2 霧の中(その1)
風が霧を押し、押された霧は重く動いた。
重なる葉先をゆるりと揺らす。
滅多に無い侵入者の気配に、森は敏感に気付いていた。
目。
浮かび上がる無数の双眸の一つ一つが、白い霧の奥から、乳海を掻き分けるように進む一行へと注がれていた。
「ほとんど見えないけど、この方向で合ってるのー?」
リズリーアが空元気に張った声も、霧はすぐ飲み込んでしまう。
彼女が持つ杖の先端には、白く輝く明かりが灯っていた。リズリーアが法術で灯したものだ。
「フルゴル灯す?」と聞いたがリズリーアが自分でやりたがった。
進むごと霧を縫うその光も、乳白色の微細な粒子の中にすぐに拡散していく。
「登山道は一つだ。この道を辿る限りは方向は合ってるだろう」
「本当に? もう、全然周り見えないし、早くこの霧抜けたい!」
「まだ入ったばかりだよ、がまんだよ……」
「本当に霧が濃いですね。喉が乾かないのは助かりますが」
会話を聴きながらラウルは辺りを見回した。
登山道も樹々の枝葉も二間(約6m)ほど先までなら見えるが、その先は白く覆われている。
霧が肌を冷やし、衣類や髪もしっとりと重さを増したようだ。
何より、きりふり山の登山道に入ったと、そう意識しているせいか、森の空気がガラリと変わったように思えた。
太陽は霧の向こう、ほぼ天頂に、ぼんやりと球体の形を浮かべている。
登山道に入り半刻も経つと周囲は霧に覆われ、進むごとに濃さを増していった。
「中腹まで行けば抜けるさ」
宥めつつ、グイドは視線を時折四方へ配っている。
霧の中に入って空気を変えたのはグイドも同じだった。
(歴戦の弓の名手、狩人の空気――)
グイドがその空気をまとったというこたは、今までと状況が異なることを意味しているのだ。
自然ラウルの身も引き締まった。
「セレスティ、前方はどうですか?」
「今のところは問題ないと思います。と言っても視認性が悪すぎますが」
先頭を歩くセレスティの銀の冑には、早くも露が光っている。胴鎧のあちこち凹みがある表面や、手甲などの革製の防具にも。
頬にざらりとした感触が当たる。オルビーィスがラウルの頬を舐めた、舌の感触。
オルビーィスは霧が興味深いのか先程からラウルの肩に降りたり飛んだり、肩にいる時は舌を出して霧を舐め取ろうとしている。
ラウルの頬もこうやって何度も舐めるので、水が欲しいのかと水袋の口を開けてやるが、そうではないようだ。
(何でも興味深いお年ごろなんだな)
ふいにヴィルリーアが張り詰めた声を上げた。
「リズちゃん!」
びくりと飛び上がったのはリズリーアだけではなくラウルもで、ヴィルリーアを振り返る。
「どしたの?!」
リズリーアがヴィルリーアの右手を握る。
「か、影が、向こうを通ったよぅ……」
「影?」
ヴィルリーアが指差した方は、道の左右に広がる樹木の姿も覆ってしまうほどの乳白色の霧が溜まっている。
霧が晴れていればおそらく、今までと変わらない森が広がっているはずだ。
おそらく
ぞく、と、ラウルは背筋の寒さを覚えた。
本当に森が広がっているだろうか、この向こうに。
もしかしたら、樹々は何もなくて、それに模した何か、違うものが満ちているかもしれない。
自分の意識が外へ広がっていくように感じられる。
霧の奥。
少し離れたところ、に。
何か――
何かがいる。
「――ううん。ごめん。何も、いない、かも」
ヴィルリーアの言葉に現実に戻り、ラウルは首を振った。
耳を澄まして聞こえるのは風の音、それから細い鳥の鳴き声。それだけだ。
「もう行っちゃったかな」
リズリーアはそう言ってヴィルリーアの両手を自分の手で包んだ。
ヴィルリーアが見たというなら気のせいなんかではなく確かに見たのだと、空色の目が主張している。
「鳥とか、栗鼠とかだよ」
「――まあ、この中、気配は幾らでもあるしな」
「えっ」
ラウルは驚いてグイドを見た。
「動物は何にもいないのかと」
ラウルには何も感じられない。
そう、先ほどの感覚は気のせいだった。
「この森で何もいない訳がねえ」
「で、ですよねー」
頷き、ヴァースへ視線を落とす。
「どう? ヴァース」
『んー。気配がごちゃついてるな。けどいるぞー。おっさんの言う通り、こんな森だしな』
「そこは三千万年歳下の扱いしてくれないのかよ」
軽口を言いつつグイドは一旦周囲を見回した。
下ろした左手には弓を握った状態だ。
矢筒からは引き抜きやすいように矢が一本、他の矢よりも上に矢羽を出している。
(そう言えばグイドさん、霧の中に入ってからずっと弓を手にしてる)
『影とか気配を一つ一つ気にしてたら進めねーし、まあ大抵はほっときゃいいものばっかだしー』
ほっとしかけたラウルに、ヴァースは変わらない調子で告げた。
『でも幾つか、ついてきてるぜー』