16 怖かったから
「あんなものを見たのは俺も初めてだ。だが聞いたことはある」
グイドはリトスリトスのことをすっかり忘れてしまったのか話題に上げなかった。
「通常もっと森の奥の方にいる、魔物の類だろうな」
と言う。
「あれは何て種類の魔物なの? 法術試してみれば良かったけど、ラウルに近すぎて。透過しちゃうみたいだし」
「ら、雷撃撃たなくて、良かったです……」
それは良かった。
多分透過した。危うくラウルの黒焦げの完成だった。
ラウル達は場所を移動し、見つけた小さな川のそばで思い思いに身体を休めているところだ。
さらさらと流れる水音が気持ちを安らげてくれる。
遮るものの少ない陽射しに冷えた身体が温まっていくのを感じた。
あの存在に触れられて余りに冷えた。
「囲まれて、なんか触られて、身体が凍ったみたいに動かなくなりました。いえ、確か、姿を見た時から痺れるような感覚があったっていうか」
「間近で見て、何か特徴はあったか?」
「それが」
思い起こすほどに輪郭がぼやけるのだ。
全身が黒く、顔は無く、ただの影のよう。
腕は植物の蔦を思わせた。
「あと、何か、話してました」
ラウルの体験を聞いてグイド達が顔を見合わせる。
ラウルはこの間、太腿の上に乗せられたオルビーィスの長い首をずっと撫でている。オルビーィスはお昼寝に入るようだ。
「言葉を話すとなると、おそらくだが樹霊辺りだな」
「じゅれい?」
「はい! 知ってる!」
リズリーアが真っ直ぐ手を挙げる。
「ね、ヴィリ」
「ええと」
と話し出したのはヴィルリーアだ。
リズリーア、自分で説明しなさい。
「樹霊というのは、主に森林とか山とか、樹々の深い場所に分布しているようです。実態はなく、影のような姿で、剣とか槍、弓もですが、武具での攻撃が効かないと習いました」
「ヴィリすごいでしょ。私たち、あの後魔物とか魔獣についても学んだんだよ」
君はどうなのかな? と言いたくもあるが微笑ましい。
でもね、魔獣とか魔物とか、学んでも活用する場所はなかったと思うんだけどなぁ。
と、ラウルは胸の中で呟いた。
「備えあれば憂いなしだもんね!」
何の備えかなぁ。
「剣や弓が効かないのは厄介だな。法術は効くのか」
「あ、あの、光の矢とか、雷撃とか、攻撃系は、効きにくいです。結界や解呪のような羽翼――守護系統のものが効果があると思います」
「使えるか?」
「ええと、解呪は、初期に学ぶので、僕もリズちゃんも使えます。でも対象の元、ええと、構成みたいなことですが、それが何なのかを把握しなくちゃ、解けません」
リズリーアが手を後ろに組み、ちょんと前に出る。
「結界は、前に私が使った、中から攻撃できないやつなら使えるよ。攻撃もできるやつは中級の術だから、まだ無理なの。絶対必要だと思って習得は頑張ってたんだけど、間に合わなくて」
日常生活では必要ではないよー。
一体何を想定していたのだろうこの子達は。
と、ラウルは首を傾げた。
「まあ使い方次第だ。そもそも樹霊に解呪とやらがどう使えるのかも、俺なんかにゃ解らんからな」
「あまり遭遇したくないですね」
レイノルドは先ほど剣を振った時を思い出したのか、開いた右の手のひらへ視線を落とした。
『リトスリトスはめんどくさいしなー』
ヴァースが内心を代弁してくれる。
ただ、ラウルの鍛冶小屋に手のかからない剣はいない。
「ヴァースも、俺の持っているこの細い剣も駄目なのか?」
グイドは自分の荷物を示した。
剣が後ろ手に抜きやすいよう剣帯で止められている。
ラウルは目を細めてスキアーを吟味し、首を振った。
ヴァースが斬れないのだ。筆頭なのに。
「多分、スキアーも、剣という意味では同じかと。斬れ味はやたら良かったんですが」
打ち上げた日、つい取り落としたらその拍子に横にあった机が真っ二つに割れてしまった。
(鋭すぎて影を斬ったら本体を斬っちゃった、みたいなー? えへへ)
とは言えラウルが扱うには怖かったので、それ以来慎重に慎重を期して、手入れの時以外は抜いていない。
「色々聞くとなかなか厄介そうだな、樹霊相手は。今後遭遇しないことを願うが」
そうもいかないだろうな、とグイドは思案するように腕を組んだ。
おうちに帰ってもいいのでは、と、ラウルは願った。
レイノルドが剣の柄に手を当て、何やら指の腹でごく軽く鞘を叩きながら、ラウルへと顔を向ける。
「ラウル、樹霊というのが何か話してたと言ってたが、何て言ってたんだ?」
「ええと、最初悲鳴みたいな感じで――触れられたら、言葉が流れ込んできて」
たしか。
「北って言ってた、かな。多分だけど」
「北? それ以外は?」
「ええと……」
思い出すと身体が冷たくなる気がする。
魂まで凍りつくように思えた。
その中で、声だけが存在感を持っていた。
「広がる、とか……何度も。それと、どこにかにいただとか、希望と絶望だとか」
ラウルは思い出そうと口元に手を当て、眉を寄せた。
確かあと幾つか――
「どく」
グイドとレイノルドが顔を見合わせる。
「不穏だな」
「怖かったからちょっと曖昧ですけど、大体そんなことを」
怖かったから自信がないが。
「北って、この森の北ってこと?」
リズリーアが北の方向へ細い指を向ける。
重なり合う樹々の奥。
ふと、ラウルは思い出した。
「そういえば、北っていえば俺、変な夢見たんだった」
「夢?」
「そう、そうだ」
思い出してきた。
そう。
「みんなが俺を置き去り――」
ではなく。
そこは割愛する。
なお割愛の意味は『惜しいと思ったことを手放すこと』だよ。
「夢で俺、森を上空から見てたんです。それの、北の地平線あたりが、なんか妙だったっていうか」
「なになに、妙だったって何?」
リズリーアは何故だか目を輝かせてぴょんぴょんと寄った。
「どんな感じに?」
夢の様子を、覚えている限り説明する。
気づけばラウル一人だったこと。
ゲネロースウルムが出てきたこと。
北を指差して、地平線に黒い靄のようなものが広がっていたこと。
「――」
ざっくり伝え終わると、五人の間につかの間沈黙が生まれた。
「――関係、あるようなないような。それより俺達がお前を置き去りにするとか、俺達を普段どう思って」
「うーん。もっと楽しいことが良かったぁ」
「リズちゃん……」
「法術でなんかすごく、ばっしばし戦っちゃうみたいな」
「僕やだよう」
「北に行けってことなのか、北に何かがあるってことなのか」
夢でゲネロースウルムが指差したのは。
オルビーィスがラウルの手の下に頭を押し込んできて、撫でろ撫でろと言っている。
「かわいい……っ」
ラウルはしゃがみ込み、オルビーィスを撫でくりまわした。
オルゥー。
「何にしろ、異なる状況が僅かに重なっている。気にせず済ませるってものでもなさそうだな」
グイドの言葉にハッと顔を上げる。
まだ話の途中だった。
「そもそもこの辺には出ないモノが出てるのは気になる。近くに一つ村もあるからな」
「村ですか」
そう言えば、昨日グイドが言っていた。
「そこで話が聞けるかもしれん」
ここから歩いて半日ばかりのところにあるらしい。
ここでこの村に行くと決めなければ。
ラウルは後になって何度か、そう思った。
もう一度その声がしたのは、夕刻も近づいてきた時分だった。
森が一瞬、無音になった。
ラウルははっとして足を止めた。
「ラウル?」
「同じだ、さっきと――次、声が」
ヒィィィィィィ――
ラウルの言葉を覆い隠し、『声』が響く。
樹々の間を彷徨い滲み出るような、細く、高い悲鳴に似た。
全身が一瞬、硬直した。
視界の端でグイドの手も、動作の途中で止まる。
直後、グイドは引き剥がすように手を動かし、矢を引き出すと番えた。
まだ引かない。
「場所が掴み難いな」
「もう少し先みたいだね」
リズリーアが杖を揺らし、鈴の音が微かに散る。杖の先が指すのは西だ。
今ラウル達が向かっている方向。
再び、声が上がった。
今度の声は、明らかに人――男のものだった。何人かいる。
重なるように、あの細く高い悲鳴もまた響く。
「誰かいる! たすけなきゃ!」
「行こう!」
ラウルは強張る身体を振り切って走り出した。
樹の根の張り出した地面は足場が悪く、あまり早くは走れない。
けれど程なく西からの夕陽に溶けるような樹々の間に、影が浮かんだ。
輪郭がくっきりしているのが人。三人。いずれも男だ。走って南へ逃げている。
それから、例のあの影が、四体。
「グイドさん! レイ!」
「見えた」
レイノルドがラウルの横に並ぶ。
手は剣の柄に掛けている。
上下する視線の先、木の蔦に似た細い腕が、一番後ろを走る男に、今にも触れんばかりに伸びた。
逃げる男の背中に届く。
あっと思った瞬間、逃げていた男は木の棒を倒したかのように、ばたりとその場に倒れた。
グイドが矢を放つ。
樹々の隙間を一直線に抜い、矢が影を二つ、射抜く。
影の動きは止まらない。
「チ」
舌を鳴らしたグイドの隣で、リズリーアが地面に杖を突き立てた。
先端で鈴が鳴る。
シャン、とひとつ、心を澄ます清浄な響き。
『我は全てを知り 我は事象を解きほぐす』
響きは心地よく耳を捉える。
リズリーアは杖を右手で頭上に掲げた。
『解呪!』
杖が白く光りを纏う。
リズリーアは輝く杖を掲げたまま、全力で影に駆け寄り、気合の掛け声と共に影に振り下ろした。