリズリーアは、それが膝から地面に飛び降りてようやく、叫び声を上げた。
「――っ、ぎゃーーーー!!!! さ」
「猿か」
グイドの矢はすでに番えられ、鋭い矢尻は猿を追っている。
「猿かじゃなーい! あたしのお昼! 取り返してっ」
「リズちゃ……」
駆け寄ろうとしたヴィルリーアの正面に、また黒い塊が落ちる。
同じく猿だ。
ひと呼吸もなく、樹上から次々と、木の葉とともに猿が降って来た。
その数、十――二十、いや、三十弱。
地面に降りるが早いか、騒がしい鳴き声を立てて休憩場所を縦横に駆け回る。
リズリーア、ヴィルリーア、セレスティの身体でさえもお構いなしに飛びつき、駆け上がった。
「きゃあ!」
ヴィルリーアはリズリーアに抱きつき、覆い被さるように倒れた。
「ぎゃー! ぎゃー! ぎゃー!」
倒れた双子達を猿が無情に踏みつけ踏み越える。
「ヴィ、ヴィリ、風切り……っ」
「多すぎて、むり、だよう……」
猿がヴィルリーアの握る杖を掴み、思い切り引っ張る。
「わー!」
「リズ、ヴィリ!」
「二人とも待ってて、今」
「足を止めて、荷物を抱えろ」
グイドの冷静な声が耳を捉えた。
ラウルは考える間もなく自分の荷物を掴んで身体の前に抱えた。
グイドの弓に、矢が三本、番えられている。
「誰も動くな。威嚇する」
直後、グイドの右手から弦が離れ、空気を叩いた。
三本の矢が擦過音を鳴らし、三方向に突き立つ。
地面、左右の木の幹。
猿達の動きがぴたりと止まった。
「まだそのままだ」
グイドは再び、三本の矢を番え空へ向けた。
ひと呼吸で放たれた矢はほぼ垂直に打ち上り、一旦霧の向こうに消える。
矢は放物線の頂点に達すると、向きを変え、落ちた。
三方に広がる。
ラウルの横、双子の前、セレスティの足元の地面に音を立て突き立つ。
凍り付いていた猿達は、矢が突き立つ音に恐怖し、霧の立ち込める樹々の向こうに一目散に逃げ込んだ。
打って変わった静寂が場を包む。
セレスティが息を吐き、抜き放っていた剣を鞘にしまった。
鞘と鍔が重なる音に、ラウルも、リズリーアとヴィルリーアも夢から覚めたように、ようやく身動ぎした。
「何と」
セレスティは足元の矢を回収し、グイドへ手渡した。
「驚きました。グイド殿の弓の腕、聞きしに勝る」
感心しきりにそう言い、猿達が散って行った森を見回す。
「ただの群れのようでしたが」
「人にそう害は無いが、数が厄介だな。それぞれ盗られたものがないか確認しとけ」
リズリーアがハッと背を伸ばす。
「あたしのお昼!」
広げていた布は乱れて地面に落ちて土にまみれ、干し肉、パン、チーズ、全て持ち去られている。
「最低ー! チーズと干し肉挟んだの好きなのにぃ!」
「リズちゃん、僕のあげるから……」
「大丈夫。それはヴィリのだもん。ヴィリが食べるの」
「いいの、二人で……」
振り返ったヴィルリーアの背嚢は、一部が裂けて中身が転がり出ていた。破られた布の破片が霧に揺られふわふわと地面を動いている。
慌てて探ったヴィルリーアは、目に見えてがくりと肩を落とした。
「な、無いよう……」
「えっ」
「……食糧?」
ヴィルリーアが頭巾の下で頷く。
「食糧だけ、全部……です……」
確認した被害はリズリーアの昼食、それからヴィルリーアの背嚢と三日分の食糧。
それだけだったのが幸いだ。
破けた背嚢はとりあえず毛布で覆って縛り、ラウルのものと交換した。
今日の分の昼食を分け合って食べた後、騒ぎから半刻で一行は出発した。
リズリーアは自分とヴィルリーアの食糧を盗られたことに腹を立て足取りが荒い。
「あいつら、絶対、今度見つけたら眠りの術かけて全員木から落としてやるから」
きっとグイドを振り返る。
「今鼻で笑ったでしょ!」
「笑ってねぇよ。前向け」
「笑ったっんぎゃつ」
足元の木の根に爪先を引っかけつんのめったリズリーアを、ヴィルリーアが手を伸ばして抱き止める。
「気をつけて、リズちゃん」
「ありがとうヴィリ」
「それにしても、怪我をする事態にならなくて良かった」
セレスティの言葉にラウルも頷いた。
「食糧狙いだろうからまた来るかもしれないですね。もっと気をつけないと」
どうやらあの程度だと、ヴァースの警戒の範囲ではないようだ。
(それと、オルビーィスだ)
十数匹の猿が駆け回り、双子だけではなく一番背の高いセレスティさえよじ登っていたのに、ラウルは一度もたかられなかった。
数匹、ラウルの足元に来た猿はオルビーィスに気付きくるりと向きを変えた。
オルビーィスはラウルの肩から飛び出そうとしていたが、グイドが矢を番えたことで翼を畳んだ。
(あの矢が無かったら、オルビーィスは狩りをしたかもしれない)
オルビーィスの翼が、爪と牙が猿達に掴みかかる様を想像する。猿達は恐れ、混乱して逃げ回る。
それはまだ見たことすらない成竜と、逃げ惑う人々の姿に変わる。
想像の中のその竜は、ラウルが住んでいたロッソの館よりも大きかった。
(まさか。そんな大きさ、四竜ってやつじゃないか)
西の風竜、東の地竜、北の黒竜、南の赤竜。
竜族の頂点とも言える強大な竜に、人がその名を冠したものだ。
それはおとぎ話ではなく、三百年前に風竜が、そしてほんの数年前には黒竜、更に戦乱の中に骸となって甦った風竜が、その姿を現している。
(まさか、この子がそんなふうになったらって、俺は思ったのか?)
ラウルはくすりと笑った。
それは飛躍しすぎだろう。きりふり山の主が四竜とも聞いたことがない。
オルビーィスを見ればラウルの肩に止まり、自分の翼を舌で舐めているところだ。
ラウルの視線を感じて顔を上げ、青い澄んだ瞳を瞬かせる。
愛くるしさしかない。
(でも、そこまでいかなくても、もしかして)
もし、オルビーィスが成長して人を襲ってしまう可能性があるとして。
もしかして、自分が育てて、人を襲ってはいけないとしっかり伝えていけば――というかその方が、結果的に良かったりしないだろうか。
(俺がもっと、森の奥に住んで)
手放したくないからこその勝手な考えだと、ラウルはわかっていたが、それも一つの方策のような気がした。