記憶
・・・「シフトアップ?」
僕は相当馬鹿らしい。
いや違う、あたっていた。
2回だけ正確に中指だけが内側に軽く曲げられ、そして止まった。
ん、違うぞ、彼女の自転車は Di2 のはず。
シフトアップ・シフトダウンか、これじゃ判断できない。
・・・もっと違うぞ!
ナースコールを慌てて押した。
・・・
コールボタンを持ったまま立って、その右手を眺めていると、
女性の看護士が早足で入ってきた。
「何かありましたか?」
心電図は、同じ間隔で正確に脈拍60を打っていた。
時計の秒針のようだなと思いながら、
「いま指がピクッと2回動いたんです。」
「呼びかけはしましたか?」
「名前も知らないので、なんと声をかければいいのか・・・」
看護士は彼女の手をとり、
「大丈夫ですよ、わかりますか?」
と声をかけた。
そうか、「大丈夫ですか」ではなく「大丈夫ですよ」なのか。
当たり前といえばそうだが、僕には思い当たらなかった。
彼女は手を握り返し、うっすらと目を開けた。
もう一度、看護士が繰り返す。
すこしずつ目が開いていく。
くちびるが、かすかに開く。
「水を飲みますか?」
なるほどと、心のなかでつぶやいた。
かすかな声で、「はい・・・」と彼女は答えた。
すごい!と、僕はまた、心のなかでつぶやいた。
「少し待っててくださいね、お水を取ってきますから」
看護士は笑顔を向け、彼女が少しうなずくのを確認すると、
足早に出ていった。
なんとも言えない空気が部屋を満たす。
というのは、僕の心の中だけだ。
彼女の状況は、皆目見当がつかない。
僕はない頭を振り絞って、彼女の前に立って、
少しお辞儀をするように顔を向け、
「起きましたね、僕を覚えていますか?」
と、小さく声をかけた。
彼女はしばらく僕の顔を見つめ、
「そんな顔だったんですね、サングラスを外すと」
あぁ、それはそうか。
「そうなんです、こんな顔なんです」
とニコッと笑ってみせた。
看護士が戻ってきて、彼女の口に吸飲みをあてながら、
「ゆっくり一口ずつ飲んでくださいね」
彼女は、軽く一口飲み込んで、一息ついてから、
吸飲みの残りを、ゴクゴクと飲んだ。
あぁやはり強い人だと、すっかり感心してしまう。