6 If Winter comes, can Spring be/冬の日(その2)
「ラウル!」
父か、叔父か、誰かが叫ぶ。
けれどラウルの意識には、目の前の牙と視界いっぱいに開いた赤い喉しか無かった。
庇った腕に牙が食い込む。痛い。
怖い。
食い殺される。
怖い。
「ラウル!」
レイノルドが駆け寄り、落ちていた木の枝を掴んで狼の背に振り下ろした。
「ラウルを離せ! この! このっ!」
何度も、何度も振り下ろしても打ち付ける力は軽く、まるで効果が無い。
腕にますます牙が食い込み、雪に赤い血が散る。
「ラウル! ラウル!」
レイノルドが泣き叫んでいる。
狼に食い殺されるという恐怖の中で、レイノルドの鳴き声が意識を切り離したかのように明瞭に聞こえた。
防いでいる腕の感覚が無い。
もう限界だ。自分が喰われたら、次は。
「レイ、逃げ……」
犬に似た悲鳴が上がった。
急に、視界が開けた。覆い被さっていた狼の姿がない。
「ラウル! もう大丈夫だ!」
父がそばにしゃがみ、ラウルを覗き込んでいる。
レイノルドがラウルの足元にペタンと座り泣きじゃくっていた。
まだ茫然としている間に叔父がどこからか戻ってきた。手にした剣から血が数滴、雪に滴る。
「大丈夫だ。森に逃げ帰った」
落ち着いた叔父の声。
ラウルは父に助け起こされ、雪道に座って周りを見回した。
父の背を撫でる手と、叔父の厳しい面に浮かんだ笑み、レイノルドの泣きじゃくる声。
背中で溶けた雪の冷たさを今更ながらに感じ、それから右腕の痛みとたった今の出来事の恐怖に、ラウルは声を上げて泣き出した。
「ラウル、レイノルド、一緒にくらがり森に出かけよう」
月の幾日か、祖父はそう言って二人を誘った。
このロッソの街からは馬車で一日のキルセン村に一泊し、翌日にはくらがり森に住まう祖父の長年の知己、フェムルト鍛治師を訪ねるのだ。
フェムルトの家でまた一泊する。森の中の家は狭いが、祖父やレイノルドとくっついて寝るのは楽しかった。
「アルバートとセルゲイは難しい話をしとるからな」
そう言う祖父の顔は誇らしげだ。
父アルバート・ヴォルフ・オーランド子爵と叔父セルゲイ・レイナー・オーランドは互いに協力し、このオーランド子爵領の領地経営を行っている。
祖父がラウルとレイノルドを一緒に連れてあちこち行くのも、将来はアルバートとセルゲイのように助け合って領地を経営してほしいという想いがあるからのようだった。
ラウルは祖父が父達を誇りにしていることも、ラウル達に期待をしていることも、どちらも嬉しい。
「鍛治師先生のところに行くの?」
「そうだ。頼んだ品ができているだろう」
祖父は子爵だった頃、家族に対して――とくに長男である父には非常に厳しかったらしいが、爵位を父に譲って引退してからはすっかり丸くなり、書物に耽ることや小さな畑を耕すことを好み、気ままに日々を過ごしている。
一人で出かけることも多いのだが、こうして祖父が二人を連れて行く時は、大抵父達が領地について難しい懸案を抱えている時だと、ラウルはうっすらと理解していた。
「竜舎に寄れる?」
聞くと
「おお、寄るとも」
と請け合う。
ラウルとレイノルドは顔を見合わせて笑った。
「僕、飛竜の世話したい!」
「俺も! 俺も飛竜の世話する!」
世話を手伝うとボードガードは飛竜に乗せてくれた。それが楽しい。
「早くエーリックが大きくなるといいね。一緒に行ける」
まだ五歳のエーリックは、母アンナが連れ歩くことを許さず留守番で、それが残念だ。
レイノルドは出かける時に毎回淋しがって大泣きするエーリックを思い浮かべたのか、困ったような嬉しそうな顔をした。
一人っ子のレイノルドはエーリックを実の弟のように可愛がっていて、エーリックもよく懐いている。二組の家族なのだが、そんな隔てなど何も感じられず彼等は仲が良いいのだ。
キルセン村では竜舎に行き飛竜の世話をさせてもらった。
くらがり森を訪れると、齢七十八を過ぎたフェムルト鍛治師は相変わらず気難しく、ただ剣を打つ手元を覗き込む二人を突き放したりはしなかった。
「先生」
二人がフェムルトを呼ぶと、「何が先生だ。お前らのような弟子を取った記憶はない」と睨まれる。
けれどラウルもレイノルドも懲りずに先生と呼び、フェムルトの節くれだった無骨な手が生み出す美しい剣をうっとりと見つめていた。
姿形が美しく、剣の肌は澄むよう。
切れ味が鋭く、刃毀れしない。
遠く、王都からも求めに来る者がいたほどだ。
「いつか先生のような剣を打てるようになりたい」
とラウルは言い、レイノルドは
「僕は先生の剣を持てるようになりたい」
と勇ましく言った。
一度、ラウルは数日間泊まり込みで剣を打たせてもらったことがある。
見よう見まねで何とか打ち上げたを、フェムルトはしばらく手に取って眺めていたが、ひとこと、「お前に鍛治師は向かない」と言った。
それがひどく残念だったのをラウルは今でも覚えている。
もしかしたらその時、フェムルトはラウルの剣の特性を見抜いていたのかもしれない。
レイノルドはその頃、剣の修練にのめり込んでいた。フェムルトの剣を見ていたからというのもあるだろう。
いつか先生に認められて先生の剣が欲しいと、訪れるたびに口にしていた。
ラウルが十三歳、エーリックが六歳の冬、妹のアデラードが生まれた。
晴れた朝で、降り積もった雪が陽光を弾いていた。
オーランド子爵邸は喜びに満ち溢れ、特に父であるオーランド子爵の喜びようはラウルから見ても微笑ましいほどだった。
なんといってもオーランド一家にとって、初めての娘だ。
オーランド子爵は嫁がせないと拳を固め、アンナに呆れられていた。セルゲイ叔父はセルゲイ叔父で「警護を付けよう。礼儀作法の教師を呼ぼう」とあれこれ算段し始めた。
エーリックは妹ができたことに興奮してお兄ちゃんになるんだ妹を守るんだと意気込み、レイノルドはひたすら妹を羨ましがっていた。
ラウルは目に入れても痛くない宣言をした。