意識がない
数日経っても連絡がないので、
彼女の自転車をひょいと持ち上げ、クローゼットの奥にしまう。
仕事柄、自宅の出入りが多いので、動線のじゃまになるからだ。
意識は戻ったのだろうか、だとしたら連絡があるはず。
仕事が一段落したら、病院に行ってみよう。
そう考えながら、キーボードの前に座った。
・・・
何か気になる・・・
そう、彼女の自転車にはなにか文字が書いてあった。
「書いてあるなぁ」と思っただけで、よく見ていなかった。
ふとキータッチを止め、クローゼットに向かう。
トップチューブの右側にだけ、ピンクの文字で
”draft off”
ん・・・「ドラフティング」?
ギャラモンフォントで小さく印してある。
モリサワではない、Adobe Garamond Pro のフォントだ。
その彼女の真っ白な Domane SLR は、ロライブトレインが Dura-Ace Di2
当然、僕の嫌いなディスクブレーキ仕様になっていた。
よく見ると、左フォークと、左のペダルに擦り傷がある。
それはそうだ、3メートルは離れた場所に、これはあった。
今回の事故のものだろう。
推測すると、自ら左に転倒したと思われる。
本人は軽傷で目立った傷があったかまでは、確認していない。
気になって、仕方がなく外出着に着替え、
ハンチングを横目に髪をなでつけ、外に出た
僕はロード以外の移動手段を持たない。
病院まで5kmほどあったが、めずらしく歩いていった。
タクシーに乗る距離でもないし、あの事故を見たので、
いまは余計に使いたくない。
あぁ、自転車って便利だけどロードバイクってやつだけは、
駐めておくものじゃないから、こういう時に困る。
受付での説明が面倒だった。
なにせ名前も知らないのだ。
交通事故で救急搬送されたことと、女性であり、
淡いピンクのトライアスロンスーツを着ていたことだけが情報だ。
看護婦長が横で聞いていて、それを察して案内してくれることになった。
意識はまだないそうだ、あれからもう5日が経っている。