生還
話は少し戻り元春が目を覚ましたところになります。
一五四五年 吉川少輔次郎元春
―――また死ぬのか。
うっすらと残っている意識の中、最初に思ったのはそれだった。
その後すぐに思い直す。こんなところで死んでたまるかと。
やりたいことが沢山あった。
一国人衆の一人でしかなかった親父(毛利元就)がどの勢力にも虐げられず、自分の足だけで立ちたいと願っていた。俺の正体を知ったうえでそれでも自分の息子だと言ってくれた親父の力になるのではなかったか。
俺の無茶を窘めつつも無理矢理止めさせようとはせず見守ってくれていたお袋(美伊の方)に兄貴(毛利隆元)。きっと俺が死ねば悲しませることになるだろう。受け入れてくれた家族を泣かせてもいいのか。
俺を信じて慕ってくれる三郎(小早川隆景)や、家臣達。俺に笑顔で手を振ってくれる領民たち。
こんな所で死ねる訳がない。俺のせいで少なからぬ影響をもたらしているんだ。その責任をこんな不意討ちの暗殺なんかで終わらせられる訳がない。それに吉川元春の名を無名で終わらせられるか訳が無いだろう。やっと、この時代に、武士として生きることに慣れてきたところなんだ。大好きな家族と家臣達と離れさせないでくれ。
死ねない。
死ねない。
死にたくない。
生きたい。
生きたい。
生きる。
生きる。
生きるんだ。
生ききれ。
生ききってみせろ、元春。目を覚ませ…!
一五四五年 佐東権兵衛金時
年が明けちまっただよ、次郎様。
もうすぐ次郎様が倒れてっから三か月経っちまうらしい。
次郎様は国では既に死んじまったことになってるらしい。こうしてまだ次郎様は生きてんのにひでえと思うが、勘助(山本春幸)様はこの場所にいる次郎様を守るために必要な事なのだと教えてくれた。むずっかしいことはおらには良く分からねえけど、確かに今もこの与四郎(田中宗易)様の御屋敷に敵が入ってきたことは一度もねえからやっぱり必要な事だったんだな。
勘助様は国の殿様と連絡を取り合ってたみてえで一度おらに『次郎様を頼む』と言うと、兵達を連れておっきな棺みてえな箱と一緒に安芸国に帰っちまった。また次郎様の命を狙う敵が来るんじゃねえかって心配になったけど死んだことになってるのに守ってたら怪しいだろう?と言われて成程なって感心しちまった。やっぱりお武家様は学があるんだなあ。
でもその後すぐに勘助様だけが旅をして回ってる坊様みてえな格好で戻って来てくれた。その時、与四郎様に次郎様の面倒を見てもらう代わりに銭こを払ったみてえだ。迷惑かけちまってるからな。でも与四郎様は嫌な顔一つせずおらや勘助様の面倒も見てくれてるんだ。おらも今は庭や屋敷の掃除、飯の支度なんかを手伝わせてもらって少しでも役に立とうと頑張ってる。おらは他の皆より身体が大きいから目立つってんで屋敷の外には出れねえが少しでも次郎様と一緒にいたいから外に出れないくらいへっちゃらだ。
こうして寝てる次郎さまを見てっといっつも胸がもやもやするんだ。
何であの時、おらは次郎様の盾になることが出来なかったんだ。おらの役目じゃねえか。お殿様に次郎様を頼むって言われたのによお。情けねえだよ。
ただの農民で大飯食らいだと家で邪魔者扱いだったおらを取り立ててくれた次郎様。何処に行くにも『行くぞ権兵衛!付いて来い!』って楽しそうに笑い掛けてくれる次郎様。
次郎様をあの時しっかりまもれていたらよ、こんな目に合わせずに済んだのになあ。ちきしょう。悔しいだよ。
あの狐みてえな女、逃げる時におらの顔見て笑ったんだ。おらを馬鹿にしたみてえに。ぜってえ許さねえ。
今も次郎様は眠ったままみてえに目を閉じたままピクリとも動いちゃくれねえ。すげえ小さく息を吸って吐くだけだ。飯も食えねえからすっかり痩せこけちまった。このままじゃ本当に死んじまうよ次郎様。またおらの作った飯を『美味いなあ』って褒めて欲しいだよ。
駄目だなあ。また泣きそうになってきちまった。泣きてえのはお殿様とか次郎様のおっ母、兄弟の皆様じゃねえか。守れなかったおらが泣くのはちげえだよ。
そろそろ夕食の時間だ。台所に手伝いに行かなきゃなあ。
「ご…べえ…?」
…え?今…。
空耳な訳がねえ。台所に向けていた足を止めて振り返ると寝着から細くなっちまった腕が弱々しく上がってるのが見えた。
「あぁ!あぁ…!」
次郎様が目を覚ましたんだ!早く勘助様と与四郎様に知らせねえと!
一五四五年 山本勘助春幸
権兵衛から『次郎様が目を覚ました!』と報告を受けた時、私は与次郎(世鬼政時)殿から右馬頭(毛利元就)様からの連絡を聞いている時だった。
次郎様はあの日尼子の忍びから毒を受けてそのまま意識を失った。幸いと言って良いのかは分からぬが辛うじて即死することは避けられたものの、熱を持ったままその熱は下がることがなく、徐々に衰弱し痩せ細っていく次郎様の身体。
私が長年かけて磨いてきた知識は何の役にも立たない。何故私は各地を旅して様々なことを学んでおきながら医術に目を向けなかったのか。もし軍学への情熱を少しでも医術へ向けていれば次郎様をお救いすることが出来たのではないか。悔やんでも悔やみきれなかった。私のような牢人を必要だと言って下さった次郎様が苦しんでいるにも拘らず私はただ見ていることしか出来なかった。
このまま死んでしまうのではないかと思われていた次郎様は右馬頭様から送られてきた角都という盲目の琵琶法師のおかげで何とか命を繋いでいた。
この角都殿は薬師という訳では無いらしいが、様々な薬草に精通していたようで毎日意識のない次郎様が衰弱せぬ様に薬湯を飲ませてくれていた。
ただ解毒に対しては手立てがないとはっきり告げられた。どんな毒が使われたのか分からないから下手に薬を飲ませたらそれこそ命を絶ってしまう恐れがあるという事であった。出来ることは少しでも命を永らえさせるだけ。
だが次郎様はついにその毒を乗り越えて命を吹き返したのだ。意識を取り戻したと報告を受けた時、安堵から私は涙が止まらなかった。恐らく与次郎殿も気持ちは同じだろう。表情は窺えなかったが与次郎殿も肩を震わせていた。権兵衛も顔をくしゃくしゃにしながら報告をしてくれた。
ただ目を覚まされたとはいえ衰弱しきった身体に無理をさせてしまってはまた命を縮めかねぬ。暫くは安静にして頂き体力回復を優先して頂いた。次郎様自身も会話する事すら辛そうであった。
それから五日ほど経過した今日、漸く普通に会話出来るまでに回復された次郎様と現状を伝えねばならん。部屋の外から声を掛けると今までのような快活な声では無かったが『入れ』と確かに次郎様の声が聞こえた。その声をどれほど心待ちにしていただろう。いかん、私も歳か。最近はすぐに涙が出そうになる。気持ちを落ち着かせてから襖を開けた。襖のすぐ側には権兵衛が控えている。
脇息に身体を凭れさせながら次郎様は外の景色を眺められていた。
部屋を暖かくするために置かれた火鉢の炭がぱきっと乾いた音を響かせる。まだ年が明けたばかりで与四郎殿の屋敷の庭も寂しいものであったが空は気持ちのいい青空だった。
手元には膳に乗った茶碗が置かれていた。器が空になっているのを見ると綺麗に食されたのだろう。良いことだ。目覚められてすぐは喉を通らず噎せるほどであったらしい。
次郎様の傍らには角都殿が薬湯の用意を終えたのか薬研などの道具を片付けている。膳の上にある湯飲みは湯気を立てているから出来上がったばかりなのだろう。
「またこうして空を見られるとは思わなかった」
ぽつりと呟かれた次郎様の声に言葉が詰まる。本当にその通りだ。次郎様が亡くなられたら私は腹を切って死ぬつもりだった。こうして共にまた空を眺めることが出来て良かった。
「誠に。御快癒、目出とう御座います。御加減は如何でしょうか」
外へと向けられていた視線がこちらへ向く。あの逞しい体つきをされていた次郎様とは思えぬほどに痩せられてしまったが寝込んでおられたころに比べれば随分と良くなられたようだ。
「存外に悪くない。勘助、権兵衛にはもう言ったが心配を掛けた。本当にすまん」
深く頭を下げる次郎様に慌てて声を掛けた。
「何を仰います次郎様、我々がもっと警戒をしていれば次郎様が襲われることを防げたはず。こちらこそ、大変申し訳御座いませぬ!」
「いや、俺の責任だ。油断しているつもりは無かった。でも今思えば油断していたんだろう。俺を狙う人間なんていないだろうってな。ここは安芸じゃないんだ。敵から見れば好機だっただろう。俺のせいで苦労を掛けた。本当にすまん。この通りだ」
「お止め下され次郎様。主にそうまで言わせてしまえば我ら家臣の立つ瀬が御座いませぬ。我等こそ主を守ること叶いませなんだ。申し訳御座いませぬ」
床に頭を打ち付けるように謝罪した。私自身も昇竜の如く領地を増やしていく毛利家の勢いに慢心していた。このまま何処までも登っていけるのだと調子に乗っていたのだ。なんと情けない。何のための家臣か。
「やれやれ、ふたりはいつまで頭を下げ合ってるんだい。謝り合う暇があるんなら反省して次に生かさにゃ意味がないとあっしは思うがね」
二人で頭を下げ合っていたのだろう。見かねたのか、呆れたように角都殿の声が響いた。目が見えないにも拘らず角都殿の感覚は鋭い。
「そう…だな。角都の言う通りだ。勘助も頭を上げてくれ」
「…はっ」
次郎様の言葉におずおずと頭を上げる。次郎様は苦笑されていた。
「今回のことで理解した。俺はもう命を狙われる立場なんだってな。もう二度と油断するつもりはない。勘助、今後も支えてくれ」
「命尽きるまで、必ず」
「うん、頼りにさせてもらう。それで、現状を説明してくれるか?」
「畏まりました」
それから私は毛利家を取り巻く現状を次郎様に説明していく。次郎様は亡くなっていることになっていること等だ。
「俺が生きてることを知っているのは?」
「されば右馬頭様、美伊の方様、安芸守(毛利隆元)様、式部少輔(吉川経世)殿、少輔七郎(市川経好)殿、長次郎(世鬼政親)殿、弥太郎(世鬼政棟)殿、与次郎殿、私、権兵衛、角都殿、与四郎殿で御座います」
「それだけか?」
訝し気に聞き返す次郎様に小さく頷く。
「右馬頭様は、次郎様の死を偽装して尼子を再びお釣りになるお考えのようで御座います。その為にはまず御家中を騙すことが肝要と」
「敵を騙すにはまずは味方からってことか」
「然り。」
それを聞いて次郎様は表情を崩された。当然だ。自分が生きるか死ぬかという状況を利用されれば誰だっていい気分はしないだろう。
「右馬頭様はすまぬと謝っておられました」
右馬頭様も心苦しさはあっただろう。可愛がっている息子の死を利用してまで敵を罠に掛けようとしているのだ。だが右馬頭様の立場では仕方のないことだ。振り上げられた敵の刃を払うにはそれ相応の覚悟がいるのだから。だが次郎様は意外そうに目を開いた後慌てて首を左右に振った。だが暫く動かしていなかったせいか首を振った動作自体に痛みが走ったらしい。表情が歪む。
「御無理をされてはいけませぬ」
慌てて腰を浮かし掛けるも次郎様に手で制された。
「痛っつつ。いや、大丈夫だ。…当たり前のように動かないのは辛いな。それと親父を責めた訳じゃない。他の家臣達には言わないんだろ。混乱しないか心配したんだ。特に吉川家は大丈夫なのか?孫四郎(今田経高)辺りは騒ぐだろうし、平左衛門(宇喜多就家)も気が気じゃないだろう?」
「際どい均衡を保って何とかなっています。実際吉川家は次郎様の跡をどうするかで混乱しています。家中では少輔七郎殿に継いでもらおうという動きが御座いますが少輔七郎殿自身は次郎様が生きていることを知っています。『私では次郎様の跡を継ぐのは荷が勝ちすぎる』と消極的な姿勢に終始しており吉川家では大きな動きが出来ません」
良くも悪くも今の吉川家は次郎様が自由に皆を振り回し家中でもそれを楽しむ風潮が生まれていた。
少輔七郎殿もその一人だ。今更吉川家の当主として動こうとすれば自ずと次郎様と比較される。少輔七郎殿が悪い訳では無いが求心力は格段に低くなろう。一応筋は通っている。尼子もそれを信じたようで吉川家中に手を伸ばそうとして来ているらしい。世鬼衆がその動きを警戒していたため実行できずにいるようだが。
「七郎には嫌な役を押し付けちまったか。戻ったら名誉を挽回させなきゃな。っと、権兵衛、悪いが粥を少量、おかわり貰えるか?」
申し訳なさそうに呟いた次郎様が不意に椀を手に取ると出入り口近くで控えている権兵衛に声を掛けた。権兵衛が『んだ』と応えるとその身体に似合わぬ素早い動きで椀を受け取る。次郎様の食欲があるのが嬉しいのだろう。にこにこと笑いながら外へ出ていった。
「悪いな。量が食えない分回数増やしてるんだ。食いながらで行儀が悪いが」
「いえ、ですがそのように食べても大丈夫なのですか?」
「身体は特に不調は感じてないな。それに、多分だが尼子が今年動くだろう。吉川が混乱してるんだ。好機とばかりにまた攻めて来る。親父も煽るだろうしな。だから可能な限り体力は回復しておきたい」
確かに右馬頭様はそのように考えられている。だが、まさか…。
「その戦に出られるおつもりですか?」
「出る」
なんと…。
「無論倒れる前みたいに何日も山で訓練しても倒れない体力馬鹿に戻れるとは思わねえけどな。でも戦える体力が戻るなら俺は出るぞ」
…無茶では無いだろうか。確かにここ数日で骸のような痩せこけていた身体も少しずつふっくらしてきている。枯れ木のようだった肌も艶を取り戻してきているように見受けられるが。それに尼子との戦には吉川家は元から計算に含まれていない。吉川家無しでも勝算ありと。出陣を止めようと声を掛けようとする前に次郎様が話し始めた。
「考えが少し変わったんだよ。前は死ぬのが怖くて仕方なかった。戦の時は無理矢理笑みを浮かべて自分を鼓舞して怖いのを見ないふりしてさ。でも違った。今回死にかけて、本当に怖いのは死ぬことじゃない。死ぬのが怖いんじゃない。何の役にも立たず死ぬのが怖いんだって。あの怖さを知っちまったらさ。戦が怖い、死ぬのが怖いなんて言ってらんなくてさ。勿論、意味があれば死んでもいいってわけじゃねえぞ?でもこうして生きてるんだから俺は俺が出来ることを全力でやりたいんだ」
次郎様の言葉に情けないことだが反論する言葉を見つけられなかった。私にも痛いほど次郎様の気持ちが分かってしまった。逼塞していた私と同じだった。
今川家に戻った私はただ生きているだけだった。あの無力感は気付いてしまえば死ぬよりも怖いものだ。それを抜け出すためなら命すら惜しくないと思った。
その思いは他人にどうこう言われても抑えられるようなものでは無いのを私が一番良く分かっていた。
ここで止めぬ私は家臣としては間違っているのだろう。だがこの痩せこけた身体で、次郎様の目は別の生き物のように爛々と、覇気と活力に満ちていた。
「…分かりました。次郎様の体力が戻られるよう私もお手伝いさせて頂きまする」
「んっ!頼む勘助。さ、そのためには腹ごしらえだな。先ずは一月で歩けるくらいにはならねえと」
話が途切れたところで丁度良く権兵衛が粥の入った椀を持ってきた。それを受け取った次郎様はゆっくりと味わう様に食べ進める。
私も既に四十を過ぎて五十に近い。少しでも長くこの方にお仕え出来るように私も長生きしよう。
「私も食事の供をしても宜しいですか?」
「おう、いいぞ。権兵衛も角都も腹が減ってたら一緒にどうだ?やっぱり飯は皆で食うのが美味い」
次郎様の掛け声で私と権兵衛、角都殿も一緒に食べ始める。後から与四郎殿も合流して皆で楽しく食べた。こうでなければ吉川の飯では無いのだと思った。




