石鹸と卑屈
一五三五年
戦は順調という報告が来た。
多賀山通続が立て籠もる蔀山城を囲み、兵糧攻めにしていると親父の手紙には書いてあった。親父はかなりの筆まめで戦場でも頻繁に手紙を出しているらしかった。戦場で書いたとは思えないほど長文の時もあり何かと説教臭い。でも心配してくれてるのが分かる文だった。
読みやすい様に俺や徳寿丸には漢字の少ない文章だ。この時代の文字は蛇が這ったような文字で読みづらいから俺は勝手にちゃんと書くようにしてる。親父はそれを見てこの方が読みやすいと取り入れてくれたため俺からしても親父の文は読みやすかった。親父が戦で死にませんようにと毎朝太陽に向けて祈っている。親父の真似だ。
そんな日が過ぎる中、俺は今台所にいた。
どうしても欲しいものがあったのだ。それが作れるんじゃないかと台所に来た。欲しいのは石鹸だ。
どうしても我慢が出来なかった。前世の記憶がある俺には洗う習慣のない、衛生管理という概念すらない今の世界が我慢出来なかった。
そりゃ手拭いなんかを濡らして身体や髪を拭いたりはしてるけどさ。それでもなんか泡あわしないと気が済まなかった。綺麗になってる気がしないんだ。なんか痒くなるような錯覚すら覚えた。だから何とか作りたい。
前世の俺は割と物知りで記憶の中には石鹸を作っていた。ただ物知りと言っても結構朧げな記憶も多く、なんとかソーダだの使って作っていたみたいだが、当然そんなものはこの時代にはない。ただ他にも灰と油があればとりあえず簡単な石鹸は作れることを知っていた。きっとサバイバルでもする気だったのだろう。有難う、前世の記憶。これで身体が洗える。
灰はかまどに溜まっているし油もある。きっとこの時代高価そうだから多用は出来ねえかな。
とりあえず灰と水を一緒にしといて、しばらくしたら灰汁が染み出た上澄みを油に混ぜる…だっけか?あー、こんな事になるならしっかり前世で作ってくれりゃ良かったのに。俺の馬鹿。こうなりゃ自分で色々試すしかないか。
失敗したら悪戯程度で済ませてもらえるかな。でも貴重なものだろうし怒られるだろうな。怒られる覚悟だけは決めておこう。今は怒られることよりも身体を泡あわ洗う方が俺には切実な問題だ。試して駄目なら諦めもつく。
さっきから通りがかる人には怪訝な目で見られている気がしないでもないが、既に若干、というか大分?変な子扱いされ始めているのだ。ならばその評価ごと利用してやれ。
そろそろかな。なんか汚い水の色だけど一緒に入れた灰とかは沈殿したみたいだしこれでいいだろ多分。後は沈殿した灰が混ざらないように上の灰汁だけを油に移して…と。
これを練りねり混ぜ合わせれば簡易石鹸の完成だ。いや、本当に完成だよな。いやいや、自分を信じろ。俺は元春、鶴寿丸。きっと大丈夫…お、なんか重くなってきたような気がする。いいんじゃねーのこれ。これならなんか固まりそうだ。後はこれを放置しておけば固まって完成のはずだ。完成のはずだよな?
一五三五年(天文四年)毛利 松寿丸
「鋭ッ!鋭ッ!」
「突きが甘い!疲れた時こそ死力を尽くすのです、敵は待ってくれませぬぞ。さあ、腕が疲れても突く!動かなくなっても突く!」
鶴寿丸が必死に長い木製の直棒を突き出しては相手をしている熊谷次郎三郎信直に転がされていた。泥だらけになりながらも鶴寿丸は懸命に喰らい付いている。
私は先に鍛錬を終え鶴寿丸の鍛錬を見ていた。あ、また転がされた。それにしても次郎三郎は鶴寿丸には特に厳しいな。だがその厳しさも期待の表れなのだろう。そしてそれについていく鶴寿丸の槍の扱いは日に日に上達していた。
この次郎三郎は、元は武田家の家臣で敵対していた男だ。どうやら過去の戦で次郎三郎の父は私の父に討たれているらしい。だがその後、私が生まれた頃の戦で次郎三郎は父の指揮下で戦うことになり目の前で見た父の采配に感銘を受けた。それ以来元の主君である武田家から毛利家に鞍替えをしたという経緯がある。
新参ゆえに古参の家臣たちから白い目で見られることもあるが、次郎三郎の父への忠心は篤い。そして父もこの次郎三郎を信頼している。居城にこうして留守居を任せているし我々兄弟の鍛錬を監督させているのだ。
あ、また転がされた。すっかり泥まみれ、傷だらけだな。
それにしてもこの鶴寿丸も負けん気が強いというか、必死さが滲み出しているようだ。どうしてこんなに必死なのだろう。どこか鬼気迫るものを感じる。私が同じ年の頃、同じように転がされては泣いて、その度に「泣くな!」と怒られたものだ。
そう考えると鶴寿丸はすごいな。そしてすごいと思うと同時にいつものように胸がちくりと小さく痛んだ。きっと私よりも武才があるのだろう。幼いが鋭い突きを見せている。それが羨ましい。悔しい。
私も苦手ではないと思うがあそこまでの気迫は持てない。どうして私にあれほどの武才が無いのだろう。だからこそ余計に羨ましく思うのだ。…いや、何を馬鹿なことを。可愛い弟に嫉妬などしてどうする。応援こそすれ妬む必要などないはずだ。だが、それでも…。
「日に日に腕を上げられますな。鶴寿丸様。先が楽しみに御座る。それでは今日はここまでと致しましょう」
「はあ、はあ…、次郎三郎。有難う」
ようやく鍛錬は終わったようだ。次郎三郎は鶴寿丸に一声掛け微笑むと次に視線を私に移す。そして深く頭を下げた。応えるように私も小さく頷くと次郎三郎はそのまま去っていった。
私はすぐに鶴寿丸に駆け寄る。襤褸切れのようだ。鶴寿丸も四つん這いになり必死に呼吸を整えようとしていた。その必死な姿にまた胸が疼いた。
「鶴寿はすごいな」
「え?…なに、が?」
いつの間にかそう口にしていた。言ってしまっていた。
先程までずっと俯いていた鶴寿丸は頭を上げた。そして不思議そうに私を見る鶴寿丸と目が合う。何故か視線を逸らしてしまった。
必死に見ないようにしていた嫉妬の気持ちが思わず口から洩れていた。思えば私はいつもそうだ。何でも出来る父上を見てはいつも自分の不出来さが目に付いた。
父以外でもそうだ。刀を巧みに使う者。槍を鋭く突ける者。狙い通りに矢を放てる者、馬を上手に乗りこなす者、何か自分より秀でている能力を持つ者たちを見る度に羨ましく妬ましかった。
それに忙しい父上はどれだけ私が努力しても褒めたりはしてくれなかった。ひょっとしたら父上から見ても私は物足りないのかもしれない。
そして今は弟も妬ましい…。何て私は浅ましいのだろう。言ってしまったことが恥ずかしくて視線を逸らす。なんと情けない!鶴寿丸はなおも不思議そうに私を見ていて余計に恥ずかしくなった。私が黙っていたせいか鶴寿丸が更に言い募った。
「兄貴のほうがすごいじゃんか」
「謙遜はよしてくれ、鶴寿。私はお前ほど武才はない。私は、私はお前が羨ましい。不出来な自分が情けないのだ。お前には分らぬだろう。お前も私を大したことないと思っているんだろう?」
一度口から出てしまった嫉妬は隠せなくなっていた。こんなことを弟に言ってどうする。慰めてもらうつもりか?馬鹿馬鹿しい。
くそ、私は何を言っているのだ。自分で自分に腹が立ちながらも口は勝手に冷たく投げやりな言葉を鶴寿丸にぶつけている。そして言葉をぶつけるうちに自分が情けなくなり自嘲するように笑みが漏れてしまった。
そうだ、どうせ鶴寿丸も私を笑っているんだろう。視線を鶴寿丸に向けるとぽかんとしていた鶴寿丸の表情が徐々に赤く染まり怒る様に睨むと怒声を上げた。
「なに言ってんだよ兄貴。本当にそう思ってるのか!何勝手に俺の気持ちを決めつけてんだよ!俺の気持ちを勝手に決めるな!なんでそんな、そんなかっこ悪いこと言うんだよ、兄貴は俺の憧れなのに…。俺は兄貴みたいになりたいと思って頑張ってんのに!兄貴がそんなかっこ悪いこと言うなよ!」
…は?憧れ?私みたいになりたい?鶴寿は何を言っている?どうして怒っている?鶴寿丸が何を言っているのか一瞬、分からなかった。思考が停止する。理解できなくてただ鶴寿丸を見ていた。すると鶴寿丸はさらに言葉を重ねてきた。
「俺は兄貴みたいに字は上手く書けないし、親父を手伝ったり政務をこなしたり出来ない。あんな紙切れの内容を見たってちんぷんかんぷんだ。槍だって兄貴みたいに綺麗に躱したり突いたり出来ないし、俺なんて力いっぱい振り回してるだけだ。色んな人に声を掛けて、色んな人を気に掛けたりも出来ない。兄貴みたいに色んな人から慕われてない。そうやって色んなことが出来る兄貴は俺の目標なんだ。こんなに色んなことが出来るのに大したことないなんて言うなよ!そんな情けない顔するなよ…っ」
そう言って怒っていた鶴寿丸の目からは涙が零れ始め泣き出した。大粒の涙をぽろぽろと地面に溢して。声も出さずに私を睨みつけながら。普段から滅多に泣かない弟が。鍛錬でも絶対泣かなかった鶴寿丸が、私のために泣いていた。
…ああ、そうか。鶴寿丸からは私がそう見えていたのか。そんなことも分からず、私を目標としている鶴寿丸に、私はなんと馬鹿なことを私は言ってしまったんだ。なんて情けない。
さっきまで嫉妬していた弟にこんなことを思わせてしまうなんて。言わせてしまうなんて。
私の知らなかった、気付かなかった私の美点をこんなに鶴寿丸は知ってくれているではないか。悔しそうに顔を歪め、必死に泣きながら私を睨む鶴寿丸を強く抱きしめた。
「鶴寿、すまぬ…っ。私はお前に情けないことを言ってしまった。私は情けないことにお前に嫉妬してしまっていた。お前はそんな私をいつも目標として見てくれていたのだな。すまぬ。情けない兄を許してくれ…っ」
「…もう、兄貴は自分のこと悪く言わないか?」
「言わぬ、約束だ。いつまでもお前にかっこいいと思われる兄でいるよう努力する」
「じゃあ、許す。でも罰だぞ兄貴。俺に色々教えてくれ。兄貴にもっともっと色々教えて欲しいんだ」
腕の中で私を見上げていた鶴寿丸はそう言って先ほどまでぽろぽろ零していた涙を袖でごしごしと拭うと赤らんだ顔で嬉しそうに笑った。
もう、誰かを見て妬むのは止めよう。きっと私よりも優秀な人間は沢山いるのだ。それを認めよう。認めたうえで超える努力をしよう。
…そうか、私は誰よりも一番になりたかったのだな。だから周りに出来る人間がいると羨ましく妬ましかったのだ。
はは。自然と笑い声が出た。そうか、なんと欲深い。だがきっとそれでいい。いいのだ。この気持ちはきっと私の原動力になる。この原動力が私をこれからも努力させてくれる。弟に尊敬される、憧れだと言ってもらえる兄であるために。父上の後継者として弟たちを、この毛利を守れる男であるために。
こうして二人で仲良く手を繋ぎながら屋敷の中に入った。この後、弟が取り出したある物を差し出され驚かされる。全く、鶴寿丸には敵わぬな。だが良い弟を持った。素直にそう思えた。




