水面下の攻防
一五四五年 佐世伊豆守清宗
「殿(尼子詮久)、伊豆守参りました」
「入れ」
陣幕の外から声を掛けるとすぐに中から殿の声が聞こえた。共に来た三河守(山中満幸)殿と陣幕の中へ入っていくと殿と共に新四郎(三刀屋孝扶)が中にいた。何故新四郎がいるのだ、という思いが過る。
「む?三河守も一緒か?」
私の後ろにいた三河守に殿が気付いたのかそう声を掛けた。
「はっ。伊豆守殿がこちらに呼ばれた際に共におりましたので私も殿へ報告しようと思いまして」
「成程な、丁度良かったかもしれぬ。二人とも座れ」
「はっ、失礼致します」
殿に勧められて二人で床几に腰を下ろした。それにしても丁度良かった?何か殿も話したいことがあったのだろうか。
「三河守、毛利の方は如何だ。何か足りぬものはないか?」
「毛利は中々にしぶとい。ですがこのままぶつかり合えば疲弊するのはあちらです。このままで問題は無いと思います。さしもの右馬頭(毛利元就)も手を拱いておる様子」
三河守殿は自信を持ってそう断言した。ここ数日、毛利が何とか押し返そうと必死に悪あがきを続ける中、前線で指揮をとり続けている三河守殿は毛利の軍をじりじりと押し続けている。こちらの奇襲を見事に止めた毛利は確かに巧みではあったがそこまでだ。連日こちらの攻撃を防ぐことに手一杯だろう。
だが三河守殿のこの発言にも殿は憂鬱そうな表情を、いやどこか不満げな表情をされていた。
「では、この場を一時お前に任せても問題はあるまいな?」
「…は?」
…待って下さい。…今、なんと?
耳に入れたくもない殿の一言にこちらの言葉が詰まる。頭の空白が埋まらない。何故、殿からその言葉が出てくる。危惧していた、恐れていた事態に胸がぐっと苦しくなるような錯覚を覚えた。それを私は言わせぬ為に…。
私と三河守殿が口を開けぬうちに殿がさらに口を開く。
「新四郎、あれを伊豆守と三河守に見せてやれ」
「はっ」
殿の後ろに佇んでいた新四郎がこちらに近付いてくる。何処か見覚えのある書状を携えて。そっと差し出された書状。新四郎の表情は何処か笑っているようにも見えた。
「読んでみよ」
「は、はっ、失礼致します…っ」
声が震える。書状を持つ手が震える。開くのが怖い。この書状には見覚えがあった。
はらはらと書状を開くと中にはもっとも殿に知られたくない月山富田城の状況が書かれていた。私が受け取ったものと同じものだ。
「この書状はどこで?」
言ってからしまったと思った。これではまるで知っていると自白している様なものでは無いか。今からこの書状は嘘だと言ったら信じて頂けるだろうか。いや、事実の可能性もあるのだ。余計なことを言ってこれ以上殿への疑心を抱かれては意味がない。
「新四郎の陣に兵が紛れ込んでな。そいつがこの書状を持っていたらしい。その後、新四郎はその真偽を確認するために自分の城と連絡を取ったそうだ。実際に吉川軍が私の居城を攻めていることが分かった。…その表情を見るに、やはり伊豆守は知っていたのだな」
殿も私の言葉の違和感に気が付かれたのだろう。その声には明らかな失望と苛立ちが含まれていた。
駄目だ、頭を働かせよ。そもそも新四郎はなぜこんなにも、私よりも早く情報が手に入った。
いや、今は殿へ弁明を。この戦場から殿が引かれれば優勢だった戦況などすぐに崩れてしまう。何としても引き止めねばならん。だが出来るのか。殿の私を見る目は冷たい。
「未だに確認が取れておりませんでした。情報の管理を任せて頂いておりながら速度が足りず申し訳御座いませぬ!月山富田城が攻められているならば救援は必須。すぐにでも一部を城へ差し向ける必要があるのは間違い御座いませぬ。ですが何卒!何卒殿では無く別の者に救援をご命じ下さいませ!殿が戦場を離れれば兵達の士気が下がりかねませぬ。何卒!」
床几から下り地面に頭を付けるように謝罪した。自分で言っていてなんと情けないことか。自分の怠慢の言い訳など出来ようはずもない。だが、殿が戦場から離れるのは何としても防がねば。
「止めるな伊豆守、これは既に決定事項だ。反論は許さぬ」
下げた頭の頭上から無情にも殿の声が耳に入る。
「月山富田城を攻める敵の軍は多くないはずです。であればすぐさま落ちるようなことは御座いませぬ。今、毛利は弱っているのです。お願い致します殿、救援でしたら私が参ります。この好機を手放せば次はいつこのような好機が巡ってくるか分かりませぬ。お願い致します!」
私の隣に人の気配を感じる。三河守殿も私と同じように頭を下げているのだと分かった。
「黙れ、三河守。お前は引き続き前線を維持せよ」
「三河守殿の申す通りです、殿!毛利は虫の息なのです、あと数日攻め続ければ疲弊した毛利は必ずや崩れるのです。毛利打倒は尼子家の悲願では無かったのですか!貴方の御父上、不白院(尼子政久)もそれを願っている筈です!殿!」
「黙れ伊豆守!!」
勢いよく立ち上がられた殿の足が私の肩を思いきり蹴飛ばした。体重の乗った強烈な蹴りに身体が後ろへと突き飛ばされる。
「言うに事欠いて我が父の名を持ち出し偉そうに代弁しおって何様のつもりだ!そもそも鉢屋衆の統括をしているお前は月山富田城が攻められている可能性があることを知っていて何故私に報告を怠った!今更どの面を下げて私に進言するつもりだ!月山富田城にはな、私の家族がいる!どうしてこのような場所にいられよう!お前が騙った父と愛する母を失い、尊敬する祖父には甘えることも出来ず次期当主としての教育を受けざるを得なかった。千代も子達もようやく出来た私の大事な家族なのだ!見捨てることなぞ私には出来る訳が無かろうが!私は行く、お前たち全員が止めたとて私一人でも城に行くぞ!!」
憤怒の表情に、フーッ、フーッと荒んだ殿の呼吸音だけが陣幕に響く。この場にいた皆の目が見開かれた。これだけ殿の御怒りになられた姿を私は見たことがあっただろうか。
御父上を失われた頃より殿は常に冷静で感情を表に出すようなことは無かったのではないか。心のどこかでは尼子家の為、興國院(尼子経久)様の跡を継ぎ、尼子家を輝かせることを第一と考えているのかと、そう信じたかった。違うのだ。軽く見ていた。
…そうか。殿にとってご家族というものは、それ程までに重いものだったのか。お家のことよりも重いのだ。私はついぞ知らぬことであった。今更になってその事に気付くことになるとは。家臣失格だ。
蹴り飛ばされ崩れた姿勢をすぐに直し三河守殿の隣に跪く。
「申し訳御座いませぬ…!」
殿をお止めすることは叶わぬ。そう悟った。短慮だと罵ることも出来る。もし殿を止めたいのならもうお命を奪うしかないだろう。だが奪ったところで何になる。後は求心力を失った尼子は毛利に喰われていくだけだ。どちらも出来る筈がない。
だがここで殿が引いたとなれば毛利を抑え切れるのか?いや、分からぬ。だが、既に殿の方針は決まってしまったのだ。ならばもう殿をお支えするしかないではないか。何を迷う必要がある。
頭を使え。それが私に出来ることではないか。殿を最短でこの戦場へと戻してみせる。勝たねばならぬのだ。この方を勝たせたい。
「三河守殿、前線をお任せしても宜しいか」
「伊豆守殿、何を…」
私は三河守殿に聞くと三河守殿は信じられないものを見たように私を見ていた。三河守殿に首を左右に振った。もう説得は能わぬものなのだと。三河守殿が天を仰ぐ。
「…分かり申した。何日でも毛利を止めて御覧に入れまする」
空を見上げていた視線が此方へと戻ってくる。その目には悲壮な決意が籠っているように見えた。
「忝い…。殿、先ほどは無礼な事を申し上げてしまい申し訳御座いませぬ。私が先陣として命を懸けて敵を蹴散らして御覧にいれまする。供をすることを許して頂けるでしょうか」
「…好きに致せ」
「はっ、有難く。その際に殿の影武者を本陣に置き、体調が優れないと味方に伝えましょう。殿が本陣から居なくなっても何日かは味方を誤魔化せるはず。味方の士気の低下を遅らせることが出来ます」
殿が小さく頷くのが見えた。まだ殿は私を信じて下さっている。その信頼に応えずして何が臣下か。
「新四郎、この場に居合わせた以上付き合ってもらうぞ。三河守殿と合力して敵に当たれ」
「畏まりました」
新四郎が小さく頷く。
「殿の旗下は多くは連れていけませぬ。殿の旗下百名。私の軍に紛れ込ませてから発ちます」
「伊豆守、もう一度お前を信じる。此度は裏切ってくれるなよ」
「必ず、必ずやご期待に応えてみせまする…!」
「では出るぞ」
「はっ!」
私の元には千近い兵がいる。月山富田城を攻める敵の数は分からぬが決して多くは無い筈。毛利の思い通りにはさせぬぞ。
一五四五年 毛利安芸守隆元
敵とのぶつかり合いも夜を迎えると互いに兵を退く。この繰り返しの日もそろそろ終わるだろう。この戦で味方の兵の多くが命を散らした。国を守るために戦った勇士たちだ。皆が本陣に集まるまで、両手を合わせて目を閉じた。こうして祈る日を何度繰り返しただろう。その勇士たちの死が無駄にならぬように、尼子との戦にケリを付けなければならない。
「殿、皆揃いましたぞ」
瞑目していると声が聞こえた。ゆっくりと目を開けると声の主は義弟の弥三郎(宍戸隆家)だった。
弥三郎の視線に小さく頷く。
「これより軍議に入る。今宵の軍議が最後となるだろう。皆、今日までよく戦ってくれた。この安芸守、心より感謝する。特に飛騨守(国司元相)、弥六(粟屋元親)、右京亮(国司元武)ありがとう。其方たちの活躍により我等は救われた。そして三郎(小早川隆景)は機転を利かせ良く前に出てくれた。お前は自慢の弟だ」
居並ぶ家臣達のなんと勇壮な事だろう。多くの者が血と埃に汚れ、傷だらけの者もいる。だがその目は一切の気力を失ってはいなかった。そんな家臣達に深く頭を下げる。
「頭を上げて下さい兄上。私たちは皆、出来ることに死力を尽くしただけです」
「いかにも三郎様の申す通り。一時は危うい状況となりましたがこのまましっかりと抑え込んでみせまする」
「ですが殿、最後の軍議というのはどういう意味で御座いましょうや?」
三郎、飛騨守と順々に言葉を重ねる。そして弥六が訝し気に首を傾げて疑問を投げかけてきた。皆も同じ疑問を抱いたのだろう。弥六の言葉に続く様に頷く。
「恐らく明日がこの戦の勝敗を分けることになるからだ。皆にはこの戦の全貌をまだ語っていなかったな。此度はただ守り切るための戦に非ず。尼子を滅ぼす戦である。明日、決着を付ける」
私の言葉に皆が目を見開く。当然の反応だろう。私は戦を始める前に安芸国を守れと命じた。ここからどう尼子家を滅ぼすのだと言いたいのだろう。
「まず皆に謝らねばならぬことがある。命を懸けて戦を重ねてくれた皆を謀ったこと申し訳なかった」
「謀った、とは?」
小さく息を吐く。三郎が皆を代表するように疑問を投げかけてきた。皆を見回してから口を開く。
「実は次郎は生きている。そして次郎は吉川軍を率いて単独で月山富田城を攻めているのだ」
『なんと』『まさか』と家臣達の驚きの声が漏れた。盛大な葬儀をしたし次郎の情報は秘中の秘としてきた。三郎でさえ知らずにいたのだから驚くのも無理はない。ガタッと床几の倒れる音と共に思わずといった具合で三郎が立ち上がった。
「…兄上、本当、ですか?」
「事実だ。お前にも隠していたこと、済まなかったな」
「次郎兄上が、生きている…」
三郎が腰を抜かしたように膝を折ってその場に座り込んでしまった。目からは一筋の涙が伝い、すぐに顔を両の手で覆った。三郎自身、次郎の穴を埋めようと奮闘していた。周りも三郎への期待が自ずと増した。私から見ても三郎は健気で痛々しかった。
そのおかげと言ってはなんだが三郎の成長は目まぐるしくこの戦でも前線を支えきり力を示したのだ。それこそ三郎自身も無理も重ねてきただろう。
次郎が生きていたという喜び、無理をしてため込んできた重圧からの解放、三郎の涙には色々な感情が詰まっているのだろう。策とはいえ私たちが秘匿としていたことが三郎を苦しめていたのだと考えると罪悪感にチクリと胸が痛む。
「良かった…、良かった…っ」
暫く陣内に三郎の嗚咽した声が漏れる。三郎のすぐ側にいた弥六がそっと三郎の背中を撫でながら『良かったですな』と声を掛けていた。武士が涙を見せるな!という声が聞こえてきそうなものだが三郎が努力をしていたことを皆が知っているため、次郎生存の報を聞き驚いていた皆もそんな三郎を優しく見守っていた。
「御見苦しい所をお見せ致しました…」
一頻り泣いてすっきりしたのか三郎が目をごしごしと拭うと恥ずかしそうに自身の床几の上へと戻った。小さく頷き話を戻す。
「先程も伝えた通り、月山富田城が攻められると敵も知ったのだろう。夕刻前に敵陣の後方に砂塵が見えた。恐らくこれは月山富田城への救援だろう。私と父はこの時を待っていたのだ」
何度となく窮地に陥りながらもなんとかここまで漕ぎ着けた。いよいよ反撃の時だ。皆の目も闘志に満ちている。
「皆、疲労困憊だろう。だが勝利は目前だ、あと少し私に付き合ってほしい。百万一心、それぞれがそれぞれを支えよ。良いな!」
「はっ!」
皆の声が頼もしく響く。私の後ろに控えている父に目配せすると父も小さく頷いた。
「それでは明日以降の作戦を伝える!」
【新登場人物】
三刀屋孝扶 1528年生。尼子十旗、三刀屋久扶の嫡男。+2歳




