謀将と呼ばれる所以
一五四五年 小早川少輔三郎隆景
昨晩の夜のうちに前線で戦い続けた我々小早川勢は本谷山中腹の陣に戻り、小早川勢がいた場所には太郎(毛利隆元)兄上が入りました。
この戦で毛利方の総大将が前線に出ているという異様な事態に敵も気付いたのでしょう。兄上寄りに敵が集まっている。兄上は上手く敵をいなしているのでしょう。揺るぎもしていないようです。さすが兄上の旗下。
一見無謀ですが兄上が前線に出張るのもこれも策の一つ。この後の戦場での働きが兄上にはあるため無理せずに対応しているのでしょうがその統率力に目を瞠ります。これが太郎兄上の戦、なんて頼もしいのでしょう。
父上(毛利元就)は近習だけを連れて私がいる小早川の陣に来ていました。私の陣からは戦場の全貌を見ることが出来ます。父上と共に戦の趨勢、父がここまで仕込んでいた謀略の集大成を見届けることになる。
だが果たして本当に敵陣に動きが出るのでしょうか。…信じるしかないのですが。
「どうやら動いたのは佐世の軍のようじゃの」
「そのようですね」
「ふむ、民部少輔(尼子詮久)自身が動くかと思うたがの。流石に高望みし過ぎたか。まあ構わぬ」
顎鬚を扱きながらぼそりと呟く父上が仰る通り戦場からは佐世軍がごっそりといなくなっていました。父上は民部少輔が動くことを期待していた様子。ですが戦場では尼子の本陣は特に動きがないように見えます。そこまで父上の望む通りにはいかなかったようです。
「では始めよ」
戦場を睥睨するように見ていた父上が軍配を持つ右手を掲げると私たちの背後で積み上げられた木材に火が付けられました。徐々に大きくなるその炎は赤々と、そしてその煙は狼煙となって天高く上っていきます。
「良いか、三郎。まず初めに太郎がいる前線に動揺が走るぞ。その動揺は次第に大きくなり尼子の軍勢が混乱し始める」
「はい」
戦場から視線を移さず語られる父の言葉はこの先に何が起きるかを確信しているようにはっきりとしていました。その表情からは何を考えているか分からない程の無表情で背中に凍るような寒さが走ったように錯覚するほどでした。絞り出すように返事をするのがやっとです。
これが武将としての父の顔なのでしょう。父として見る顔とは全く違う。だが本当に父上の言われた通りのことが今後起こり続けるのだとしたら。それは既にこの戦は父上の掌の上で行われていたという事では無いのだろうか。そう思うと恐怖とはまた別の震えが身体を駆け巡りました。
父上の言われた通り兄上が支えている前線に注視する。そして父上の言われた通りのことが起きようとしていました。
「父上!敵が同士討ちを始めました!」
「同士討ちではない。あれは内応していた南条豊後守(南条国清)の軍よ。南条は知っておるか?」
「南条、伯耆国の国人衆にその名があったと記憶していますその南条ですか?」
「良く学んでおるようじゃな。その南条よ」
ちらとこちらに視線を向けた父の表情は普段の父上のように優しいものに戻っていた。萎烏帽子の上からぽんぽんと頭を撫でられました。でも戦場に視線を戻した父上はすぐに先程の表情に戻ります。
「南条家はの、伯耆国の守護代を務めていた家柄での。尼子の伯耆国進出の際に一度領地を失っておるのじゃ。後に尼子への帰参が許されたが旧領も一部は未だに返還されておらん。あの家には尼子に対する不満があるのよ」
「成程」
「さて次じゃ、狼煙をもう一つ上げよ!」
「はっ」
父上の号令が再び下ると燃え上がる炎の隣にもう一つ積み上げられていた木の山に火が付けられる。同じように燃え上がった炎から煙が立ち上り空には二つの狼煙が立ち上りました。
「二つ目の火種が燃え上がるぞ。これでこの戦場は我が毛利の手の上よ。次は右京亮(国司元武)と対する前線が崩れるぞ」
独り言のように呟かれた父の口がにやりと笑みを浮かべる。それはまるで戦場を思い通りに動かしていることを楽しんでいるように見えました。いえ、実際に楽しんでいるのでしょう。自分が思い描いた絵の通りに戦場が動いていく。隣で見ているだけの私でも言い得ぬ昂ぶりがあります。私もこうして戦場を支配してみたい。
どのようにしたらこんなに敵を手玉に取れるのでしょう。しっかりと情報を把握して、敵の何処に弱味があるのか探るにしても簡単ではないはず。
左方から始まった尼子軍の混乱は徐々に戦場全体に広がっていくようでした。そして二つ目の狼煙が上がって暫くするとまた父上の言葉通りに戦場が動きます。
「すごい…」
思わず呟いてしまう程、父上の言葉通りになりました。敵の主力、山中三河守(山中満幸)を支える様に展開していた敵の一陣が突如味方であったはずの三河守に攻撃を始めました。
「父上、あの一団は?」
「あれは三刀屋よ」
「みとや…三刀屋ですか…?確か吉田郡山城の戦いの折、退却する尼子を追い散らした際に討ち取った敵方の武将に三刀屋の名があったような」
「正解よ。その三刀屋の倅、新四郎(三刀屋孝扶)よ」
「…お待ち下さい父上。何故三刀屋が我等に味方するのです?先代の三刀屋の当主を討ったのは確か我等の援軍に来てくれた大内家だったはず。言わば我等が現当主の父を討ったという事でしょう?我等にお味方する理由は無いのではありませんか?私たちは敵と思われても仕方ない筈」
「ふ、簡単よ。新四郎に疑心の種を植え付けたからの」
ふふふ、と父は昏い笑みで当然のように呟いた。空気が凍ったように冷たさです。父はそのまま語り始めました。
「儂は吉田郡山での戦で何故先代の三刀屋久扶が討たれたのか不思議に思っておった。三刀屋家は尼子家中でも身代の大きい出雲国人衆の代表のような男だ。尼子十旗にも選ばれている家でもある。それがあっさりと討たれおった。訝しいじゃろう。余程の忠誠を尽くしてその場に留まっていなければ討たれるようなことにはならんものよ」
「それは…、はい」
「共に討たれたのが下野守(尼子久幸)というのも含めて考えると更に訝しい。当時、下野守は民部少輔(尼子詮久)から疎まれていたようじゃ。そして新四郎は下野守に近かったと聞いておる。後は分かろう」
父上の仰る通り、当時の尼子家は下野守が民部少輔の後見として権力をある程度握っていた。それが邪魔だった民部少輔が下野守に殿を命じたという話を聞いたことがあります。
「…つまり尼子家中、民部少輔から見れば邪魔でしかなかったと?」
「ふふ、真相は知らんがの。知る必要もない。そう見えるということ自体が問題なのよ。そして人が何を信じるかもな。三刀屋に話を持ち掛けた当初は話も出来なんだがの、根気よく話を続けていくうちに今の当主、孝扶も同じ疑惑を抱いたようじゃ。元から不審に思っていたのかもしれん。そうやって疑心を抱かせれば後は簡単よ。小さくとも綻びが生まれれば、な」
戦場を見ていた父上の視線が私に向けられました。分かるだろう?と言いたげなその視線に喉が鳴りました。改めて、父上が近隣に恐れられている謀将なのだと理解しました。そしてその謀将が味方、実の父親であることがどれだけ頼もしいことか。私ももっと学べば父上のようになれるのでしょうか。
「一つ教えておいておこうかの。敵を謀る上で大事なものは情報と心じゃ。敵の泣き所は何処なのかを探る事。そしてその泣き所を攻めるために如何に敵の心を操るか。それが肝要じゃ」
「不謹慎なのかもしれませんが面白う御座います」
「やはりか、ふふ。…む、おかしい。予想以上に混乱が大きいの」
父上が不審そうに戦場にまた視線を戻すと敵の陣形は乱れに乱れ組織的な反撃も取れなくなっている者たちが多くなっていることに気付きました。既に退却をしようとしている者たちもいる様子。まさか…。
「父上、これは…」
「うむ、まさかじゃな。佐世の軍に民部少輔が紛れて月山富田城に向かったかもしれん。敵本陣の動きがほぼない。くくっ、なんじゃ、読み切っていたではないか…。この混乱で討ってやろうかとも思ったが…」
堪えきれずといった様子で父が笑みを深めました。すごい。本当に父上の掌の上です。
「民部少輔が自ら城の救援に出ることも父上にとっては予想通りでしたね」
「民部少輔の家族愛は相当な物よ。偏執的とも言えような。幼い頃に奴は両親を失っておるからの。今の家族を守るためなら自分から動くと踏んでおった。角都は良い情報を齎してくれたわ。強大な敵を討つためじゃ。見える弱みはしっかりと突かねばの。三郎は軽蔑するか?」
「いえ、いいえ。出来よう筈もありません。父上が、毛利家が自分の足で立てているのは紛れもなく父上のおかげです。私は勇を振るうだけが武士では無いと思います。それに私には今敵陣に起きている現状を美しくすら感じます」
私の言葉に父が小さく笑いました。先ほどの昏い笑みとは違う、嬉しそうな笑みです。
「その感じ方は儂に似たの」
そう言って再び私の頭を撫でました。父に似た、という言葉がじんわりと胸に染み込んでいくようです。水軍だけでは足りません。私も父上のようになりたい。
一五四五年 毛利右馬頭元就
「三郎さえ良ければ、この戦が終わり次第儂と共に謀に関わるか?」
「良いので御座いますか?」
儂の提案に三郎は食い付いてきた。やはり兄弟の中で一番謀に向いているのはこの子だった。儂の謀に恐れを見せながらも目は爛々としていた。
太郎も謀を認めてはいるが騙し討つようなやり方はあやつにとっては心重かろう。
次郎には勘助(山本春幸)がおる。任せることも出来ようし学ぶ意思があれば学ぶじゃろう。あやつ自身直情傾向はあるが馬鹿ではない。
恐らくその辺も勘助から学べば化ける可能性がありそうだ。それに言い方は悪いが次郎の場合放っておいても勝手に育つ気がする。本人には言えんが。
三郎はなまじ頭が良いせいか上二人を立てようとするきらいがあった。一応水軍に興味を持っているようじゃがそれだけで終わらせるには三郎は惜しい。美しいと感じるその感性は謀向きじゃろう。
「太郎も次郎も謀を忌避している訳では無いであろうが気質的に一番向いているのは三郎だと儂は思うておる。どうじゃ?」
儂が問うと三郎は大きく首を縦に振った。その目は喜色に満ちている。話は決まりじゃな。この戦が終わり次第、三郎には儂の元で学ばせよう。
「是非、お願い致します」
「畏まるもんでもないわ、所詮は敵を貶めるだけじゃからの。さ、そろそろ幕引きとしようじゃないか。太郎がそろそろ敵を突破するじゃろう。小早川隊にも最後のひと踏ん張りを見せてもらおうかの」
「はい!必ずや父上と兄上に勝利していただきます」
「それでよい。さ、出撃の準備をして来い」
「父上は?」
「儂は暫くここで戦の趨勢を見させてもらうとするかの」
「分かりました。では失礼致します」
三郎が一礼して去っていくのを見送ってから再び戦場に視線を戻した。太郎のいる左翼の前線は虫食い状態で既に敵陣を突破しかけていた。このまま太郎の部隊は突破して民部少輔のいる軍を追うだろう。城下に入る前に次郎が敵の足を止めるはず。そこで民部少輔は挟み撃ちにして終いじゃ。
太郎が突破した後は三郎が後釜に入ってそのまま掃討戦に入る。
手強いのは中央の三河守か。右京亮が混乱に乗じて猛攻を加え、後ろからも内応した三刀屋に攻められておるんじゃがな。未だに統率を維持している。これだけ混乱させたにもかかわらずやるもんじゃ。
流石は新宮党を失った尼子の武を新たに担う男か。だが左翼の部隊がそのまま中央に流れ込めば三河守とて支え切れんじゃろう。
右翼の飛騨守(国司元相)と弥六(粟屋元親)には山名からの援軍の敵将の山城守(武田国信)を捕らえるように伝えているが上手くやってくれるかの。
死兵同然に扱われているのに維持し続けた統率力は並ではない。単純に兵を操ることに長けた男なのか、それとも国で善政を敷き慕われていたか。どちらにせよ優秀な男なのだろう。であるなら今後のことも考えてこちらの手駒にしておきたいが…。殺すにせよ捕らえるにせよ二人に任せるしかないの。
思考を中断するように持っていた軍配で掌を打った。
小早川軍も出撃の準備は整ったようだ。このまま逆落としの勢いで敵にぶつかればそれだけで左翼の前線は片が付くであろう。儂に気付いた三郎が馬上から会釈するのが見える。
このまま三郎の軍が去ったこの陣にいては危険だろう。
「さて我等も本陣に帰るとするか」
近習にそう声を掛けてから本陣へと足を進める。この戦場で尼子の軍はもう逆転の目は無きに等しかろう。ここまで戦の勝敗が決すれば日和っていた赤穴備中守光清ら国人衆も逃げるなりこちらに下るであろう。
もし逆転の目があるとすれば月山富田城への救援が成功した場合じゃが。こればかりは太郎と次郎に任せるしかないか。太郎が自信を持って出陣したのだ。可愛い倅たちを信じてやらねばの。
本陣に戻る頃には前線の喚声は随分と遠くなったように感じた。押しているようじゃ。これで良い。
「暫し考えたいことがある。外へ出ていてくれるか?」
「分かりました」
近くを侍っていた近習達に人払いを告げる。陣幕内は儂一人だけになった。
「くっくっくっ…」
自分でも驚くほどに情念が籠っていた。儂は儂が思っている以上に尼子を憎んでいたようだ。自然と笑みが漏れた。鬱屈したものが雪がれていくようだ。
愚かじゃのう、民部少輔。私心を殺しておれば我ら毛利を潰せたであろうに。お主が戦場に残っておればここまで敵は混乱せなんだろうに。
くくっ、ああ…、やはり堪らぬ。
これだから謀は止められぬ。人に弱味を見出し、その弱味を利用して心を操り敵を内部から崩壊せしめる。なんと心地よい体験だろう。何度味わってもこの恍惚感だけは忘れることが出来ぬ。この味は女体を味わうよりも甘露じゃ。その相手が尼子であれば猶更にの。逃げられるか民部少輔?逃げれば逃げるほどお前は絶望するじゃろう。この場で死ねた方が楽だったとな。
…こんな姿、誰にも見せられんわ。
大内家と中国地方を二分していた尼子家がいよいよ追い詰められている。儂の手によってだ。どれだけ足蹴にされても生き延びてきた。そしてついにこの好機が訪れたのだ。いずれ儂の元に息子たちから知らせが届くであろう。自慢の息子たちだ。
必ず滅ぼしてやるぞ、尼子よ。先代、経久公が如く、次は儂がお主等に馳走してくれる。
【新登場人物】
南条豊後守国清 1497年生。尼子家臣。伯耆国の国人。尼子に下っていたが領地問題から毛利に内応する。+33歳
赤穴備中守光清 1493年生。尼子家臣。交通の要衝である赤穴瀬戸山城を中心とする一帯を治める国人。+37歳




